千年●○(モノクローム)

空一海

本編

『千年爛柯(らんか)棋譚(きたん)』

 人の歴史は遊戯の歴史だ。その営みの傍らには、常に遊戯があった。定められた取り決めの下、仮想の損得を競い合う。非生産的とさえ言えるその行為を、人々は愛してきた。


 しかし、そうした愛はなにも人だけの特権ではない。例えば仙人、例えば精霊、例えば神――人の枠を超えた超常のモノたちもまた、古くから同様の享楽にふけってきた。中でも彼らを夢中にさせたのが、「囲碁」と言う遊戯だ。その遊戯には、超常にまつわる不思議な逸話が数多く存在する。


 むかしむかし、とある若者が経験したのは、まさにその典型と言える出来事だった。


   ○


 時は平安。所は坂東ばんどう(現在の関東地方)。


 とある山の中で、一人の若者が遭難して、死にかけていた。


 彼の名は鷺若丸さぎわかまる。歳は十五。貴き家の生まれだが、今は行儀見習いとして、実家から遠く離れた寺に預けられている身だ。


 この数年間、彼には危険な日課があった。日が暮れる頃にこっそりと寺を抜け出して、山を下るのだ。麓に住まう、ある者と会うためだった。


 しかし、この日は運が悪かった。出がけにばったり、お目付け役の僧と鉢合わせてしまった。慌てて逃げ出し、追跡を逃れるべく道を外れた。それがよくなかった。茂みを抜けた先で突如として地面が無くなり、急斜面を滑落したのだ。


 したたか頭を打ち、足をくじいた。一本にまとめた長い黒髪には落ち葉が絡まり、面は滴る血で真っ赤に染まった。水干すいかんの袖も、あちこちの草木に引っかけ、ずたずた。酷い有様だ。


 鷺若丸は、もがくように立ち上がる。


「山を、下りねば……」


 拾った木のえだを杖にして下山を再開する。しかし、そこへ追い打ちをかけるように雨が降ってきた。体温が奪われていく。夜も更けてきた。もはや自分がどちらの方角に向かっているかも分からない。


「ぐわっ!」


 ぬかるむ地面に足を取られ、肩から地面に突っ込む。蓄積した疲労が、身体を蝕んでいた。泥の中でピクリともできない。いよいよ進退窮まった。


「もう駄目だぁ、我はここで死ぬんだぁ……!」


 思わずそんな泣き言を吐いた……直後だった。涼しげでよく響く、硬質な音が耳に届いた。


 丸い石が、平らな木を叩く音だ。なによりも聴き慣れたその音に、鷺若丸は「はっ……!?」と跳ね起き、杖を掴んだ。


 妖しげな霧をかき分け、音の方へ、音の方へ。頭上を覆う巨人のような木々は、次第に数を増していく。にもかかわらず、辺りはどんどん明るく


 なっていく。雨もすっか


 り止んで――


 ふいに、視界が開ける。そこには何人もの童子たちがいて、四角い木の台を囲んでいた。台の上面には、縦横に十九本ずつの線が刻まれている。その線上には無数のくろいいししろいいしが並び、複雑に入り乱れていた。あれこそは鷺若丸がこの世で最も愛する盤上遊戯――


「ぃぃぃ囲碁ではないかぁ!」


 あくまでも小声で。対局中の大声は、失礼にあたる。


 鷺若丸は杖を地面に突き立てると、痛みも忘れて童子たちに駆け寄った。盤面を覗き込む。白熱の戦況だ。


 一目見ただけで分かる。盤面に向かい合っている二人の童子は、自分よりもはるかに上手だと。


 彼らの繰り広げる、知性を尽くした手の応酬。その打ち回しは、鷺若丸が今までに見たことのないものだった。これまで培ってきた囲碁観が、木っ端微塵に粉砕されるほどの衝撃だ。見ているだけでも全身の血液が煮え滾り、脳の回転が止まらなくなる。


「……! ……! ……!」


 夢中で対局に見入っていた。一局が終われば、また次の一局が始まる。それが終わればまた次の一局が。一局、一局、さらに一局、また一局……。そのすべてが革命的。そのすべてが面白い。


 腹が減ったら、童子たちが分けてくれるザクロの実を食べながら、対局を見守った。


 空きが出来たら、自分にも打たせてくれと手を挙げた。


 至福の時間だった。高濃度の囲碁に満たされて、夢のような心地だ。


 童子たちが尋ねる。


――君は誰? どこから来たの?

(我は鷺若丸。森で迷っていたらここに来たのだ)

――君も囲碁が好きなんだね。それとも囲碁以外が嫌いなの?

(この世は生きづらい……。でも我は囲碁さえあれば大丈夫だ)

――君は一手ごとに強くなるね。君ならもしかすると、〈囲碁のきわみ〉に辿り着けるかも?

(……〈囲碁の極〉?)


 囲碁の道の果てにある、誰も辿り着いたことのない未踏の領域――〈囲碁の極〉。なんと心躍る響きだろう。鷺若丸も一人の囲碁好きとして、その境地に至ることを切望して止まない。


(いいじゃないか。我が先にそこへと辿り着いたら、きっとあいつは泣いて悔しがるぞ!)


 鷺若丸の頭に浮かんでいたのは、終生の宿敵と認めた、ある一人の少年の姿だった。同年代の彼とはこれまで九百九十九局打って、五百勝、四百九十九敗。勝敗の差が二つ以上離れたためしはなく、棋力は拮抗していた。


 そもそも今日、山を下りようとしたのも、彼と千局目の大一番をする約束があるからだ。今度こそ連勝し、力の差を見せつけなければいけないのだ。


「……そう! そうだった! 我はなんてことを忘れていたんだ!」


 この場所の空気にあてられたせいか、すっかり頭から抜け落ちていた。


 帰らなくては! 鷺若丸は慌てて振り返る。


 そして、その光景に目を疑った。


 地面に突き立てた木のえだの杖が、すっかりくさり果てていた。まるで千年もの間、そこに放置されていたかのように。


   ○


 童子たちに帰りたい旨を伝えると、残念そうにしながらも、快く送り出してくれた。


――〈囲碁の極〉に辿り着いたら、また遊びにおいで。


 鷺若丸は、道案内を引き受けてくれた童子と山を下りた。


 ちょっとはマシになったが、頭と足の怪我は相変わらず痛む。代わりの杖もない。それでも必死に、童子の背を追った。来た時と同じように、帰りの道も


 どこをどう進んでいるの


 か分からな――


 気付けば、墨色の道の上にいた。足元を見て目を疑う。見たこともない材質でできていた。まるで砂利をカチカチに踏み固めたかのようだ。時折かすれた白い線が、記号や縞模様を作っている。妙だ。とにかく、妙だ。


「なあ。本当に道はあっているのか?」


 不安にかられて問いかける。だが視線をどれだけ巡らせても、童子の姿がない。


「……道案内はここまでか」


 胸騒ぎがする。なにか取り返しのつかないことが起きているのではないか。そんな予感に駆られて、引きずる足が速くなっていく。


 見たこともない奇妙なものが、次々に視界へ飛び込んできた。彩り豊かな三角屋根。精巧な絵や知らない文字が詰まった、硬そうな板。見上げるほどの石の橋と、その上を轟音と共に駆け抜けていく筒状の物体。


「なん、なのだ? なんなのだ、これは……?」


 童子たちの森も異様な空間だったが、ここはそことも雰囲気が違っている。むしろ底が抜けたような青い空や、山々の稜線、そしてそれを背景に広がる田畑は、見知った景色に近しい。


 鷺若丸の脳裏をよぎったのは、すっかり朽ちてしまった杖の姿だった。


「まさか……」

「危ない!」


 突然、耳をつんざく警告音を発して、大きな四角い塊が突っ込んできた。同時に、誰かの手で道の端へと引き倒される。すぐ脇を走り抜けていく塊には、四つの車輪らしきものが見えた。


 塊が去り、鷺若丸を引き倒した者が、泡を食ったように後ずさりする。


「あわわわ。申し訳ありません、要らぬお世話だったでしょうか。危ない動画の撮影か、迷惑な度胸試しかもとは思ったのですが、もし本当にただ車に轢かれかけているだけでしたら大変なので、って、きゃああー! その血は? その怪我は!? まさかわたくしのせいで?」


 若い女だった。鮮烈な桜色の髪は、フワフワと大きく波打っている。こんな髪は見たことがない。服装も斬新だ。装飾が多く、太ももは大胆に露出している。しかし清潔でしっかりした布が使われていることは、一目でわかった。農民の格好ではなさそうだ。


 鷺若丸は彼女の肩を掴む。うつむきがちな少女は、不意を突かれて跳び上がった。


「ひいっ!?」

「教えてくれ。今は誰の世だ? 我はいったい、どれだけ山にいたのだ!?」


 しかし悲しいかな、鷺若丸の言葉はほとんど通じていなかった。それは鷺若丸の話す日本語と、少女の知っている日本語が、まったく違う時代のものだったからだ。同じ日本語でも、時代が違えば「発音」と「言葉」が変化する。今の簡単な質問でさえ、少女の耳には、まったく意味不明な音にしか聞こえなかったのだ。


「ソ、ソーリー! わ、わわ、ワタァクシ、日本語シカ、ワッカリマセーン! ですわ!」

「……?」

「ワッカリーマセーン! ですわ! ひえぇ!」

「……? ……?」


 コミュニケーションは、なかなか成立しない。鷺若丸が欲した答えを得るには、まだまだ時間がかかるだろう。ここはひとまず、混乱の渦中で泡を食っている少女に代わって、先に結論を述べてしまおう。


 そう、ここは令和の世。鷺若丸の生まれた平安の世から千年を隔てた、遠い時代だ。


 平安の世から、令和の世へ。鷺若丸はこの時代に存在するはずのない一手として、打ち下ろされたのだ。


 この奇手により、時の河は大きく流れを変え始める。いくつもの運命が歪み、同時に新たな未来が生み出された。光と闇は入り乱れ、混沌の局面を迎える。その果てに待つ終局が、黒に染まるか、白に染まるか……。


 鷺若丸はもちろん、やがて彼と縁を紡ぐ三人の少女たちさえ、知る由はない。

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