きみの名前はルカン

ハル

 

 わたしは三十歳になったいまでもぬいぐるみが大好きで、かわいいぬいぐるみに出逢うとついお迎えしてしまう。


 おかげでいまやわたしの部屋には五十匹近いぬいぐるみがいて、わたしの居場所といったらベッドだけ――ううん、ベッドの三分の二だけだ。


 ある日わたしは、仕事帰りに立ち寄った駅ビルの雑貨店で、サメのぬいぐるみに一目惚れしてしまった。引き寄せられるように手に取って、しげしげとながめる。


 コバルトブルーの背中にまっしろなおなか、つぶらな黒い瞳、丸っこい歯、ふっくらしたヒレ。口には手を入れられるようになっている。大きさは六十センチくらいで毛は長めだ。手ざわりもいいし縫製もしっかりしている。


 かわいい……。でもさすがにこれ以上増やすのは……。でもかわいい、すごくかわいい……。


 レジに連れていこうとしては戻り、連れていこうとしては戻りを繰り返したあげく、とうとうお迎えしてしまった。へんな目で見ることもなく笑顔で対応してくれた店員さん、ありがとう。


 家に帰ると、


「ほのか、あなた、またぬいぐるみ買ってきたの?」


 料理をしていたお母さんがあきれ声で言った。私が紙袋か厚手のポリ袋を持って帰ってきたときは、ぬいぐるみをお迎えしてきたときだと相場が決まっているのだ。


「お母さんだって、このまえまた推しの韓流スターのグッズ買ってたじゃない」


 わたしはお母さんの痛いところを突いて自分の部屋に入った。


「今日からここがきみのおうちだよ」


 袋からそっとサメくんを出して話しかける。


「ほ~ら、新入りくんだよ」


 先住のぬいぐるみたちと顔合わせをさせ、サメくんを膝にのせて撫でながら名前を考えた。


 サメといったらジョーズ? シャーク? う~ん、もうちょっと変化球な名前がいい。


「サメ」「外国語」で検索してみたら、ドイツ語でハイ、イタリア語でスクアーロ、スペイン語でティブロン、フランス語でルカン。


 ルカン。いい響きだ。何だか哲学者みたい……って、それはラカンか。


「よ~し、きみの名前はルカンだ!」


 高く抱き上げて命名すると、ルカンもうれしそうな顔をしたように見えた。


「今日からよろしくね、ルカン。早くうちになじめるといいんだけど……」


 新しいぬいぐるみをお迎えしたら、最低でも一週間はその子を抱いて寝ることにしているので、その日はルカンを抱いて寝た。色とりどりの魚がたくさんいる、コバルトブルーの綺麗な海で、ルカンと泳ぐ夢を見た。


     ◇◆◇


 翌日、わたしは仕事でミスをして、上司の小林に油をしぼられるはめになった。


「あんたさ、何年この仕事やってるの? こんな初歩的なミス、入ったばっかりの新人だってしないよ?」


 独創性のかけらもないお説教が延々とつづき、メンタルがゴリゴリ削られていく。これ、絶対パワハラだよなぁ。


「だいたいあんたは注意力散漫なんだよ。誤字脱字とか聞き間違いも多いし……ほら、いまだってちゃんと聞いてないだろ?」


「聞いてますよ……」


 小声で言い返したとたん、


「ふ、ふ、ふ……ふははははは!」


 小林が笑って自分の首筋を触ったので、わたしはぎょっとした。何かにくすぐられたような、生理的な笑い方だった。


 小林は怪訝そうに首をひねってからわたしをにらんで、


「何だその生意気な……」


 言いかけたけれど、またふはははと笑って首筋を触る。いらだちとおびえが混じった顔で、何度も叩くように首筋を触り、


「きょ、今日はもういい! 次から気をつけてくれよ」


 とうとう席を立って廊下に出ていってしまった。


 どうしたんだろう。何かついてるようには見えなかったけど……。


 ありがたいけれど、ふしぎすぎて素直にありがたがれない。わたしはもちろんほかの同僚もみんな啞然としていた。


     ◇◆◇


 その三日後、買い物に行っていたお母さんからメッセージが届いた。


 足を滑らせてスーパーの階段から落ちてしまって、隣駅の整形外科にいるという。


 あわてて駆けつけると、お母さんは待合室にいた。


「お母さん、大丈夫!?」


 息せき切って訊くと、


「ええ、大丈夫よ。もう診察してもらってお会計を待ってるところなんだけど、ケガはすり傷だけだって」


 お母さんは苦笑して、包帯が巻かれた手をひらひらさせた。


「頭とか打たなかったの!?」


「打ったんだけど、軽くだったのよ。念のため検査してもらったけど、異常はなかったわ」


 お母さんは、今度はぽんぽんと頭を叩いた。わたしは心の底からほっとして、へなへなとお母さんの隣に座りこむ。


「もう、気をつけなくちゃダメじゃん……。でもすり傷だけで……特に頭に大ケガしなくてよかったよ」


「ええ、ほんとに……。でも足を滑らせたときは、絶対ひどく頭を打つ、ひょっとしたら死ぬかもしれないって思ったのよ。だけど……」


 お母さんはふと戸惑い顔になって口をつぐんでしまった。


「だけど?」


「ううん……何でもないわ。きっと気のせいね」


 ゆっくり首を横に振るお母さん。「えー、なになに」と言いかけて、わたしも口をつぐんだ。いちおう事故っていえるものに遭ったばかりなんだもの、問いつめたりしちゃダメだよね。


     ◇◆◇


 翌週、わたしは小人こびとにハンマーで殴られているような頭痛で会社を早退した。小林にいやみを言われても、やっぱり定時まで我慢しようという気にはなれなかった。


 う~、肩こりからの頭痛にしちゃひどすぎる……風邪かなぁ。熱はなかったからコロナとかインフルじゃないと思うけど……。


 わたしの会社は二つの駅のあいだにあって、いつもは会社から遠いほうの駅を使っているのだけれど(そのほうが交通費が安く、会社はいちばん安い経路の交通費しか出してくれないからだ)、今日は近いほうの駅を使うことにした。いつもとはちがう路線を使うことになるので、途中まで定期は使えないけれど、それはしかたない。


 ふらふら歩いていると、視界の右側を青いものがよぎった。


 え、何、いまの……。


 鳥にしては大きいし、何だか見覚えのある色だった。思わず右側の路地に入ると、こじゃれたイタリア料理店からカップルが出てくるところだった。女性は男性の腕に自分の腕をからませて、肩に頬を押しつけている。


 男性の顔を見たとたん、わたしは凍りついた。まわりの景色も足元の地面も、ガラガラと崩れ落ちていくような気がした。実際この瞬間、わたしがいまのいままで信じていた世界はこなごなに砕けてしまったのだ。


「りょうた……」


 自分の声がやけに遠く、平板に聞こえた。


「ほのか⁉ 今日仕事じゃなかったのか⁉」


 言ったきり、亮太――二年以上付き合っていて結婚の話も出ていたわたしの彼氏は、おなかをすかせた金魚のように口をぱくぱくさせている。いっぽう女性は動じるそぶりも見せず、勝ち誇ったような笑みさえ浮かべてみせた。わたしより二、三歳下だろうか、わたしよりずっと綺麗でスタイルも良くておしゃれなひとだ。目の奥が痛いくらい熱くなって、視界がぼやけた。


 喉は接着剤を飲みこんだようにふさがってしまっていて、「そのひと、誰なの……?」とか「どうして……?」とかいう決まり文句も出てこない。わたしは涙をこらえきびすを返して駆け出した。あんなにひどかった頭痛もまったく感じなくなっていた。




 家に帰るなり、わたしは自分の部屋に飛びこみ、ベッドに突っ伏して大泣きした。


 やがてお母さんがパートから帰ってきて、何があったのか訊きに来たけれど、わたしはとても話せる状態じゃなかった。お父さんが仕事から帰ってきたときも同じだ。晩ごはんも食べなかったしお風呂にも入らなかった。


 亮太からは何度もメッセージが送られてきたり電話がかかってきたりしたけれど、わたしは最初のメッセージしか読まず、しまいにはスマホの通知音をオフにしてしまった。最初のメッセージには、


〈マジでごめん! ちょっと魔が差したんだ。あいつがどうしてもって言うからほだされたっていうか……。ほんとに好きなのはほのかだけだよ〉


 なんていう、クソ下らない言い訳が書かれていたから。


 それでも寝るまえにはルカンに手を伸ばして――ふと止めた。


 ルカンをお迎えしてから、良くないことばっかり起こってる……。


 ミスをして小林には怒られるし、お母さんは階段から落ちるし、あげくの果てに今日のこれだ。


 ルカンの真っ黒な目や、笑っているような顔や、ずらりと並んだ歯が、急に不気味に見えてきた。


 私はほんもののサメと対峙しているようにそろそろと手を引いて、ルカンから目を逸らした。結局その日は、最古参のぬいぐるみ――ゴールデンレトリバーの茶太郎を抱いて寝た。


     ◇◆◇


 それから十日ちょっと。そのあいだ良くないことは起こらなかったけれど、わたしはルカンを抱いて寝ることだけではなく、ルカンに触れることもできずにいた。


 その日は土曜で、事情を聞いた親友の萌が飲みに誘ってくれていた。


「亮太のバカ野郎! 浮気者! 裏切り者! クズ! カス! 人でなし!」


 わたしは次々にお酒を頼んで、萌が「そうだそうだ!」と加勢してくれるのをいいことに、自分の辞書に載っているかぎりの罵詈雑言ばりぞうごんを口にした。


 閉店間際までお店にいて、萌に駅まで送ってもらう。通過電車がホームに入ってきたとき、突然ひどいめまいがして、体がぐらりと前に傾いた。


 しかも、わたしがいたのは黄色い線の外側だった。酔っぱらっていたから立つ場所なんて意識していなかったのだ。


 え、落ちる……? 轢かれる……? わたし、死ぬの……?


 体中の血が一気に干上がってしまったような気がした。そりゃあのことがあってから、数えきれないくらい「人生終わった」とか「いっそ死んだほうがマシ」とか思ったけど、ホントに終わっちゃうのはいやだよ……! やっぱり生きてるほうがマシだよ……!


 神様的な誰かに訴えたそのとき、何か青いものが胸にぶつかってきた。亮太の浮気現場を目撃するまえに見たものと同じだ。


「わっ!」


 尻もちをついたわたしの目の前を、電車が轟音とともに通り過ぎていく。


「大丈夫ですか⁉」


 駆け寄ってきてくれたおじさんに、震えながらこくこくとうなずいた。酔いなんて一瞬で冷めていた。コートの襟をかきあわせて、一キロくらい全力疾走したあとのように乱れた呼吸を整える――一キロも全力疾走したことなんて、学生時代でさえ一度もないけれど。少し落ち着いてくると、


 あの青いもの、何なんだろう……。


 当然その疑問が浮かんできた。


 見覚えのある青……ううん、それどころかすごく身近にある青だったような気がする……。


 機械的に次の電車に乗りこんで考えつづけていると、窓の外にサメのキャラクターの看板が見えた。――答えがひらめいたのは、その瞬間だった。




「お母さん、階段から落ちた日、病院で何か言おうとしてやめたよね? ほら、ひどく頭を打つ、死ぬかもしれないって思ったとか言ったあと……」


 リビングに駆けこむなり、わたしは「ただいま」を言うのも忘れてお母さんに訊いた。


「え、ええ……」


 お母さんは目を白黒させた。うちの娘、彼氏に浮気されたショックのあまりとうとうおかしくなっちゃったのかしらと思われたかもしれないが、かまってはいられない。


「何て言おうとしたの?」


「だから気のせいだって……」


「お願い。教えて」


 まっすぐお母さんの目を見つめると、お母さんは小さく息をついてふっと微笑んだ。


「実は……頭をぶつける直前、何かに手をつかまれたの。ううん、つかまれたっていうより包まれたっていう感じだったわね。おかげでひどくぶつけなくてすんだのよ」


「その何かって……どんな?」


「人間の手の感触じゃなかったわ。やわらかくて手ざわりのいい……そう、それこそぬいぐるみに使う布みたいな……」


 やっぱり、さっきひらめいた答えは正解だったんだ。日が昇ったように心がぱぁっと明るくなる。


「ありがと!」


 わたしは自分の部屋に飛びこみ、


「ごめんね、ルカン。勝手に誤解して、淋しい思いをさせて……」


 ルカンをぎゅっと抱きしめた。


 ルカンは良くないことを招いてたんじゃない。反対に、良くないことからわたしやお母さんを守ってくれてたんだ。


 お母さんが階段から落ちたときや、わたしがさっき電車に轢かれそうになったときはもちろん、わたしが亮太の浮気現場を目撃したときもそうだ。あんなやつだと知らずに結婚していたら、あとでもっともっとつらくて大変な思いをしていたにちがいないのだから。


 ルカンをお迎えした翌日、小林がしきりに首筋を触っていたのも、そこにルカンがいたからではないだろうか。わたしにお説教するのをやめさせようとして――。


     ◇◆◇


 それから、ルカンはわたしにとって特別なぬいぐるみの一匹になって、わたしはしょっちゅうルカンに「ありがとう」と言っている。


 もっとも、ほかのぬいぐるみにも言っているのだけれど。良くないことから守ってくれなくても、あの子たちがいてくれるだけでどんなに救われているかわからないのだから。


 ときどき、ルカンの向きや場所は置いたときと変わっているけれど、それもルカンが生きている証だと思えばむしろうれしい。


〈了〉

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