『色づくモノクローム』

 漆羽うるしば鬼神の怒りは止む気配がない。


 今は盤の片隅を舞台に、戦いの炎が燃え上がっている。互いの勢力図の境界線をどこに引くか。それが攻防の争点だ。囲碁はより広いを囲った方が勝つ遊戯。広い勢力圏を築けば、その分だけ有利に立てる。


 漆羽鬼神は自らの石を、鷺若丸さぎわかまるの石にビタッと寄り付かせてきた。捨て石を使ってでも、鷺若丸の白石を隅に押しとどめようとしている。それで鷺若丸が怯むようなら、悠々と自分の形を整え、勢力圏をもっともっと押し広げようというわけだ。


――攻撃こそが勝利の定石! 力こそ勝利への王道! ふらふらと緩み切った今の貴様が、この吾輩に敵うはずもないわ! 屈服せよ! 吾輩に道を開けよ!


 弱気な手は、効率の悪い手となり、敗北という怪物を招き寄せる。漆羽鬼神はそのことを理解している。だから前のめりに攻めてくる。皮と肉を削られようとも、骨だけ残ればそれでいい。そういう気迫だ。


 鷺若丸か漆羽鬼神。どちらかが、たった一手、たった一路、たった一つの手順を違えれば、その瞬間に勝敗は決するだろう。まさに薄氷の上で切り結ぶ、ギリギリの鍔迫り合いだ。


 鷺若丸の頬を汗が伝い、滴り落ちる。


 この感覚は久しぶりだ。拮抗する力の持ち主が、全身全霊、全力全開で襲い掛かってくる。その時にしか感じることのできない、極限状態の緊張感。そして魂の鼓動。これもまた、囲碁だ。九郎と出会うことがなければ、こんな囲碁を知ることはなかっただろう。


 鷺若丸は目を閉じ、今日に至るまでの道程を振り返る。千と十五年に及ぶ人生の中、彼の囲碁観は絶えず変遷を続けてきた。


 はじめ、囲碁はまつりごとの道具に過ぎなかった。天涅あまねにも語った通り、あくまでも貴族の嗜みとして、叔父から教えられた。しかし娯楽の少ない生活を送っていた鷺若丸は、囲碁を純粋な遊戯として受けとった。あっという間にのめり込み、めきめきと腕を上げた。叔父に褒められたことは、今でも覚えている。あれは嬉しかった。


 ところがほどなく、叔父は屋敷に姿を現さなくなった。鷺若丸の父が、政のために彼を陥れたと知ったのは、さらに数年後の話だ。途端に、世界のなにもかもに嫌気が差した。心休まるのは、囲碁をしているときだけ。囲碁は空虚な人生の中にある、唯一の安全地帯となった。


 そんな時に、九郎と出会った。彼との出会いは、囲碁を力と矜持で殴り合う、決闘の舞台に変えた。


 狭界きょうかいの精霊たちからは技巧を学んだ。


 そして流れついた現代で、鷺若丸はステラと出会った。彼女は大会のために、仲間と肩を並べて囲碁を打つのだ、と語った。もちろん、そんな囲碁は聞いたことがなかった。だからワクワクした。この目で見たいと、心が躍った。


 雪花せっかと天涅に出会い、それぞれが背負う事情を知り、それでも強引に部へ引き入れたのは、期待していたからだ。彼女らが一つになることで、このワクワクに相応しい、素晴らしい囲碁が見られるのではないか、と。


 その考えは、間違っていなかった。部員たちは皆、鷺若丸に及ばない棋力きりょくの打ち手だ。しかし拙いなりに、懸命に強くなろうとする彼女らの姿は、鷺若丸にとって鮮烈な刺激だった。


「……」


 出会いの度、鷺若丸の囲碁観は変わっていく。囲碁の新しい側面を知り、もっともっと囲碁が楽しくなっていく。


 ステラは言った、鷺若丸がこの時代に送られてきたのは、縁を繋ぐためだと。そしてそれこそが、〈囲碁のきわみ〉に必要なことだと。


(縁を結び、縁を広げる。そうすれば、我はもっともっとたくさんの囲碁を知ることができる。そういうことなのだな、ステラ殿!)


 鷺若丸は目を開き、碁盤を睥睨へいげいした。「ぎちり、ぎちり」と音を立てるように石がひしめき、己の主張を押し付け合っている。


(打ちたい場所が、たくさんだ)


 漆黒の領域から中央まで逃げ延びてきた大石たいせきが、まだ安全になっていない。


 これ以上、補強させたくない黒の陣形がある。


 まだ誰にも手を付けられていない、未開の地平線が残っている。


 もちろん、盤の隅での攻防も、まだ息がつけない。


 難しく繊細な局面だ。しかし鷺若丸は恐れることなく、石を握った。開けた視界と、透き通る読みが、指先を導いてくれる。


――我は千年前から囲碁が好きだ。


 まずは、隅に寄り付いてきた漆羽鬼神の黒石を、迎え撃つ。真っ向から堂々と。


――明日使う布石を思い描き、気付けば空が白み始めていた時の、透き通った空気が好きだ。知恵を振り絞り、策をぶつけ合う時の、息詰まる心地が好きだ。棋力が上がったと思ったら、その先にまた見たこともない領域が広がっていたときの高揚が好きだ!


 囲碁を愛する理由はいくらでもある。この時代に来て、それがまた一つ増えた。


――囲碁を通して、新しい縁が繋がっていくのが好きだ!

――ほざけ! 貴様と吾輩の因縁を繋いでしまったのも、他ならぬ囲碁だ!


 ありったけの怒りを込めて、漆羽鬼神が捨て身の攻撃を繰り出してきた。


――この因縁に決着をつけ、貴様と吾輩の格を示す。そのための一局だ。雑魚どもの囲碁に余所見している場合か!


 この手は、鷺若丸を殺そうとはしていない。巧みに脅しをかけ、思い通りの形に委縮させてやろうという魂胆だ。強欲な技巧が凝らされた、渾身の勝負手だ。


――貴様は吾輩を……われの手だけを見ていればいいのだッ!


 絶叫のような〈石の声〉が響き渡る。


 しかしその瞬間……、あろうことか鷺若丸は、戦場から距離をとった。選んだのは、まさかの手抜きだ。


 そうまでして石を運んだ先は、盤の中央。その一手は強烈に光り輝き、盤上を明るく照らし出す。


 これは一見すると、防御の一手だ。中央周辺の石がこれ以上攻められないよう、体勢を整えている。


 だが、それだけではない。


 この石は、盤面全体を見渡していた。相手の陣形へ侵略を狙うと同時に、その尖兵に牽制をかけ、未開の地平線に目を配りつつ、現在の戦場に支援を送っている。文字通り、すべての石に繋がる一手だ!


 石は叫んでいる。


――ステラ殿が教えてくれた。我の旅路に、なに一つ無駄などない。すべての縁が、我の縁。すべての縁が、我の囲碁だ!


 漆羽鬼神は戦慄わななき、くちばしを開いた。


――な、なん、なんだとぉ!? この期に及んで……このッ! 世界の理をも支配する力、勝利への執念。それだけが絶対の強さだ!


 動揺を振り払い、隅の攻防を続行してくる。手抜きの代償を払わせるつもりだ。


――なにが縁だ。我とそなたの間にある強力な縁でさえ、大いなる運命を前にしては、まったくの無力だったではないか! 千年の時間で、あっさりと引き裂かれてしまったではないか!


 鷺若丸は慌てない。すべて想定の内だ。手抜きの代償は甘んじて払う。地もくれてやる。だがそれを的にして、今度は逆に攻勢へ転じる。ここに来て、先程、中央に打った石が存在感を増していた。


――それでも! 今、ここで、我らは戦っている! それは、ステラ殿や雪花殿、天涅殿らとの縁のお陰だ。すべての縁は繋がっているのだと、何故なにゆえ分からぬ!


 ステラと出会えたから、部室を訪れた雪花に出会えた。雪花と出会えたから、天涅に出会えた。彼女らをまとめ、共に大会を目指したから、鷺若丸はこうして今この山にいるのだ。そして付け加えると、そもそも九郎との縁がなければ、彼女らとの縁を紡ぐこともなかった。


 全ての石に意味があるように、すべての縁にも意味がある。どんなにバラバラでフラフラしているように見えたとしても、同じ盤上にある石同士のように、影響を与え合っている。


 そうやってより合わさった縁は、鷺若丸自身の魂を、鷺若丸の囲碁を変えていく。


――縁が縁を呼び、その度、白と黒しかない我が囲碁が彩られていく。打算も、力も、誇りも、技巧も、楽しいも、すべて飲み込み、我の囲碁は進化する。そして近づいていくのだ、〈囲碁のきわみ〉へ! それこそ、我がこの時代に呼ばれた意味だ!


 対面の漆羽鬼神が、何度も目を拭っている。鷺若丸には分かった。彼は今、鷺若丸の隣に浮かぶ、人影を見ているのだろう。局面に口を出すわけでもなく、ただ隣にいるだけの彼女たちが、何故か鷺若丸の力になっている。それが彼には理解できないのだ。


 今、鷺若丸という人間が紡いできたすべての縁が、盤を挟んで漆羽鬼神と相対していた。


――こんな……、こんな莫迦げた話で、この吾輩が圧されるなど……。ぬううっ!

――ステラ殿の囲碁も、伊那いな高囲碁部の囲碁も、既に我が囲碁の一部! それをないがしろにされてたまるものか!


   ○


(鷺若丸さま……!)


 激しい石のせめぎ合いを、傍らでじっと見守っていたステラは、つい呼吸を忘れていた。石を通して、鷺若丸の想いがビリビリ伝わってくる。


 ここで〈石の声〉を聴いていると、現在進行形で仲間達に迷惑をかけているにもかかわらず、こう思わずにはいられない。この対局を目撃できて良かった、と。


 この一局は、剥き出しの魂での殴り合いだ。軽蔑と敬意が複雑に絡まり合ったその石の模様は、彼女に一つの実感をもたらしていた。時の流れというものは良縁も悪縁も区別せず、すべてを巻き込んで血肉にしていくのだ、と。そしてその先に紡ぎ出された混沌とした未来に、この名局は生まれたのだ。千年前に、いったい誰がこれを予想できただろう。


 一介の人間が、未来を見通すことは困難だ。勝利の先に泥をなめることもあれば、敗北の先に悟りを得ることもある。ならばステラが勝利を恐れ、真剣勝負から逃げたことに、はたしてどれだけの意味があったのだろう? 本気でぶつかり合うことを放棄することは、相手に対しても、囲碁に対しても、ただただ失礼なだけだったのではないか?


 彼女はこれまで、漠然と「楽しい囲碁」を取り戻そうとしてきた。そして取り戻せたと思っていた。しかしそれはただの独りよがりではなかったか? 鷺若丸の囲碁が楽しいのは、彼が盤上でちゃんと相手と向き合っているからではないか?


(ああ、そういうことだったのですね)


 ステラはようやく気が付いた。恐れるのではなく、鷺若丸のように正面から相手を受け止めること。その上で自分の囲碁をぶつけること。多分、それこそが自分に必要なことだったのだ。


 鷺若丸の強打が、漆羽鬼神を追い詰めていく。しかし漆羽鬼神もまだまだ粘る。


 ここからはいよいよ終盤戦、大詰めの段階だ。いよいよ終局が見えてきた。細かい勝負になりそうだ。

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