『謎の美少女、現る』
囲碁とは、「碁盤」と黒白二色の「碁石」を使う、知性と神秘の盤上遊戯だ。その発祥は古代中国を起源とする説が一般的だ。それが遣唐使によって日本へ持ち込まれたのが、奈良時代とされる。以来、千年以上の歳月に渡って、囲碁はこの国のさまざまな人々に親しまれてきた。
しかし二十一世紀現在、その勢いは下火になっていると言わざるを得ない。囲碁人口の減少は止まるところを知らず、囲碁界は未曽有の危機を迎えているのだ。
その過疎化の波を前に、大きく肩を落としているのは
「やっぱり、囲碁をやりたい人なんて、そんな都合よく集まりません……」
細い指先が、ポスターの表面を撫でる。「囲碁部」「初心者でも大歓迎」「廃部の危機!」の文字が、かわいげのあるポップな装飾と共に踊っている。
「がんばって作ったのですが……」
自信作のポスターだが、勧誘期間を終えたため、もうこの掲示板からは撤去しないといけない。結局、これを見て囲碁部に来てくれる人は、一人もいなかった。冷やかしすらなかった。
ステラは、鷺若丸のことを気に入っていた。平安時代から来たという話には、正直まだ半信半疑だが、彼の囲碁の腕と人柄は本物だ。ステラの助けになりたいと言ってくれるのも嬉しい。彼のためなら、お小遣いをちょっと崩すくらい、躊躇もない。
そんな存在が部活にいてくれるだけでも、幸運なことなのだ。これ以上を求めるなんて、欲張りだ。たとえそれが、ずっと前から温めてきた願いであったとしても……。
「やっぱり団体戦など、夢のまた夢。絵に描いたモチモチのお餅だったのですわ……」
彼女は首を振って、未練を追い払おうとする。
妙な寒気が背中を這い上ってきたのは、その時だった。思わず体を震わせた直後、声をかけられた。
「ねえ、あんたが囲碁部の部長?」
「……!?」
振り返った先にいたのは、氷のような蒼い瞳の女子だった。モデルと見紛う美しさの持ち主で、重力を感じさせない不思議な佇まいが印象的だ。風にたなびく髪は蒼みがかった銀色。差し込む陽光に透き通る様子は、まるでガラス細工の工芸品だ。
しかし今、なにより注目すべきは彼女の服装だった。上からストールを羽織り、加えていくつもの改造を施しているため分かりづらいが、彼女が着ているのは間違いなく伊那高の制服だった。ステラは目を丸くする。
「も、ももも、もしかして! いえ、勘違いかもしれないですけど。でも、やっぱり、もしかして! 入部希望の方ですか?」
突然のチャンスに身構える。謎の女子生徒は肯定も否定もせず、ステラの手からポスターをかすめ取っていく。
「活動日は月、木、金。活動場所は数学棟一階、教材室前の廊下。……部室ないの?」
「えっと、それはなんというか、弱小部活の辛いところといいますか……」
「ふぅん」
女子生徒は曖昧な微笑みのまま、問いかけてくる。
「あんたは囲碁、強いの?」
ステラは精一杯、胸を反らす。
「は、はい! わたくしこう見えて、小学生の時に全国大会で優勝した経歴を持っております。まだまだ未熟者ですが、アマチュアとしては、それなりにやる方! かと!」
「……プロくらい?」
「えっ?」
「仮にトップのプロが相手だったとして、勝ち目はどれくらいある?」
ステラの強気はたちまちしぼんでしまった。両手を振って泡を吹く。
「とんでもございません! 互角の手合いでは、万に一つの勝ち目もありません!」
囲碁は運の要素が限定されたゲームだ。勝敗は、対局者同士の判断が左右する。おまけに一
「そもそもプロ棋士は、その時点で
そこで彼女はハッとなった。相手の表情に露骨な落胆の気配を感じ取ったのだ。このままでは貴重な入部希望者(仮)を逃してしまう。ステラは素早く言葉を継ぎ足した。
「で・す・がっ! わたくし勝負が出来そうな方になら、心当たりがあります!」
「誰?」
「鷺若丸さまです」
謎の女子生徒は怪訝な顔を隠さない。
「……なに、その変な名前のやつ」
ステラは鼻息荒く答えた。
「わたくしの囲碁指南役ですわ!」
「そいつは強いの?」
「それはもう! すごい腕前です。大胆にして鋭いあの石運びは、とても常人に真似できるものではありません。手に対する嗅覚も、読みの深さも、ずば抜けております。彼と対局する度に感じるあの手応え。あれは、まさしく
胸の前に手を組んで、彼女はまくし立てる。
「な、なにより! 彼と打つ囲碁はとても楽しいのです! そんな彼が、なんと指南役として囲碁部に顔を出してくれています。今なら打ち放題! これはとても貴重な機会です。ですから、もしよろしければ、是非あなたも囲碁部に――」
そこで女子生徒は、ステラの背後に指を向けた。
「あっ、ツチノコ!」
「えっ、ツチノコ!?」
勢いで振り返ってしまったが、ツチノコはいなかった。視線を戻すと女子生徒も、さっきまでの妙な冷気も、きれいさっぱり消えていた。まるですべてが白昼の夢だったかのように。
○
数学棟廊下端、教材室前。鷺若丸は一人、机に向かっていた。
彼は今、これまで直面したことのない問題に頭を悩ませていた。無論、ステラの団体戦の仲間集めの件だ。
鷺若丸は当初、この問題を甘く見ていた。この学び舎には数えきれないほどの生徒が通ってくるのだから、全員に声をかければ二人くらいどうにかなるだろう、と。しかし、ステラからは「絶対に目立たないでくださいね!」と釘を刺されてしまった。これでは身動きが取れない。
「ううむ……」
人の社会はいつの世も、無形の決まり事であふれている。それは分かる。しかしこの時代を知らない鷺若丸には、ステラがなにを恐れているのかわからない。どうすれば彼女の意に反することなく、彼女の手助けができるだろうか。いくら考えても答えは出てこない。こんなことでは恩返しなど夢のまた夢だ。
彼はその後もうんうんと頭をひねり続けていたが、窓の明かりを見てふと時間の経過に気が付いた。
「あなや!」
慌てて取り出したのは携帯ラジオだ。慣れないイヤホンをつけて、スイッチを入れる。すると彼の耳に、明るい男性の声が流れ込んできた。
『みんな、おはよう。今日の「楽しい日本語講座」、いっしょに喋ろう、のコーナーだ』
これはステラから教えてもらった、「らじお番組」だ。この時代の話し言葉に慣れるため、いつも欠かさず聞いている。初めは聞き取るのも困難だったが、最近は意味までしっかり分かるようになってきた。そうなると、他の番組も面白くなってくる。今やラジオは、ステラがいない時の楽しみの一つだ。
鷺若丸は星型サングラスの下で目を閉じ、耳に意識を集中する。
客が現れたのは、ちょうどそんな時だった。ステラの前に現れたあの謎の女子生徒が、こちらへやってきたのだ。
彼女は鷺若丸の姿を認めると、少し躊躇い気味に近寄ってきた。そして彼の目の前に立ち、居丈高に質問した。
「初めまして。突然、謎の美少女に声をかけられて竦んじゃってるところ悪いんだけど、あたし人を探してるの。サギワカマルという碁打ちがいるらしいんだけど、あなたのことかしら?」
しかし鷺若丸は、返事をしない。それどころか反応もしない。両腕を組んだまま、ピクリとも動かない。
それもそのはず。彼女の言葉は鷺若丸には届いていないのだから。彼の耳に届いている音声はこうだ。
『今日のテーマは、自己紹介。これから流れる日本語会話を、君も繰り返してみて。――初めまして、私の名前は……』
「初めまして、私の名前は斎藤です。北海道から来ました」
女子生徒は、目をしばたたかせる。
「あ、そう。いかにもサギワカマルって感じのやつだと思ったんだけど、違うのね……」
そこでまた、鷺若丸が口を開く。
「あなたは田中さんですか?」
「は? 違うわよ。悪いけど、名乗る気はないの。ま、せいぜいあなたの好きに呼びなさい?」
「はい、田中です」
「……。まあいいわ。ええ、好きに呼べばいいわよ」
首を傾げながらも女子生徒――もとい、田中(暫定)は重ねて質問を投げかけてくる。
「それよりあなた、サギワカマルを知らないかしら?」
しかし鷺若丸はまだ、ラジオの復唱を続けている。
「私は納豆が好きです。栄養があって、体にいいからです。あなたも納豆は好きですか?」
「……いや、食べ物の話じゃなくて。納豆は嫌いじゃないけど、訊いてるのは人の名前!」
「はい。まいけるも納豆が大好きです」
「マイケル、どっから出てきた!?」
さすがに、なにかがおかしいと思ったのだろう。彼女は鷺若丸の耳元に手を伸ばし、髪を持ち上げた。白い指先がイヤホンのコードをなぞり、胸ポケットから端子を引っこ抜く。スピーカーから艶のあるハスキーボイスが流れ出た。
「さて、今日の『楽しい日本語講座』はどうだったかな? これで君たちも、日本語の自己紹介を習得できたね。さっそく、新しい友人を見つけにいこう。次回は買い物で使える会話について。それでは、良い一日を。さようなら!」
雅やかな琴のジングルを流し、『楽しい日本語講座』は終了した。鷺若丸は、慌ててサングラスとイヤホンを外すと、白い顔を赤くしている少女に問いかけた。
「そなた、何奴!?」
「田中でしょ! じゃなかった。謎の美少女!……って、ああもう、なんでもいいわよ! そんなことより、あんたは、結局、誰なのよ!」
学んだ日本語会話を活かす機会だ。鷺若丸は満面の笑みで席を蹴った。若干不安定なイントネーションで、自己紹介を披露する。
「我は鷺若丸です! 平安時代から来ました。めろんぱんが好きです。表面の模様が碁盤みたいだからです。そなたもめろんぱんは好きですか?」
「うっさいわ! 訳の分からないこと言うな!」
彼女は青筋を浮かべて、怒鳴ってくる。明らかに混乱気味だ。
しかし鷺若丸は気にしなかった。そんなことより自己紹介がうまくできたので、満足していたのだ。
彼は胸倉を掴まれ、強く引っ張られる。浮いた手の中に、メモ帳が滑り込んできた。
「あんた囲碁が強いらしいわね。今夜、ちょっとツラを貸しなさい」
「え。知らぬ人について行ってはならぬと、ステラ殿が……」
「ガキか! 強い奴じゃないと困るのよ。囲碁で倒してほしい相手がいるの!」
鷺若丸は目の色を変えた。
「相手は強いのか?」
「凄まじく強いわ。……多分」
「よし、打たむ!」
「……えっと、それは打つの? 打たないの? どっち?」
「あなや、言い直さむ」
「言い直すの!? 言い直さないの!?」
「……打とう。すぐに打とう! 今、打とう!」
「いや、戦ってもらうのは今夜で……」
「はは~、楽しみなり!」
鷺若丸は小躍りした。しかし田中は不安そうに顔をしかめている。
「あのね。やる気になってくれたのは結構だけど、絶対に勝ってくれないと困るの。手を抜いたりしないでちょうだい」
それから彼女は身をかがめて、薄紅色の唇を鷺若丸の耳元に寄せてきた。
「もしあんたがそいつに勝てたなら、その時はご・褒・美……をあげてもいいわ」
「褒美? それはまことか?」
「ええ、あたしがなんだってやってあげるわ。だからお願い……!」
鷺若丸の脳に、電撃的な閃きが降ってきた。この学校の制服を着ている彼女になら、叶えられるはずだ。……そう、囲碁部の部員になってもらうのだ。
ステラ本人から勧誘活動を禁止され困っていたところだが、渡りに船とはまさにこのこと。
これでステラへの恩返しを続行できる。この女子が、団体戦メンバーの二人目だ!
鷺若丸は背筋を伸ばし、泰然とした微笑で彼女に応じた。
「我は、囲碁で手を抜いたりはせぬ。必ずや全力で対局に臨むと約束しよう!」
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