『陣保山の結界』

 逢魔時おうまがとき。人々が家路につき、人ならざるモノたちが動き始める、境界の時間。


 土御門つちみかど天涅あまねは制服を脱ぎ、陰陽師の衣装をまとって仕事モードに入っていた。向かった先は、市の南西に位置する山麓地帯だ。


 橙色に燃える空を背に、彼女は一律の歩調で山を登る。アスファルトで舗装された道は、別の山の採石場に続いているが、時間が時間ということもあって、車の通りは皆無だ。もちろん、他の歩行者などいるはずもない。


 一帯の雑木林にはほとんど人の手が入っておらず、原生林の様相を呈していた。路傍の標識も茶色の錆に侵食され、頼りない。


 天涅は懐中電灯代わりの光る人形ひとがたを、茂みの方に差し向けてみた。伸び放題の植物に呑まれるように、白い車の残骸や粗大ごみなどが転がっている。


「……先刻の調査では、半妖の鞄の中に【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】を見つけることはできなかった」


 天涅は口に出して現状を確認する。


「もちろん昨日の家探しでも、【黄金棋眼鏡】は見つかっていない。既に手放したという彼女の発言には、ある程度の信憑性があると判断できる。なら、考えられる片眼鏡の行く先は……」


 ボストンバッグのぬいぐるみから、妖しい煙が湧きだした。姿を現わした忌弧きこが、天涅の隣に並ぶ。


「片眼鏡の行く先は、漆羽鬼神ヤツの手の内……と見て、間違いないじゃろうな」

「わたしたちは、その神から【黄金棋眼鏡】を奪い返さなければいけない」


 ここは標高五百メートルを超える陣保じんぼ山。漆羽うるしば鬼神を祀る漆羽神社が鎮座する山だ。天涅たちは今まさに、漆羽鬼神の本拠地へ向かおうとしているのだ。


「問題は、どうやって品を回収するか……じゃのう」


 少なくとも、取引は成立しないだろう。片眼鏡は天涅たちにとって、漆羽鬼神と戦うための強力な武器だ。それを当の漆羽鬼神が、むざむざ返却するとも思えない。騙し討ちや、力づくが通じる相手ならまだいいのだが……


 天涅は静かに目を細める。


「でも……、もしかしたらそれ以前に、どうやって辿り着くか、の方が問題かも」

「……ふむぅ。天涅や。山を登り始めて、どれほどになる?」


 かれこれ数十分以上も登山を続けている。しかし一向に神社が見えてこない。


 天涅は歩調を緩めず、周囲を見回した。ガードレールの奥に、白い車の残骸が転がっている。さっきも同じ物を見たばかりだ。


「同じ場所をぐるぐる回ってるみたい」


 標識を横目に、忌弧が唸る。進入禁止の標識が不自然に多く立っている。


漆羽鬼神ヤツめ、山を閉じよったな。空間が歪んでおる」

「これじゃ千年この道を進んだところで、どこにもたどり着けない」

「まったく! 千年どころか一時間歩くだけでも、太ももがパッツパツになるというのに!」

「……あなた元妖怪の式神じゃない。筋肉痛とかあるの?」

「ある。……運動の三日後にくる」


 再び白い車が出現した。ループする度にいろいろな呪符を試しているが、どれも効果は無さそうだ。山全体が、漆羽鬼神の関係者以外を拒む空間になっている。ある種の結界だ。


 しかし陰陽師にとって、結界技術は専門分野の一つ。攻略法については知見があった。


 考えられる手段は、大まかに三つ。


 一番分かりやすいのが、「結界自体を解体する方法」だ。破壊は難しいとしても、電気柵から電気を取り除くように、結界に走る力さえ散らしてしまえば、付け入る隙も生まれてくる。さっきからあれこれ試しているのは、この方法だ。しかし現状、目立った成果はない。


 続いて検討できるのは、「主自ら結界を台無しにしてもらう方法」だ。正体を偽ることで結界の中まで招いてもらったり、逆に関心を惹きつけて結界の外へ誘い出したり。このようなだまし討ちは神話の時代にもいくつか成功例が残されている。……とはいえ、あまり現実的なやり口ではない。


 と言うわけで、最有力候補は自然と三つ目の攻略法になるのだが、これにもネックはある。準備と計画が必要不可欠で、どうしても時間がかかるのだ。


「……!」


 どうしたものかと思案していたその時、天涅たちの前に突然、強い風が吹き込んできた。道の正面に、天狗面の筋肉男が舞い降りてきたのだ。天涅は静かに身構える。


「……おまえ、漆羽鬼神の手下ね?」

「いかにも。拙僧は漆羽様の右腕を務める、駿臣しゅんしん仙足坊せんそくぼうと申します。こうしてご挨拶するのは初めてですね。どうぞ、お見知りおきを」


 仙足坊は慇懃な態度で一礼してみせる。


「貴女のことはもちろん存じておりますよ。土御門の当代にして、穢れの象徴たる紛い物。こうして直接お目にかかると、ますますおぞましい存在ですね」


 嫌味を隠しもしない、攻撃的な姿勢だ。青筋を浮かべた忌弧が、天涅に代わって進み出た。


「わざわざご挨拶に出向いてくれるとは、痛みいるのう。ついでに、このせせこましい結界を解いて顔を見せるよう、おぬしの主にも伝えてもらえんかのう?」

「伝えるのは結構ですが、貴方がたは取り次ぐに相応しい客と言えるのでしょうか」

「ククク、おぬしは風を操れるようじゃが、自らの臆病風は取り去れんようじゃのう? 主を倒されるのがよほど怖いとみえる」

「我が主が? 貴女方に?」


 仙足坊がわざとらしく噴き出した。鳥の羽を束ねた扇で、上品に口元を隠す。


「失礼。カンニング眼鏡も使えないくせに、我が主と渡り合える気でいるのが些か滑稽で、つい」

「キエーッ、こんのハナタレ天狗めがッ……! 主もろともぶちのめしてくれるわ!」


 偉そうに天涅の代役を買って出た忌弧だったが、この場の誰より沸点が低いのは彼女だ。今にも飛びかかりそうな勢いで、ギザギザの歯を鳴らす。それでも仙足坊の余裕は揺らがない。


「ふふ、得意の囲碁で勝てないなら、力でねじ伏せようというわけですな? しかしお止しなさい、それも無駄なことです」

「なァにを~ゥ?」

「この山に立ち込める空気でお分かりいただけませんか? 我が主はアホほど強くなっておりますよ。拙僧がせっせと集めた贄を喰らい、力を取り戻しつつあるのです」


 直後、辺りが急激に暗くなり始めた。湧き上がる黒雲が空を覆いつくそうとしていた。


 カラスが一斉に騒ぎ出すと同時に、無数の黒羽根が舞い込み、仙足坊の背後で渦を巻く。やがて羽根は形を成し、闇の翼を広げた。


 死神のような姿をした不吉な巨鳥が、そこにいた。


「漆羽鬼神……!」


 武器を身構える天涅に対して、忌弧が掌を向ける。


「いや、これは分け身じゃ。叩いても無駄な労力を使わされるだけじゃ」


 しかしただの分身にしては、相当な圧力を放っている。漆羽鬼神が力を取り戻しつつあるという話は事実のようだ。


「我が主、貴方様のお手を煩わせるような相手では……」

「クハハ、だからこそ吾輩が来てやったのよ! 仙足坊、貴様は我が『大いなる計画』の要。このようなつまらぬところで貴様に怪我でもされたらかなわん」


 天涅は漆羽鬼神へ、問う。


「昨日今日と近隣の神気が一斉に消えているのは、おまえたちの仕業ね」


 神や妖といった怪異は、自分以外のモノを喰らうことで、強くなる。取り込んだ力を、自分のものにできるのだ。


「でも何故? 今になってこんな真似をする目的は?」


 漆羽鬼神は過去にこの地で大暴れして、初めて人々に認知された怪異だ。その後、この地に祀られることで、土地神に変質させられた。これは「人と怪異の共存」、その典型的モデルケースだが、つまるところ人の側から管理しやすい存在にされてしまったということだ。土地に縛り付けられた上、信仰なしでは在り方を保てなくなったのだ。


 実際、漆羽鬼神は時代の流れの中、どんどん弱体化してきた。五年前のある一件で土御門の陰陽師と一戦を交えた直後に至っては、風前の灯も同然の有様だった。


 しかし静かに消失を待つ状態だった漆羽鬼神が、半月前、突如として力を増し始めた。もちろん天涅たちは警戒しながら、これを見守った。漆羽鬼神がなにかを企んでいるようなら、直ちに対処し、場合によっては調伏しなくてはならない。それが土御門の御役目だ。ところが雪花によって【黄金棋眼鏡】を奪われ、その隙を突かれる形で怒涛の展開を許してしまった。既に彼らは大規模な結界が張れるまでに、力を取り戻している。


「今更また、破壊の限りでも尽くすつもり? それともなにか欲しいものがあるの?」

「クハハ、何故、だと? 凡庸で退屈な問いだな。そんなものは決まっている。『大いなる計画』を完遂し、かつて取りこぼした誇りと栄光を取り戻す! そのために力がいるのだ!」


 忌弧が、すかさず皮肉る。


「それこそ、凡庸で退屈な答えじゃな」


 しかし漆羽鬼神は止まらない。


「望みを叶えるために、人は神に祈る。だがわがはいは祈らない。己の手で障害を打ち砕き、己の足で前進する。野望のためなら、世界の理さえも捻じ曲げてみせるわ!」


 立ち昇る濃い闇の中、漆羽鬼神の拳が固く握られる。


「雌伏の時はこれまでだ。もはや貴様らごときにできることなど、なにひとつありはしない! 雑兵は雑兵らしく、引っ込んでいろ。でなければ、痛い目を見ることになるぞ」

「……、おまえに殺された、土御門の先代当主と同じように?」

「……」

「……」

「……」


 無言のまま、両陣営は攻撃的な視線を交差させる。やがて、仙足坊が沈黙を破った。


「話はもう十分でしょう。そろそろお引き取りを。……途中まではお送りしますよ」


 その言葉と同時に、突風が吹き荒れた。天涅と忌弧は共に防御姿勢をとる。


 風が収まった時、漆羽鬼神と仙足坊は姿を消し、二人は陣保山の麓に戻されていた。忌弧が爪を噛む。


「いかん、いかんぞ、これは! もはや【黄金棋眼鏡】云々の問題ではない! なにを企んでいるかは知らんが、どうせ碌なことではない。奴らがしでかす前に、潰してしまわねば!」

「でも、あいつらの言うことは正しい。今のわたしたちじゃ、とても歯が立たない」


 漆羽鬼神の力は、天涅の想定を超えていた。乱れた髪を整えながら、彼女は提案する。


「中央に助けを求めるのも、ありだと思うけど?」


「中央」は政府の裏機関、「八咫烏」を意味する隠語だ。日本の怪異対策は、その組織によって取り仕切られている。窮地を伝えれば、戦力を融通してくれるはずだ。


 しかし忌弧は眼球と歯茎を剥きだして、この提案を拒絶した。


「ここ一帯は土御門家に与えられた管轄じゃ。余所者の力など借りてなるものか!」


 怪異に対するスタンスや宗教形態がそれぞれ異なっているためか、対怪異稼業の一族同士は不仲なことが多い。家同士の縄張り意識が異常に強いのだ。式神として、長い時を土御門に捧げてきた忌弧にも、その感覚がしっかり刷り込まれていた。


 とは言え、あまり悠長なことを言っていられる状況とも思えない。


「……じゃあ、どうするの?」


 忌弧はしばらく爪を噛んでいたが、ふいに指を鳴らした。


「そうじゃ、平安から来た小童が使える! 奴の脳を、新しい【黄金棋眼鏡】に加工しよう」


 土御門が開発した【黄金棋眼鏡】は、碁打ちの思考回路を再現する呪具だが、その材料は人間の脳だ。鷺若丸さぎわかまるから作る新しい片眼鏡は、さらに強力な代物になるだろう。ただし当たり前だが、脳を取り出された鷺若丸は死ぬ。


 天涅はこの提案を、きっぱりと拒絶した。


「新しい【黄金棋眼鏡】は必要ない。協力を取り付ければ、生かしたままでも戦力になる」

「甘いことを! 生かしておいては、憂いが残る。気まぐれを起こす程度なら可愛いものじゃが、万が一にでも敵方へ付かれたらどうする。現にあやつは一度、半妖の小娘に手を貸しておる」


 それでも天涅は頑なに、首を縦には振らなかった。


「忌弧、くどい。あの男に生きていてもらわないと、わたしが困る」

「何故じゃ!」

「……別に」


 忌弧は目を丸くした。


「天涅や、おぬしもしや……あの“イゴイゴ”鳴く哺乳類に惚れたか!? 惚れたのか!?」


 天涅は無表情かつ、無反応を貫いた。天涅の誕生から常に傍にいた忌弧にさえ、真意は読み取らせない。


「とにかく、また今度、囲碁部に顔を出しましょう」


 天涅は踵を返し、変わらぬ口調でこう続ける。


「あの部には利用価値がある。ええ。平安の彼にも、あの雪女にも。せいぜい、わたしたちのために働いてもらいましょう」

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