『星の宿願Ⅰ』

 押し戻すことのできない時の流れが、一日、また一日と過ぎていく。


 雪花せっか天涅あまねは、鷺若丸さぎわかまるとステラの指導のもと、囲碁に打ち込む生活を送っていた。常に隙間の時間を探してはステラの詰碁百選をこなし、活動日になれば授業が終わり次第、囲碁部に駆け付け鷺若丸の指導碁を受ける。ひたすらにその繰り返しだ。


 二人のモチベーションは高かった。鷺若丸の読み通り、お互いがお互いを宿敵として意識し、刺激し合っているのだ。二人は鷺若丸たちの期待を超えて、めきめきと腕を上げていった。


 しかしひと月という猶予はあまりに短い。大会は、早くも明日に迫っていた。


   ○


 その放課後、ステラは部員たちをファミレスへ誘った。大会前日の決起集会だ。


「今日はわたくしの奢りですわ。じゃんじゃんお食べになってください!」


 都心から離れた田舎の街とは言え、駅周辺の店なら夕食時は、どこもそれなりに賑わっている。そんなフロアの中央、案内されたテーブルの上には、所狭しと皿がひしめいていた。香ばしい匂いが湯気と共に立ち昇る。


 隣の席の鷺若丸は無邪気な歓声をあげ、その向かいにいる天涅に至っては早くもステーキを平らげる勢いだ。しかし二人が盛り上がっている一方、何故か雪花だけは、魂が抜けたような姿でソファの背もたれに倒れ掛かっていた。明らかに疲労困憊している。


「大丈夫ですか、銀木しろきさま? もしかして、囲碁のやりすぎでくたびれてしまったとか?」


 ステラの呼びかけに、雪花の眼光が力を取り戻す。


「それだけじゃないけどね」


 確かに、店に入る前まではもう少し元気があった。消耗の原因は、他にもあるのだ。そこはかとない怒りの気配に怯えながら、ステラは慎重に言葉を選んだ。


「で、では、お席のことでしょうか?」


 入店直後、雪花は天涅と席順で揉めた。天涅が鷺若丸の隣の席を狙っていたため、それを阻止せんとして戦いになったのだ。結局、天涅と雪花が横並びになるということで、決着がついた。


 しかし、雪花はさっきの言葉を繰り返す。


「それだけじゃ、ないけど、ね」

「では、鷺若丸さまが呼び出しボタンを押したがったことでしょうか?」


 メニューが決まってもいないのに、鷺若丸がやたらと呼び出しボタンを押したがったのだ。しかも天涅が無責任にそれを促すせいで、またバトルが勃発した。最終的に、雪花が呼び出しボタンを氷漬けにした。


 しかし、雪花は再び同じ言葉を繰り返す。


「それだけじゃないけどね! あんたもよ! あんたも!」

「うぐっ!」


 心当たりがある。店員を呼び出して、「メニューのここからここまで、お願いしますわ!」と言ったことに違いない。雪花を大いに青ざめさせ、店員に平謝りさせてしまった。


「あんなにたくさん注文して、ここにいるメンツで食べきれるわけないでしょ!」

「も、申し訳ありません。食事はいっぱいあった方が、皆さま喜ばれるかと思って。それにほら、明日は待ちに待った県大会ですから。ノー満腹・ノー勝利ですわ!」

「まったく、どいつもこいつも……!」


 雪花はため息交じりに、ドリンクのストローを噛み潰した。


 小言の多い彼女だが、それは面倒見の良さの裏返しだ。なんだかんだと言いながら、こういう場にもついてきてくれる。


 天涅も天涅で、雪花を必要以上に煽るところはあるが、引き際は弁えている。


 二人とも、ステラの当初の予想と違って、とても協力的だった。おかげでこのひと月、どれほど助けられたことだろう。


「あんたらに振り回され始めて、かれこれ一か月になるのか。早いもんね……」


 そんな雪花の呟きに、ハッとさせられる。


 鷺若丸が二人を連れてきてから、もうそれだけの時間が経過したのだ。随分と昔のことのようだが、過ぎ去ってみればあっという間だった気もする。


 ステラは自らのグラスに目を落とした。


「夢のようなひと月でした。わたくしのひとりぼっちの部活に、生まれも、育ちも、時代さえ違う皆さま方が集まってきて、一つのチームになって、そして囲碁の腕を高め合って……。ふふ、本当に充実していて、幸せな時間でした……!」


 自然と三人の食事の手が止まる。三人に見守られる中、ステラは力強く言い切った。


「わたくしは、このチームが大好きです。この四人でなら、ずっとずっと先まで進める気がするんです。わたくしがまだ一度も見たことのないような場所まで。きっと!」


 大会は明日。半ば強引にチームへ引き入れられた雪花と天涅だが、ここまでしっかりとついてきてくれた。努力は如実に、実力へ反映されつつある。


 これなら勝機はある。そんな明るい空気が、部内に漂い始めていた。


「まずは明日の県大会。きっと……いえ、必ず! 優勝しましょう」


 一人の少女がやってきて、横から口を出したのは、その時だった。


「おい、こら。どういうことだよ、それは」


 テーブルのすぐそこに女子高生が立っていた。ジャケットを大きく着崩し、耳にはピアスの穴を開けている。地面を踏みしめているのは、鋲のデザインがあしらわれた厳ついブーツだ。随分とラフないで立ちだが、一方で、ちょこんとしたフレームレスの眼鏡と、その奥で揺れる瞳が、神経質そうな印象を与える。


「見間違えるわけがねぇ。てめぇ、桜谷敷さくらやしきステラだろ。あの桜谷敷ステラなんだろ?」

「え、えと……」


 ステラはたじろいだ。相手の顔に見覚えがない。しかし謎の女子は畳み掛けるように問いを重ねてくる。


「てめぇ、マジで明日の大会に出てくるつもりか?」

「はい、そのつもりです、けど……」


 相手は衝撃を受けたように目を見開いた。


「はっ!? なるほど、完璧に読めたぜ。その圧倒的な実力で並み居る大将をバッタバッタとちぎっては投げちぎっては投げ、皆にちやほやされようって算段だな。ふざけた真似を!」

「……あ、いえ、だから――」

院生いんせいを途中で抜け出して、やることが学生の大会荒らしかよ! ふざけんな、バーカ! てめぇなんかプロになっちまえばよかったんだ! タンスの角に小指ぶつけろ! スマホの画面バキバキになれ!」


 彼女は罵詈雑言をぶちまけると、足音荒く店を出ていった。一度戻ってきた彼女が伝票をレジへ持っていき、何度も謝罪しながら勘定を済ませて再び店を出ていくまで、鷺若丸たちは誰一人として喋らなかった。


 雪花がぽつりと口を開く。


「……なに、今の?」

「さあ?」


 ポテトを咥えた天涅も、首をひねるばかりだ。鷺若丸がステラを振り返った。


「いんせい? とか、ぷろ? とか言っていたようだが……」


 自然とステラの方に視線が集まってくる。彼女はしばらく唇を噛んでうつむいていたが、やがて小さく告白した。


「そ、その、今まで言う機会がありませんでしたが。実はわたくし、プロ棋士の娘でして……」

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