Lost
真木清明
Lost in this memories
『次なる世界に望みを』
確かそんな文言だったような。ふと、リンクを押してから。俗に言う自殺オフ会に申し込んでから数日。青年は集合場所に向かっている。道中の峠道は、運動を得意としない身体には微笑まなかった。
「車、買っとけばよかったかな」
人影が見えてくる。指示通り迷わず来られたのであれば、おそらくここが。
「……意外といるもんなんだな」
小鳥の歌が木々を彩った。数の方は二十人ほど、男女比はおおむね半々といったところだろうか。SNSで募集をかけたからか、やはり若者が多い。今は平日の真っ昼間だ。何かが違っていれば、彼らは今頃通学なり通勤なりの最中だったのだろう。
けれど確かに、闇が見え隠れしている。後になって「まさかあの人が……」などと評されるのはこういうタイプかもしれない。
「はいはいっ! それじゃみなさん注目~!」
向こうで女の声がした。高らかに掲げられた旗の下、そこで佇む三十代ぐらいの女が主催者なのだろう。場違いなほど陽気な声色だったが、途中で取りやめたり、逃げ出したりしそうな気配は微塵もない。
ふと駐車スペースに目をやると、一台のマイクロバスが停まっていた。ツアーという名目で貸し切ったそうだが、借り主共々返ってくることはない。言葉通り走る棺桶と言ったところだろうか。三十分も経つ頃には、青年たちは皆その奥へと納棺されていた。
会話はない。当然と言えば当然だ。ここに納められた二十数人全員が、お互い今日ではじめましての関係でしかないのだから。他者とのコミュニケーションを得意としているならば、そもそもこのような集いには参じなかったかもしれない。
ただ、窓に映る景色が移ろい変わるだけ。数キロ先の死が、次第に数百メートル先まで迫ってくるだけ。
青年は隣の参加者が気になっていた。見たところ中学生か高校生ぐらいだろうか。不健康そうな、こじんまりとした少女だった。そんな体躯とは不釣り合いなほど大きな本が、彼女の膝に陣取っていた。
「はじめまして。こんにちは」
文字通り座して待つ、としゃれ込んでもよかったが、それも退屈なのであえて話しかけてみる。少女は一瞬怯んで、それからおずおずとあいさつを返した。
「君は……どうしてここに?」
「……なんだか申し訳なくなったんです。自分だけ楽して、生きてるのが」
少女はフードを深く被り直した。本人が言うには、 「最小限の労力で何百万も何千万も稼げる仕事」に就いているらしい。
青年にはそれがホラ話には思えなかった。どういうわけだか、彼女の紡ぐ言葉にはそう思わせるだけの説得力があった。
そんな職が実在するというのも、そもそも現代の先進国で子供が働きに出ているというのも驚きだ。しかし「絶対にあり得ない」とは言い切れないのが、この現代社会の暗部の一端には違いないのだろう。
「そりゃ羨ましいな……。で、どういうのに?」
「呪術師です」
脳が硬直する。理解を拒んだ。聞き直したが、やはり同じ返答が返ってくる。
近頃流行りの漫画に、そういう趣きのものがあったような気がしたが。
「一回人呪い殺すだけで普通一生かかっても稼げないぐらい、それぐらいお金入っちゃうんですよ……」
――だから、今も真面目に働く世間一般の方々に申し訳なくなって、それで……。
普通なら冗談と思うところだが、やはり彼女の説得力がそうはさせなかった。よく見れば彼女の本は、地球上のどれでもないであろう言語と文字と思わしきもので記されていた。 その文章自体も怪しげな光を纏っている。
「マジで言ってる? それともやっぱ、そういうお年頃だから?」
「やだなぁ。マジですよ、ほら。……ね?」
彼女が指差した先。 向かいの席に座っていた大学生らしき男。男は一瞬、声にならないうめき声を上げたかと思えば、次の瞬間音もなく机に突っ伏した。それに巻き込まれる形で、卓上のペットボトルがなぎ倒される。決して偶然ではないと、青年は直感的に理解した。
コーヒーが床を黒く染める。景色が流れる。そして当の少女は、我が手を血に染めても何の感慨も抱かない様子だった。人殺しの禁忌。その罪悪感から逃げたわけではない。「そもそもそんなものはないのだ」と悟ることは容易だった。
「初めから全員やっちゃえばよかったんじゃ……。死にたい人の集まりだよここ」
「嫌です。お金になりませんし」
今のはあくまで見本ですから。そう付け加えた。
「……これから死ぬんだけど?」
「それでもです」
ここに至っても、少女と金銭欲は切っても切れない間柄であるらしい。
「なんだか矛盾してるね。色々と」
「人間矛盾してなんぼ、でしょう?」
そうまで言い切られてしまえば、青年は苦笑するほかなかった。
「ところで、そういう、あなたは……?」
「正直特に理由はないかな。なんとなく、というか」
今度は少女の思考がフリーズしたようだった。このバスは山奥の、さらにまた奥へと舵を取っている。 逃げ出したところで無事に市街地まで戻るのは困難を極めるだろう。行きの苦痛を鑑みればなおのことだ。
なお未練があるらしき死者予備軍は、そもそも乗り込む前に踵を返していた。結局のところ、死体が棺桶から這い出ることはない。そういうことだ。それは青年も承知の上で、ここまで足を運んだはずだ。
「えっ、じゃあなんで?」
「なんで、か」
一瞬何かがゆらめいて水底に沈む。線が像を結ばない。また、別の何かが浮かんでどろどろに溶ける。灰暗い記憶の底に。
「……なんでだったっけなあ」
それを何度か反芻するうちに、青年は考えるのをやめていた。思い返してみれば、参加したことにやはり動機などなかったのだ。
「参加者の心理を知りたい、とか?」
「どうでもいいなあ」
死にたきゃとっとと死ねばいい。
「"向こう"が気になるとか?」
「それもないなあ」
人並みに興味はあるつもりだったが。
――ただ、僕が死にたいと思ったから死にに来た。それだけだよ。
強いて言うならばね、と付け加えた。考えるのも面倒だったし、何よりそれ以上言葉を編むことも面倒だった。
「変わってますね」
「そうかな」
今思えば、がらんどうの自分がたまらなく嫌だったのかもしれない。見れば、景色はまた変わっていた。数百メートル、数十メートル。留まることなく、ずっと。地獄へ、地獄へ。
「そういやさ、さっきのアレどうやるの?」
糸人形のように、先ほどの男はシートベルトに縫い付けられていた。
「……ああ、やってみます? 意外と簡単ですよこれ」
小さな血溜まりを作り、そこに呪い殺したい対象を思い浮かべるだけでいいと言う。なるほど、確かに少女の指先は傷ついているし、机にも血溜まりの跡が這っている。
しかし「意外と簡単」とは言うが、それはそれ相応の才能や素質を宿し、それ相応の研磨を重ねている前提の話なのだろう。青年は察していたし、少女もまたそれを知っている。だから戯れに教えたのだろう。「銃さえあれば誰でも凄腕のスナイパーになれるのか」と問われれば、当然答えは決まっている。
「……自分は呪えないの?」
「できるんなら私、今頃ここにいませんよ」
――心の奥底では必ず、自分だけがかわいいと思うエゴが巣食っている。己の手ではどれほど力を込めて首を絞めても、そのうち必ず離してしまう。だから、わざわざロープやら剃刀やら、銃やらに頼らざるを得ないんです。
それは彼女の得た教訓であり、真実だったのだろう。そこに至るまでの道のりは、もう誰も知ることはない。
「ま、いいや」
おもむろに青年は剃刀を取り出した。しくじった時の為、もしくは苦痛が想定より長引いた時の為の保険として持参してきたものだった。そして青年は、迷うことなく手首に刃を落とした。もう隣の少女など見えていない。
「やってみるか」
呪いたい相手はまだ考えていない。青年にとってこれはコイントスのようなものだった。このまま死んでもいいし、最後の最期に人知を超えた力に手が届くならばそれはそれでまた一興。表が出るか裏が出るか。自らの命にしても、秤にかければ必ず浮き上がる程度のものだった。
消えゆく命の灯火は、青年を導いていた。真に呪うべきは何者か。それを照らして、示してくれた。
ぼたり。血溜まりが広がる。青年の顔がゆらめく。
「……そうだな。 やっぱり僕には、何もない」
――その裡は、焼き物のように空虚なんだろう。生きていたくないくせに、死にたくない理由も見出せなかった。あの日オフ会の募集を見た時、その現実を喉元に突きつけられた。そうだ、だから嫌になった。僕は死にたくなったんだ。
意識が揺らぐ。青年もまた机に突っ伏しかける格好になった。今度は自分の目が映った。
「なんて目だ。なんて醜いんだ」
――瞳孔の向こうが見えそうだった。決して満たされない、がらんどうな本性が透けて見えそうだった。
ずきり。痛みが青年の本性を掘り当てていた。
「誰も僕に、何も与えてくれなかったじゃないか」
――誰も僕を満たしてくれなかった。こんなに飢えているのに、救いを求めていたというのにみんな僕を無視したんだ。
エゴが青年を食い破る。呪うべき敵が血溜まりに浮かびはじめた。青年は全てを、血溜まりに見出した。 家族が浮かび、友人が浮かび、その次は。
「そうだ、もう。僕を助けてくれないなら」
車窓は、ただ一面の暗黒を映していた。膨張して、 世界を平らげる虚無そのもの。それが少しずつ、こちらに狙いを定め始めていて。
「……こんな世界なんて」
少女、いや、全人類にとって最大の誤算と不幸は、この青年に類い希なる呪いの才能が眠っていたことだろう。
そして今、王子様のキスがお姫様を呼び覚ましてしまった。もう制止も間に合わない。血溜まりに宇宙が映った。刹那、溢れんばかりの虚無がこの世を呪い殺した。
目が覚める。思わず目をぱちくりさせた。上も下も、横も奥行きもない。今、青年は一人虚無の中に沈んでいる。
「……あははっ、すごい! すごいや! えーと、なんて言ったっけあの子」
――いいか。もう、どうでも。
得も言われぬ高揚感に包まれる。そこはすでに、光も闇も、空も土も草木も花も建物も生物も人も全てが存在しない世界だった。叫んだって誰も答えやしない。ありったけの心地よさと虚しさに、胸が満たされていくのを感じた。
けれど手首からはとめどなく、血が流れ落ちていた。滴はみな、底なしの黒に混ざって、飲み干される。次第に鼓動も弱まっていく。自分もまた、これから虚無に溶けるのが嫌でもわかった。
「ははっ。どうしよう」
憎かったものはもう何もない。欲しかったもの全てが、今この手の中にある。
ざまあみろ。僕はこんなに満たされている。もうがらんどうじゃないんだ。
黒ずんだ世界に、高笑いだけが染み渡った。
「やばいなあ」
ここに至ってようやく青年は、
「死にたくなくなっちゃったじゃん」
生きる喜びを見出したのだった。
Lost 真木清明 @LifelineLight2005
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