第五話

 翌朝エスカは、上空から見えない位置にエアカーを停めた。自宅の方向を木陰から眺める。いつもの登校時刻に、アルトスの乗るエアバイクが飛び立つのを見送った。感心感心。ちゃんと大学に行くんだね。

 エアバイクが視界から消えると、エスカは別荘地近くの小さな店舗で買い物をした。食品とお茶。そして自宅に向かう。

 昨夜、思いついたことがある。あの時、アスピシアはアルトスを庇ったのではない。エスカを止めようとしたのだ。『怒っちゃ駄目だよ』と。

 それなのに、エスカはアスピシアに八つ当たりしてしまった。胸が痛い。アスピシアは、ご飯を食べているだろうか。

 念のため、エアカーを車庫に入れる。リビングに行くと、アスピシアの姿はない。階段に足をかけようとした時、アスピシアが駆け下りて来た。エスカに突進する。

「わああ〜!」

 歓喜の声を上げて、エスカはアスピシアを抱き締めた。なんのわだかまりもなく、アスピシアはエスカに身体を擦りつける。

「ごめんねアスピシア」

 振り向いて、アスピシアの食器を見る。案の定てんこ盛りのフードのボウルがいつもの位置に置いてある。アスピシアは、エスカのベッドから動かなかったのだろう。

「ご飯お食べよ。お外、先がいいかな?」

 アスピシアは、外に走り出て行った。安心してエスカはお茶を淹れ、買って来たパンを食べた。当座の予定はこれで決まった。

 朝と夜の住人はアルトス。昼間はエスカ。ハウスシェアである。痕跡を残さなければ、アルトスには気づかれないはずだ。

 アルトスは、週末には農場に行く。その際は、エスカがここを独り占め。我ながら素晴らしいアイディアではないか。

 庭を思い切り走り回ったアスピシアが、戻って来た。勢いよくフードを食べ始める。これでいい。昨夜眠れなかったエスカは、ほっとして居眠りを始めた。

 エスカが自宅に通う生活を始めて、一週間ほどが過ぎた。その間、些か気になることがあった。見張られている。

 自宅と車中泊をする山林を行き来する際、別荘地を散歩する男たちがいる。家の前をぶらぶら歩きする男。ご丁寧に犬を連れている男。総勢三人である。何れもよく見る光景だが、男たちの雰囲気に違和感があった。

 カーテンの陰からそっと見ると、こちらをちらちらと見ながら歩いている。どうやら三交代制のようだ。いずれもラヴェンナ人。

 ターゲットは、アルトスとエスカ、どちらだろう。アルトスなら夜ひとりでいるのはわかったはずだから、襲う気なら襲っているはずだ。

 ではエスカか? 今さらなんのために? 移動の途中で襲うことができるはずだが、慎重を期しているのだろう。これまでに尽く失敗しているのだから。

 次はどういう手で来るか。迎え討つ準備だけはしておこう。エスカは、アルトスと同居している時に、通販で高性能カメラを買っている。望遠レンズ付き、フォーカスできて、動くものもキャッチできる。必要な機会があるかも。可能性の問題だ。

 エスカがカメラをいじっているのを見たアルトスは、ご機嫌だった。

「バードウォッチングでもするのか? 俺にも貸してくれ」

 どこまでも図々しいヤツ。エスカは笑顔で応えた。アルトスがご機嫌だと、エスカも嬉しい。

 アルトスが出かけた後、エスカは不審人物ウォッチングにいそしんだ。犬連れの男がリーダーのようだ。他のふたりとすれ違いざまに、何事か指図している。

 犬は借り物ではなく、愛犬らしい。犬を連れて入国したということは、飛行機ではなくエアカーだろう。今度こそ、確実にエスカを仕留める気のはず。どんな手で来るか。

 暇を幸い、エスカはシミュレーションしてみた。大きめのリュックにアスピシアのフード、皿、水、自身の着替えを詰め込む。二度目の死亡を偽装する破目になるかもしれない。それからアダに連絡した。

 そんなある日、リビングでギターラを弾いていると、物音がした。何者かが車庫から侵入したようだ。敵意は感じられない。まさかアルトスが戻って来た?

 車庫から通じるドアの前で待つ。エスカに武器はいらない。いざとなったら『金縛り』か『電撃』だ。

 ドアが開いて顔を覗かせたのは、ウリ・ジオンだった。エスカを見て、歓声をあげる。

「いたいた! やっぱりな」

 なぜにウリ・ジオン? ウリ・ジオンがこの家に来るのは初めてのはず。珍しそうにリビングを見回した。

「いい家だね」

 言うと、ソファにどっかりと腰をおろした。

「今日は、全権大使だよ。セダとサイムスに頼まれた」

「僕がいること、よく分かったね」

「セダ、サイムス、そして僕の考察の結果だよ」

 わだかまりは既にない。以前のウリ・ジオンだ。エスカはただただ嬉しい。何でも素直に話そう。ウリ・ジオンには、自然とそういう気持ちになるのだ。誰かさんとは大違い。なぜかは、エスカには理解できない。シェトゥーニャが言っていた磁石の反発か。

 エスカはお茶を淹れて、おとなしくソファに座った。

「週末にアルトスが来て、愚痴っていった」

 ウリ・ジオンは苦笑した。

「詳しい話は『言えない』の一点張り。ただ『アスピシアがちゃんと食べているから、その点については問題なし』の言葉に、セダとサイムスが首を傾げた。アルトスには言わなかったけどな。

 聞けば、昼間、つまりアルトスが留守の間は完食しているそうだ。それで腹いっぱいなのか、夜は食べないと。僕は気づかなかった。エスカがいない間のアスピシアを知らなかったからだ。エスカとアダとアルトスと僕は、一緒にシボレスに行っていたからね。

 エスカの留守の間、アスピシアが食べなかった話は聞いてるよね? それだけじゃない。誰も寄せつけなかったそうだ。

 威嚇こそしなかったが、エスカのベッドから全く動かなかった。誰かが撫でようとすると、そっぽを向いて尻尾を巻いて丸くなる。そんな状態だったそうだ。

 アルトスは、エスカの次に懐かれてるから自信があるんだろうな。だが一位と二位の差は、大きいよ。夜食べないのは、エスカがいないからだ。昼間完食しているのは、エスカがいるからではないかと。

 セダとサイムスの意見は一致した。それで僕が背中を押されて来た。エスカと和解しろってさ」

 みんな鋭いな。アルトス以外は。

「本当に申しわけなかった。真っ先にエスカの気持ちを考えなくちゃいけなかったのに、自分たちのことしか頭になかった」

 ウリ・ジオンは、深々と頭を下げた。

「もういいよ。僕も怒ったから、お互いさまさ。忘れて」

「ありがとう。それに、ひとつ誤解を解いておきたい。ヴィットリアから招待状が来た時のことだ。

 僕とシェトゥーニャの連名だったから、ふたりで出席か欠席かで悩んだんだ。決してエスカを見捨てたわけじゃないよ」

 エスカは、大きく息を吸い込んだ。

「それも忘れて。あの時に、僕の中では終わったから」

 ウリ・ジオンは、ひどく傷ついた表情を見せた。

「ウリ・ジオンとシェトゥーニャは、決して切り離すことができないことがわかったしね」

 そう。例え僕のお腹にウリ・ジオンの子がいてもね。

「エスカ。エスカは、僕が商会に戻る方がいいと思ってる?」

「いや。それは、ウリ・ジオンの決めることでしょ。僕、身近な人のことは読めないんだ。ただ家族がケンカ別れみたいなのはまずいと思って」

 ウリ・ジオンが明るく笑った。

「ありがとう。お陰でそれは解消したよ。こちらに引き上げる前に、親父を見舞って来た。エスカに感謝していたよ。

 それで親父からお礼の入金があった。中古の軽トラ買うつもりだったけど、新車にするよ。セダも喜んでくれた。

 アダにも入金されてて、店の厨房をリフォームするって。ホロが恐縮してたそうだ。エスカにもあっただろ?」

「え、確認してない」

 エスカは慌ててタブレットを開いた。

「エスカは、商人向きじゃないな」

 ウリ・ジオンが苦笑した。エスカが悲鳴をあげる。

「またまたこんなに! どうしよう!」

 画面を覗きこんだウリ・ジオンが笑い声をあげた。

「さすが! 僕たちと一桁違うな」

「困るよ、いつもいつも」

「困ることはないよ。命の恩人なんだ。いくらもらっても多すぎはしないさ」

「でも僕、いずれ働くつもりだし。教育費だってこんなには」

「寄付でもするか? パソコンで手続きできるよ」

「寄付! そういう手があったか! よし、後でじっくり調べるとしよう。ウリ・ジオンがいてくれてよかった~!」

「そう言ってくれると嬉しいよ。さて、本日の訪問目的だけど。ここからも逃げ出したって、何があったんだ?」

 途端にエスカは小さくなった。

「……そもそもの発端は、ヘンリエッタからの電話だった」

 エスカは、ヘンリエッタの提案について話した。

「最適なのはウリ・ジオンだけど、あの時僕は、ウリ・ジオンに捨てられたと思っていたからさ。ウリ・ジオンは選択肢になかったんだ」

 ウリ・ジオンは、目頭を押さえた。

「何ということだ」

 呻くような声。

「それで、シボレスから帰った晩」

「あ!」

 ウリ・ジオンが声をあげた。

「あの時か! 実は、アダからセダに連絡があったんだってさ。『今ヘリでそちらに向かった。夕方には農場に到着するよ』ってね。

 でもふたりは翌日農場に来たって、サイムスが言ってた。不審には思ったけど、ふたりとも大人だ。何も言うまいと僕は思って、勘ぐらないことにした。セダとサイムスも同じだと思う」

「それで僕は、アルトスのその晩の記憶を封印した」

「なぜ?」

「憶えていてもらいたくなかった。アルトスは、いずれ僕から離れていく人だから」

「……確信があるのか?」

「分からないよ。身近な人のことだから。アルトスは今二十二くらい?」

 頷くウリ・ジオン。

「若いのに、なぜか結婚願望が強い。僕は応えられないから、いずれ別れるしかないでしょ。半端に封印したのは、僕に未練があったからだ」

「なんでエスカは応えられないんだ?」

「僕に子孫を残す気がなかったのは話したよね。それに、僕は単に天涯孤独の下僕じゃない。バックにラヴェンナとイシネスがいる。

 ラヴェンナでは僕は重要人物ではないから、放っといていいと思う。僕のこと、知らない人の方が多いしね。

 でもイシネスではどうか? 混血してでも子孫が欲しい人たちにとっては、喉から手が出るほど僕の子が欲しいだろう。僕が駄目なら、その子という訳だ。ヴァルス公爵閣下が養子に欲しいと言う可能性すらある。

 一方で、リール侯爵にとって僕は邪魔者だ。自身の即位を阻止する存在だからね。純血主義の人たちにとっても、同じことだ。とにかく、僕の子を騒動に巻き込みたくない。

 正式に結婚しないで、どこの馬の骨か分からない男の子どもを産んだとする。その場合は、僕がふしだらな女というだけで済むんじゃないかな。イシネス人は、そう考えるだろう。

 でも相手がラヴェンナの元王子だったら? 例え砂漠の民の血が入っているとしても、馬の骨じゃないでしょ。思いっきり狙われるよ。だからアルトスとの結婚はありえないのさ」

「でもアルトスは、エスカと暮らして楽しかったと言ってるよ」

「僕も楽しかったよ。なんて言うか、安定して充実していた。あの晩のことも、楽しかったんだ。妙な緊張感がなくて、リラックスしてた。アルトスが気をつかってくれたんだと思うよ」

 その後アルトスに騙されたくだりになると、ウリ・ジオンは爆笑した。

「エスカが、あの猿芝居に引っかかったって?」

 ウリ・ジオンの喜びように、エスカはむくれた。深刻な話なんだから、そんなに笑わなくても。

「で、問題はさ。大事な事を話す前に、僕が飛び出しちゃったから、アルトスはまだ知らないんだ」

「大事なこと?」

 エスカは、ひと呼吸おいた。

「僕、また妊娠した」

「はぁ?」

 さすがに、ウリ・ジオンは言葉の意味が呑み込めないようだ。

「お腹にふたりいるの。ウリ・ジオンの子とアルトスの子が」

 ウリ・ジオンは、ソファから跳び上がらんばかりの勢いで立ち上がった。エスカに詰め寄る。

「そんなこと可能か?」

「僕だからね。キスのせいか、本番のせいかは不明」

 エスカは、キャハハと笑った。

「笑って言うことかよ」

 ウリ・ジオンは呆れ果てたように、腰をおろした。

「ふたりの子にタイムラグはあるけど、ヘンリエッタが何とかしてくれるって。双子として、出生証明書にサインしてくれるそうだ。

 で、認知のことだけど。ふたりとも、父親欄は空欄にしようと思ってる」

「なんでだよ? 認知されてる方が、子どもにとって有利だと聞いたぞ」

「それは一般論でしょ。トラブルを避けるのが子どものためだと思うんだ。ウリ・ジオンの子が産まれたとなると、会長が黙ってないよ。

 ウリ・ジオンを連れ戻しにかかる。それが無理なら孫を渡せと。そういう可能性はない?」

「……ある」

「だからこの子たちは父親不明ということで、僕が全責任を持って育てる。極秘出産になるよ。病院には行かず、ヘンリエッタに来てもらうんだ」

 ウリ・ジオンは、再び目を覆った。

「アルトスには、近いうちに僕から話すよ。このことは、農場の人たちとホロ一家、それにマーカス以外には極秘でね。

 それから誤解のないように言っておきたい。僕は絶対に、子どもを養子に出すのは嫌だというんじゃないんだ。子どもがある程度成長して、自分で納得して養子になるなら、それでいいと思ってるよ。

 ただ何も分からない子どものうちに、運命を変えたくない。アルトスや僕みたいに、やむを得ない事情がある場合を除いては、産みの親が育てるのが最善ではないかと思ってるんだけど」

 ウリ・ジオンは大きく頷いた。

「そうだよな。身をもって知っていたのに、それをすっかり忘れていた」

「え。ウリ・ジオン、実のお母さんに育てられたんじゃないの?」

「ば~か。元王女殿下が、赤子のオシメなんか替えるわけないだろう。全部乳母任せだよ。本人は、ちょこっと覗きに来るだけさ。パーティやお茶会の合間にね。

 子ども心に思ったものさ。『この人、自分の子に愛情があるのかな』ってね。お腹をいためた子だから、あるはずだけどな。

 だからエスカが育ててくれ。できる協力は何でもする」

「ありがとう。父親になりたいなら、せいぜい子どものご機嫌とりに来てよ」

「会っていいのか?」

「当たり前でしょ、親なんだから」

「シェトゥーニャもいいかな?」

「シェトゥーニャかぁ。抱っこして、そのままトンズラする可能性はない?」

「あるかもな」

 大笑いした。

 ウリ・ジオンが帰った後、エスカはアルトスにメールした。

『夕食は、ホロのお店で受け取ってきて。予約しておくから』


 アルトスはいつも通りに帰宅した。何ごともなかったかのように、一緒に食事をし、お茶を飲んだ。静かで平和な日々が戻った。エスカは、こういう暮らしを望んでいたのだ。それが今わかった。

「あの車だけどな。通勤通学には最適なんだ。小回りが効くしな。けど、子どもが産まれたら、一緒に出かけたりするだろ? 大きい車買うってのはどうだ? ワゴン車とか」

「僕もそれは考えてた。まだ早いかもって思ってたけどね。準備しておくかな。ふたり増えることだし」

「ふたり?」

 アルトスの耳に引っ掛ったようだ。そう。それを話したかったんだよ。

「どういう意味だよ?」

「またデキちゃった」

 てへへと笑う。

「デキちゃったって、まさかお前……」

「僕、百発百中みたいだ」

 アルトスは立ち上がった。

「この前のアレか?」

「そう。楽しかったアレだよ」

 アルトスは、信じられない光景を目にしたかのように、エスカを凝視した。次の瞬間、エスカを抱き締める。無言のまま、抱き締め続けた。だがエスカには、アルトスの叫びが聞こえていた。

『俺の子! エスカが俺の子を! エスカが!』

 それは、以前聞いた慟哭に似ていた。


「週末、農場に行くんだが。一緒に行くか?」

「え。僕、ここでのんびりしてるよ」

「そうか。みんな会いたがってるんだけどな」

「また今度ね」

「大事にしてろ。ちょっと腹も出てきたしな」

 アルトスは、そっとエスカの腹部を撫でた。エスカは、にこにこと頷く。いつまでも監視されるのはイヤだ。さっさとケリをつけてしまいたい。

「車だけど、僕わからないからお任せね」

「おおっ! 任せろ。ついでに相談してくるよ」

 スポンサーはエスカだから、アルトスは親方日の丸気分である。芸術系の授業料は高額だから、先日のタンツ氏からの謝礼金はありがたかったそうだ。つまり、アルトス元王子殿下はお金持ちではないのだ。


 土曜日の朝。エスカはエアカーで出かけるアルトスを、わざわざ外に出て見送った。遠ざかるエアカーに大きく手を振る。これまでにしたことのないことをしてくれるエスカに、アルトスは上機嫌だった。

 さあ、アルトスは出かけましたよ。今夜はエスカひとり。願ってもないチャンスですよ。というアピールなのだが。

 昼間エスカがいても攻撃してこなかったのだから、夜を狙っているのだろう。アルトスを巻き込む気がないのは感心だ。

 夜まで、エスカはいつも通りに過ごした。外で走り回るアスピシアを見ながら、温室で野菜や草花の手入れをする。ギターラをつま弾く。

 それから思いついて、アルトスとウリ・ジオンに同文のメールをした。

『名前を考えておいてね。

 男の子の名前

 女の子の名前

 どちらにも通用する名前』

 そして送信した。エスカのような子どもが産まれる可能性は、充分にあるのだ。

 フェンスの向こう側を散歩する男たちのことは、気にしないふりをした。スキーのシーズンにはまだ間があるため、通行人はまれである。

 陽が落ちて暗くなると、エスカは家中のカーテンをぴったり閉めた。耳を澄ます。遠くからエアカーの音。高度を保ったまま飛んで来る。

 地上から攻撃するなら、高度を下げるはず。それなら各個撃破できるのだが、敵も学習したようだ。空からの攻撃。一番嫌なパターンである。エスカはアダに連絡した。

『始まるよ。よろしく』

「アスピシア、行くよ!」

 エスカはリュックを背負い、闇夜に銀髪が目だたないように、ウィッグを被った。アスピシアを促して裏口から外に出る。この角度なら、まだあのエアカーからは見えない。

 奥の別荘地にはまだ住人がいないため、街灯は点いていない。エスカの家は、カーテンを閉めているので、外から見れば真っ暗である。

 エスカはアスピシアを抱きかかえて、百メートルほど山に向かってジャンプした。月や星が出ていて明るかったなら、ジャンプでは見つかる恐れがある。その場合はワープするつもりだった。余計なエネルギーを使わずに済んで、ラッキーだった。

 奥の別荘地に近い山林に腹ばいになって、エスカは相手の出方を待った。エスカの家の真上で、エアカーは数秒ホバリングした。

 突然、エアカーから何かが落とされた。凄まじい轟音。これではご近所さんが起きるな。通報してくれるだろう。エスカのところにまで火の粉が飛んで来た。

 もう少し登ってから山林を出よう。消防や警察に見つからない方角に行かなくては。歩きながらマーカスに電話しようとしたが、圏外である。山林を出てからにしよう。

 不意に、アスピシアが腰を低くしてエスカを見た。背中に乗れと言っている。

「無理だよ。僕の方が重いし、荷物も」

 言いかけて、気づいた。獣の臭い。クマだ! 木々の合間を縫ってジャンプするのは難しい。エスカは迷わずアスピシアの背に乗った。首にしがみつく。

「そのまま登って!」

 アスピシアは軽快に走る。いや、走っている感触ではない。超低空飛行をしているのに近い。しばらく登ると右折して、開けた雑草地に出た。クマは追って来ないようだ。

 エスカはアスピシアから降りた。リュックから水と皿を取り出し、アスピシアに飲ませる。それから携帯を取り出した。

 真夜中なのにマーカスは一回で出た。やはり訓練されている者は違う。火災の連絡は、まだのようだ。

「マーカス? こんな時間にごめん。襲われた。空爆されたんだ」

「なにっ?」

「襲った男三人の画像を送るから、すぐに手配して。僕はしばらく行方不明ってことで」

「わかった。気をつけてな」

 無駄な言葉は一切ない。さすがマーカス。次にエスカはセダに連絡した。

「襲われた」

「はぁ? ちょっと待て。スピーカーにする。サイムス、アルトスとウリ・ジオンを呼べ」

「詳しいことは後で話す。場所を言うからセダ、迎えに来て。あとの三人は、消防か警察から連絡があるまで待機して。出かける時は、僕のエアカーは残しておいてね。

 それから僕は行方不明ってことで。現場に駆けつけたら、せいぜいパニック状態の芝居よろしく」

「適任者がいるな」

 セダはくすくすと笑った。

 エスカはアスピシアを撫でながら、静かに語りかけた。

「イシネスにいる時、オーランさまから術を授けられたんだね。そうでなければ、あの脚で生き延びられるはずがない。お陰で助かったよ」

 アスピシアはエスカの膝に乗り、甘えた。子狐のアスピシアを狙う相手から逃げるのに、地面に足をつくことなく飛ぶ。ニオイは残らず、走るより飛ぶ方が速い。

 元々、霊力はあったのだろう。何か教えてみようか。ふとそんな考えが、エスカの脳裡に浮かんだ。

 エスカの家の周囲の空が明るくなっている。派手に燃えているようだ。駆けつけた消防車は、離れた所に降りて消火活動をしている。手間取りそうだ。警察車両も到着しているだろうが、暗くて見えない。

 晩秋の夜である。冷える。お腹の子は異状なし。エスカとアスピシアは、抱き合って暖めあった。

 南の方角から、エアカーが低空飛行でやって来る。エスカは立ち上がって、ペンライトを取り出した。


 セダの運転で農場に着くと、サイムスが出迎えてくれた。

「さっき軍警察のニルズ曹長から第一報が入った。消火中でまだ何も分からないが、家に誰か居たのかと。それでパニクったふりのアルトスとウリ・ジオンが出かけたよ」

 エスカが無事なのは知っていたので、後はアルトスとウリ・ジオンの演技力にかかっている。

「あの、それで僕、本当に行方不明になるつもりだから。後のことはよろしく」

 エスカは、自分のエアカーにアスピシアと一緒に乗り込んだ。

「だから、エアカーを残してと言ったのか」 

 今さらながらにセダが納得する。

「気をつけてな」

 とサイムス。詳しいことは聞いていないはずだ。

「また死ぬ破目になるとはね」

 エスカの言葉に、ふたりは苦笑した。

「連絡してくれよ」

 エスカは返事をせずに微笑んだ。低空に飛び立つと、エスカは南に進んだ。農場から見えなくなった辺りで、東に向きを変える。ラドレイの南、シボレスの東に位置する未開発の地。

 地図は頭に入っている。アダに教えられた場所に向かう。夜明けにはほど遠いため、人目につくことはない。いつも使っている携帯は、電源を切ってある。エスカは、追跡できない携帯を取り出した。

「もうすぐ着くよ」

「了解」

 雑草地の中に、ぽつんと一軒家がある。ペンライトが光った。

「お疲れ。うまくいったな」

 アダは安堵の表情を浮かべて、エスカとアスピシアを迎えてくれた。

「狭い家だが、我慢してくれ。土地は広いんだが、借家だからな」

「とんでもない。無理言ってごめんね」

「取りあえずハウスクリーニングだけ入れた。半年分前払いしておいたから、誰も来ないよ。それでこの度のストーリーだが」

 アダは可笑しそうだ。

「お前は、ヤンネ・フォルゲという男に囲われている。妊娠したので、本妻の嫉妬を恐れて、ここに匿われたそうだ」

「ヤンネ・フォルゲって誰?」

「セダの別名だよ。俺たち、企画二部の諜報員だったからな。ふたりとも別名のパスポートを数冊持ってるんだ。エスカのも作っておいた」

 アダが差し出してくれたのは、『エスカ・ニールセン』のパスポートである。黒髪になっている。

「誕生日を半年早く設定しておいたよ。だからエスカは今十九才だ。都合よく使い分けるといい」

「ありがとう! でも僕、セダの愛人って……ごめんねサイムス」

 ふたりは、思い切り笑った。

「今のところ、知っているのは俺とセダだけだ。いずれサイムスも知ることになる。ウリ・ジオンとアルトスには内緒ということでいいな」

「うん。トラブルは避けたい」

「俺もそれがいいと思う。エスカがこの家にいるのは、安全が確実になるまでだ。そこがはっきりしないのが困るところなんだがな。ヤンネ・フォルゲの名で借りてあるから、エスカの名はどこにも出て来ないよ」

「僕の死亡宣告は、何年後になるの?」

「三年後だな」

「長いね」

「短い方だよ。ラヴェンナでは七年だ。イシネスの一年が短いのさ。あの気候で生き延びるのは不可能だからな。妥当な線だろう」

「それまで、あの焼け跡は放置?」

「いや。お役所に代理人が申請すれば、瓦礫を片付けることはできるよ。放っておくと、不心得者が粗大ゴミを廃棄したり、資材置き場にしたりするからな。

 景観上と衛生面の問題で、むしろお役所では早い時期に撤去してもらいたいんじゃないかな。だから全部片付いたら、外部からゴミを投げ込まれたりしないように、高い塀を建てて防犯カメラを付ける。

 保険金がおりたら、すぐに撤去作業してもらうつもりだよ。幸い、この前エスカが電子書類にサインしてくれてるからな」

「その代理人って誰?」

 アダは自分の鼻を指差した。

「そっか。手続き全部やってもらったもんね。それで、三年後に僕が死んだら、あの土地はどうなるの?」

「エスカは天涯孤独になってるからな。その場合は代理人のものになる」

「わぁ! アダ、お金持ちになるんだ! あそこは立地がいいから、値打ちモノだよ」

 エスカはけらけら笑った。アダは、困ったように鼻を掻いた。

「だからな。そうなる前に帰って来い。たまたま代理人やっただけで、俺だけ金持ちになるって申しわけないだろ」

「みんなで分ければ?」

「いや。めんどくさい。早く事件が解決するように、セダと頑張ってみるよ。それであの土地だが。ウリ・ジオン大商人さまの言うことにゃ『立地がいいから手放すな』だとさ。

 エスカ、あそこに家を建て替える気はあるか?」

「あるよ。気に入ってるんだ。いずれ増築しようと思ってたし。子ども部屋がいるでしょ。でも僕、今はそんなにお金ないよ。たっぷり寄付しちゃったしね。教育費は、しっかり残してあるけど。

 それとも他に使い途ができるかも。ゆっくり考えようと思うんだ」

「保険金で賄えるといいな。それはまた後で相談しよう」

「あのさ。ヴァニン子爵って、お金持ち?」

「いや。この前のことで爵位剥奪、首都から追放されたはずだ。土地は没収、財産は半分取り上げられたそうだから、生活はかつかつじゃないかな」

「ふうん。となると、実行犯がラヴェンナ人でも、雇い主が他国人ということもあるよね」

 アダは、じっとエスカを見た。

「イシネス人とか?」

「前に来たリール侯爵とか」

「なるほど。お前恨み買ってるな」

「身に覚えはないけどね」

「先方が身勝手な理由で恨むんだ。出世の邪魔とか。その線で調べてみるよ」

 二階に寝室がふたつある。アダには夜明けまでの数時間、その一室で仮眠を取ってもらった。

 早朝に、エスカが化粧着を羽織って階段を降りてみると、アダがそっと出て行くところだった。

「アダ! ごめん、さっき見えたんだ」 

「何が?」

「アニタだよ。今夜出産する」

「え。まだ早い……」

「予定日の前後二週間は、誤差の範囲内って聞いてるでしょ。僕に遠慮して言わなかったんだね。他の用は忘れて、真っ直ぐ帰ってね」

 呆然とするアダの頰に、エスカはキスをした。

「神のご加護を」

 アダを送り出した後、エスカはベッドに戻ってアスピシアと一緒に眠った。一晩中緊張し、脱出して、凍えながら救出を待った。休息が必要だった。

 起床した後も、エスカはソファでくつろぎながら、様々なことをシミュレーションしてみた。

 明日からアスピシアにジャンプを教えてみよう。左後ろ脚が動かなかったため、オーランさまは飛行を教えてくださったのだろう。ジャンプには後ろ脚の力が欠かせないからだ。

 今はマッサージとリハビリで、僅かにびっこを引く程度に回復している。ジャンプか。リハビリにいいかもしれない。敵に襲われたら、まずジャンプでひとっ飛び。それから飛行に移る。完璧だ。

 何度シミュレーションしても、エスカの出産にヘンリエッタの姿はない。何らかのアクシデントで来られないか、遅れるかだろう。

 エスカは自力で出産する覚悟を決めた。出産中に襲われたら、助かる術はない。アスピシアだけでも助けたかった。早く元締めが逮捕されることを願うしかない。


 翌日から、エスカはアスピシアにジャンプを教え始めた。エスカ自身、激しい運動はしない方がいい状態になっている。少しだけ手本を見せることにした。

 最初は一メートル跳んで見せる。声をかけて、アスピシアに真似をさせる。次は二メートルというふうに。三メートル跳んだところで、アスピシアが少しよろけた。

 そこで本日の訓練はおしまいだ。無理をさせたくない。家に入って、ご褒美のおやつをあげる。ゆったりと脚をマッサージする。アスピシアは心地よさそうに目を閉じた。平和な日々を、エスカとアスピシアは愉しんだ。

 あれから、誰からも電話もメールも来ない。そういう約束だ。食料品や日用品は、週に一度ドローンで届く。支払いはヤンネ・フォルゲの口座から引き落としになっている。その口座には、予めエスカ・ニールセンの口座から多額の金が振り込まれているはずだ。アダが手配してくれた。

 誰にも会わず、外出もしない。引きこもり状態だが、ストレスは感じない。女神殿にいた時を思えば、天国だった。

 ある朝、いつものようにアスピシアは外に出た。朝食の支度をしながら、エスカが庭を見ると、アスピシアがジャンプをしている。エスカはまだ五メートルくらいしか教えていないはずなのに、七、八メートルは跳んでいる。

 一旦跳んで、飛行して元の位置に戻る。それを繰り返しているのだ。本人は、訓練を受けたつもりはないだろう。遊びだと思っているのだ。新しい遊びを教えてもらって、実に楽しそうである。

 よかった。訓練が苦痛なら、無理強いするつもりは毛頭ない。後は教えなくても、自力で力を伸ばすだろう。底力があるからできることだ。戻って来たら、たっぷりマッサージしてあげよう。

 エスカは、テレビでニュースだけは見るようにしている。この家に来た日に、早速三人のラヴェンナ人逮捕のニュースが流れた。『放火犯逮捕』だそうだ。

『放火犯』? 『爆撃犯』と『殺人未遂犯』ではないのか。それにしても、ラドレイ警察署の対応は迅速だった。さすがマーカス。

 続報は一切ない。主犯がイシネスの身分の高い者だとすると、シルデスの軍警察では手出しができないのかもしれない。

 それが、ここに来て二ヶ月ほどしたころ、二度目のニュースが流れた。『放火と殺人』教唆の疑いで逮捕された貴族は、終身刑だそうだ。他国のことだから、詳細は語られなかった。

 貴族院での裁判だったのだろう。これも異例の速さである。他国の一般人を殺害しようとした。軍事法廷なら死刑モノである。ただ被害者行方不明のため、これが精いっぱいだろう。

 ヴァルス公爵には、ウリ・ジオンからディルを通じて、真相を知らせてあるはずだ。怒りは、演技だけで済んでいるだろう。

 だがエスカには、これで一件落着とは到底思えなかった。

 



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