魔法使いは眠らない。

柴崎 唯

序章「永遠に訪れぬ恵みを待つ大地」

 薄氷が割れるような音を立てて、三趾さんしに分かれた頑丈な足は『白砂ヒエカ』を噛みしめた。青年が握る手綱から頭絡とうらくへと機微が伝わり、鋭い鉤爪は滑ることなく砂地を掴む。


 走竜種レプティと呼ばれる大型の爬虫類に騎乗した青年の頭上では、荒々しい嵐が猛り狂い、途切れることのない濁流の如く曇天がうねり流れる。


 強風に晒され続けた青年と走竜種は全身白砂にまみれていた。ざらついた砂は厚手の帽子や襟巻きの縫い目を抜けて、短く刈り込まれた焦げ茶色の髪や、衣服の隙間にまで這入り込む。寒さによる乾燥は青年の唇を割り、砂を含んだ凍てつく風は無数の針となって皮膚を痛ませた。


 青年は無意識に口元の覆いをずらし、苦々しく空唾を吐き捨てた。からからに渇いた口腔内にわずかに染み出た唾液すらも、砂混じりのものでしかなかったからだ。嚥下の都度に生じるは青年の神経を容赦なく逆撫でた。青年は顔をしかめ、


「くそっ、耳の中まで砂だらけだ」


 と、悪態づきながらも、左手で顔を覆い、巻き上がる砂埃から辛くも目を守る。


「ホルルン」と青年の下で走竜種が喉元をくぐもらせたような音を発した。


「なあに、心配はいらない。いつものことさ」


 青年は純白の鱗に覆われた走竜種の首をさすると、口元まで下げた襟巻きを、再び目元まで引き上げた。


 そして一際強い一陣が吹き付けた。凍てついた大気が全身を貫き、青年の琥珀色の瞳はふいにを見た。


 それはが木々の間から差し込み、鮮やかな緑の葉々を際立たせた静かな森の中に佇む、翡翠色に光る苔生したほこら。耳を澄ますと、風に乗って小鳥のさえずりや、木々が葉を摺り合わせる音がまるで讃美歌のように聞こえてきた。足下では色とりどりの花が咲き乱れている。甘美な香りに誘われてか、凍えるような気温の中でも、蝶や蜂が花から花へと優雅に舞う。


 そうした中で古びた祠は、錆びた鉄の扉によって固く閉ざされていた。しかし、に促され、その扉に触れてしまったのだ。すると、朽ち果てかけた錠前が青白い稲妻を放ちながら崩れ落ち、次の瞬間、祠の奥深くから、まるで常世全ての悪意を凝縮したかのような黒い霧が、一瞬にして世界を覆い尽くすべくあふれ出したのだ。


 と、場面が変わる。


 真っ先に飛び込んできたのは紅色だった。次いで顔を焼くような熱波。鼻をつく酷い臭気。


 村が燃えていた。ごうごうと燃え盛る炎。かつて自分達が暮らしていたかの場所が灰燼と帰していく。そして視界の端には──。


 くっくっくっ、と喉の奥で空笑いが漏れる。を振り払うかのように頭を振ると、青年は無機質な白と灰色に塗りつぶされた荒涼とした現実に視線を戻した。


 青年の故郷が地図から消えるきっかけとなったその記憶は、今もなお心を重く締め付けている。青年が無謀にもこの白砂漠を幾度にも渡って旅するのも、きっとその影響なのだろう。


 ここは生命の根源たる『星の息吹マナ』が失われ、枯れ果てた地。風は絶え間なく吹き募り、砂は果てしなく舞い上がる。空には『蓋雲がいうん』と呼ばれる鉛色の重たい雲が垂れ込み、天上の輝きは見放されたかのように地上ここには届かない。


死の大地サンヴィヨルドか。はっ! 言い得て妙だな!」


 青年の呟きが風に攫われた直後、ぱきりと乾いた音が走竜種の足下で響いた


 触れれば砂のように崩れる、それはかつて植物だったもの。白砂に埋もれ、ただ灰色の影となって砂紋との区別がつかなくなったもの。青年は無意識にその脆い残骸──朽ちた枝を見つめていた。


 さらに独り言ちそうになるのを、深く息を吐いてなんとかこらえた。口元を覆っていた襟巻きから漏れ出た白息が、儚い露となって風に連れ去られ消えていく。星の息吹が失われたこの土地では、わずかな水分すら、生体から分離したあとはその存在を保持できないのだ。


 青年は寒さと風から身を守るため、幾重にも衣服を重ね着し、それらを幅広の革帯ベルトで留め、上から色褪せた厚手の外套コートを羽織っていた。外套は長年の旅ですり切れ、所々に粗雑な縫い目や継ぎ当てが目立つ。


 しばらく進んでいると、次第に風が弱まり始めた。耳の中に響く風の音が徐々に弱まり、自らの荒い息づかいと走竜種の呼吸音だけが聞こえてくるようになった。


 走竜種の足が不意に止まった。「ピュルルル」と短く軽い音を発して顔を上げたのだ。次の瞬間、皮膚を刺すような風の感触が、ほんのわずかに和らいだような気がした。青年もつられて顔を上げると、鉛色の雲海に小さな裂け目が生まれているのが見えた。


 その隙間から差し込み始める一条の光を、琥珀色の瞳は見据えた。


『雲のまなこ』──それは滅多に訪れない光の奇蹟。


 ぽかりと空いた天空の裂け目は、まるでこちらを覗くようにゆっくりと広がっていく。やがてその向こうで、深淵のように輝く巨大なが姿を現した。そしてその周囲には二回り以上小さい燃えるような紅と澄み切った碧の双子星が寄り添うように煌めいている。


「憐憫の蒼星『サンポ』、それに慈心の双子星『ニッセ』と『トムテ』か。まさかこの白砂漠でお目にかかれるとは」


 ツイているんだか、いないんだか、と青年は呟きながら走竜種の頭を撫でた。そして先へ進ませようと指示を出そうとしたところで、さらに驚くべき光景が広がっていることに気づいた。


 雲の眼から、まるで天上の世界がこぼれ落ちてくるかのように、湿った空気が流れ込んできていたのだ。その湿気を含んだ空気は、雲下の凍てついた大気に触れると、瞬く間に白霧へと姿を変えた。


 優しく降りてきた霧は白砂に触れる。すると、まるでのように、霜の結晶が次々と花開いていったのだ。乾いた白砂の上に、繊細な氷の妙が刻まれていく様は、まるで透明な画家が見えない筆を走らせているようだった。


 雲の眼からこぼれた光はやがて大きな柱となり、天と地をつなぎ止める。『乙女の階段』とも呼ばれる現象だ。


 その光が降り注ぐ場所では、霜の結晶がより強く輝き、まるで無数の星屑が地上に降り積もったかのように見える。そして遙か遠く、遠くまで、無数の鏡片が散りばめられたような白銀の光沢を湛えた『海』を創り出したのだ。


「まるで『創星紀』に謳われる星々の海だな」


 その言葉が露となって空気に溶ける前に、青年はわずかに首を横に振った。いや、違う。いいや、違う。言葉として発しない程度に呼気に混ぜて。


 ここは決して『海』のような恵み残りし場所ではないのだ。その美しさに惑わされてはいけない。ここに広がるのはどこまで行っても、何も変わることのない、全てが静止した世界。


 青年は厚手の手袋をはめた指を懐に入れ、慣れた動きで星時計リュミナーレを探り当てた。


 それは緻密な円環を組み合わせたように見える道具だが、麻紐のついた木枠で囲われた円柱状の硝子ガラス管の中には、砂の代わりに一本の針が吊り下げられている。その針は揺れることもなく一点を指して静止していた。


 青年は星時計をじっと見つめ、小さく頷いた。


「どうやらこの方角で間違いないようだな。星痕の反応は途切れていない」


 青年の言葉を理解しているのか、走竜種の鏡鉄のように冷たい大きな瞳が、瞬膜越しにまっすぐ青年を見返して小さく頷いた。


 青年は長年の旅に耐えてきた背嚢ナップザックを背負い直した。その動きに合わせて積もった白砂がかすかに舞い、背嚢に結わい付けた小さな徽章きしょうがかすかに揺れた。徽章の表には艶を失った浮彫レリーフの羅針盤を模した紋章があり、その中心には古代文字で『探索士』という文字が深く刻まれていたが、その溝は白砂で目詰まりしていた。


 裏面もまた、幾重にも細やかな意匠が施されている。五つの星が見えない糸で円を描くように並んでいるのだ。それらの中央に女神の横顔が見える。しかし、長い歳月の間に星々は摩耗し、白砂が付着した女神はその神々しい表情が陰ったように見えていた。


 青年は星時計を手首に巻き付け、再び前を向いた。鐙に乗せた両足を挟むようにして走竜種に合図を送る。途端、走竜種は力強く駆けだした。大きく間隔の空いた足跡を点々と残しながら。


 走竜種の鉤爪が砂地を踏みしめる音と、青年の外套が風につかまってたなびく音だけがいつまでも周囲に響き渡っていた。


           †


 ──ここはサリオラ。神に見捨てられ、滅び行く世界。緩やかなる滅びは、神による最後の慈悲だそうだ。寒冷化が進み、大地は痩せ果てた。人々は数少ない恵み残りしこのアウリウスという地に集い、必死に生きてきた。

 されど、あるところでは、生き物は姿を保てずに異形と化して他者を襲った。

 されど、あるところでは、その異形すらも姿を保てず白い砂と化して散った。

 青年はずっと探し求めていた。

 この世界は本当に神に見捨てられたのか、と。

 この世界を救う方法は残されていないのか、と。

 青年はこれまで多くの遺跡を訪れ奮闘してきたものの、その成果は微細なものばかり。疑念を抱かなかった、といえば嘘になる。

 けれど、それでも、と。

 過去の僅少な光芒を巡り、未知の可能性を追い求めずにはいられないのだ。それが自らのを払拭することに繋がると信じて。 未到の手がかりを求めて、新たなる遺跡への探究の旅が始まる。

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