ガラスの日本を救え
モリシュージ
第1話 近代は宗教である
日本人なら誰もが日本を近代社会だと思っている。いや今では世界中の人間が日本を近代社会だと思っているだろう。
だが「近代とは何か」を知っているひとがいるだろうか。
「近代とは何か」を知らないのであれば、如何なる国をも近代社会と呼ぶべきではない。
私の考えでは近代とは一神教の宗教である。
宗教である限り信仰の対象がある訳だが、近代の場合それは「客観」である。
近代化以降のヨーロッパやアメリカにおいて、サイエンスやテクノロジーが発達したのは彼らが「客観」を信仰しているからである。
サイエンスとは、真理を探究する事だが、その手段は客観信仰によるものだ。手段が客観的でなければ、それはサイエンスとは言えない。
弁証法による裁判も、結論より過程が重要である。
そして当事者の証言よりも、第三者の証言の価値が高い。
それは基本的に当事者が主観的で第三者が客観的だからである。
だから近代以降の裁判も、やはり客観信仰なのである。
近代が生んだ文学のジャンルにミステリーがあるが、ミステリーはいわば、「客観至上主義文学」である。ミステリーの主人公は客観だけを信じ、それ以外のすべてを疑っている。
客観とは、無色透明の視線である。
人間の主観には必ず色が付いているが、神の視線には色が付いていないはずである。
神の視線に色が付いていたら、宇宙を支配する存在が公平では無いことになる。
その前に神が絶対的存在では無いことになる。
公平である事と絶対である事は同じだから、真に公平な神は唯一絶対神でなければならない。
そして、唯一絶対神は抽象的存在でなければならない。
具体が絶対であるはずが無いからだ。
具体とは、「偏っている」という事だ。
だから具体性を持った神(多神教の神)が本当の神であるはずが無い。
その点、客観という神は、他のどんな宗教の神よりも絶対的で抽象的なのである。
現在、地球上には四つの一神教が存在する。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして近代である。それ以外はすべて多神教である。
多神教の社会が多神教のまま近代化する事は不可能である。
つまり、日本は近代化しなかったのである。
なのに民主化してしまった。民主主義の大前提が近代であるにもかかわらず、である。
そもそも、私の考えでは多神教は宗教として出来損無いなのである。
どうしてそうなるのかを説明しよう。
紙の上で立体を描くためにはパースペクティブという技法が必要である。
学校では「一点透視画法」や「二点透視画法」を習ったが、どうもこれらは発展途上の技法のようである。
正しいのは「三点透視画法」だけではないだろうか。
「三点透視画法」の場合、三つの消失点が必要である。そして、文学の技法も実はパースペクティブなのである。
第一の消失点は三人称の小説における第一人称と同じである。だから「自己」を意味する。
第二の消失点は第二人称と同じである。この場合は「他者」を意味する。
第三の消失点は第三人称と同じである。三人称には「神の視点」という別名がある。だから「神」を意味する。
ただし、第三の消失点はあくまで一神教の神を意味する。
多神教の神はパースペクティブの第二の消失点なのである。
つまり、多神教の神とは「他者」なのである。
これらの三つの消失点には序列があって、第一の消失点(自己)よりも第二の消失点(他者)(多神教の神)が上位であり、第二の消失点よりも第三の消失点(神)が上位である。
人間は同時に複数の対象を絶対化できないので、どれか一つを絶対化すると他の消失点が相対になる。そして多神教の社会ではパースペクティブの第三の消失点は存在しない、あるいは相対として固定されている。
だから「他者」を絶対化すると「自己」だけが相対化され、「神」を絶対化すると「自己」と「他者」が同時に相対化できる。
宗教(文化)を薬に例えてみよう。
多神教を信じると(他者を絶対化すると)「自己」が相対化されるので信者の人格障害を治すという効能があるが、一神教はそれに加えて信者が自律できるという効能がある。
近代が一神教の宗教である証拠が「個人」の存在である。
ヨーロッパが近代化する前は世界中のどこにも「個人」など存在しなかった。
だから、近代とは「個人」の事である。
「個人」とは、「活字を疑う事ができる」人間の事である。要は「客観教」の信者の事だ。
その大前提が「自律」であるから、近代は一神教なのである。
要するに私が言いたいのは、人間の社会はパースペクティブで説明が可能であり、
一神教の社会は構造が三点透視画法だから近代化できるが、多神教の社会は消失点がひとつ足りないので構造を変えない限り近代化できないという事なのである。
もうひとつ、多神教がダメな宗教である理由を説明すると、まず多神教は独裁社会に向いてない。
個人崇拝の個人はパースペクティブの第二の消失点であり、信者が特定の個人を崇拝する場合、その個人の求心力が低下すると多神教が成立しなくなり、信者が人格障害という病気になる(人格障害とは、パースペクティブの第二の消失点と第三の消失点を相対化した人間の事である)。
だから個人崇拝は偶像崇拝に近い事が望ましい。
日本の天皇やタイの国王は個人崇拝の個人でありながら偶像崇拝の偶像に近い。
何もしないからだ(どちらも所詮は多神教だが、多神教の在り方としてはマシな部類だ)。
ところが多神教の独裁社会では、政治家が崇拝の対象になる。
しかし政治家に失敗はつきものである。
独裁者が失敗する度に人格障害の民衆が増加する。
では多神教は民主主義には向いているのかというと、まったく向いていない。
民主主義は政治家やジャーナリストや国民の自律が大前提だからである。
パースペクティブで考えると、多神教の信者は自律できない。「他者」を相対化できないからである。
つまり、多神教は独裁にも民主主義にも向いていない。
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