9.悪魔を撃つのが仕事

 チリンチリン。鳴らす必要もないのに、自転車のベルを鳴らしてしまう。


 鳴らしたとして退く人もなく、ともすれば標的に気づかれるかもしれない。迂闊だったなぁと思っていると、横でもチリチリ鳴り始めた。


「こら。無闇に鳴らさないの」

「先生だって鳴らしてたじゃん」

「じゃあこれで終わりにしましょ」

「は~い。ふひひ。先生とサイクリング~」


 心地よいサイクリングであればよかったのだが、あいにく空は反界名物の赤褐色だ。体で感じる風の温度は変わらないはずなのに、生ぬるく感じるのはなぜだろう。


 私たちは今、反界を自転車で走っている。


 デートの日から一ヶ月が過ぎ──私とルリは、反界の悪魔を片っ端から駆除して回っていた。

 ルリが殴り、私が撃つ。私たちのコンビネーションはシンプルゆえにすぐに整い、テキパキと仕上がっていった。


 ただ、悪魔を倒せるペースが上がったとて、週の副業日数は変わらない。


 結果として毎日ルリを稼働させる形になっており、それは目下の私の懸念事項だった。


 週末は一緒に遊んだり食事をしたり、ついでに〈ルリ用〉という口座を新しく作って給与の一部を貯めたりもしている。が、それだけでお返しになるとは思っていない。


 そこで、私はあどみに相談した。悪魔を効率よく減らす方法はないのかと。



「ありますよ。高位の悪魔を倒すことです」

「あのゴリラ学生みたいな?」


 あどみからバランス栄養食を受け取りつつ答える。最近は食べる量も多いので、こっちに大量に持ち込んであどみに出してもらっているのだ。


 ゴリラといえば、ルリと初めて会った日に対峙したでかい悪魔だ。銃弾をガードする能力を持った、ピンポイントに私に対策するようなやばい奴だった。


「いえ。悪魔は高位ほど人の形を保つようになるので、人らしくあればあるほど高位となります。そして、高位の悪魔を滅すると連鎖反応のようなものが起きて、周囲の低位悪魔が一掃されるんです」 

「そりゃ便利ね。最初から高位のやつを倒しに行けばよかったんじゃ?」

「ゴリラに殺されかけていた人がなにを言っているんですか」


 返す言葉もない。あれより強いやつに挑むとなればたしかに瞬殺されるだろう。


「ですが……今はルリちゃんが居ます」


 この子の口からちゃん付けが出てくるたびにギョッとする。

 もはやルリとあどみの付き合いも長く、ルリが頑なに「ちゃん付けで呼んで!」とうるさいので根負けしたらしい。


「懸念はありますが、余裕もないので今日は高位討伐に行ってもらいましょう」


 あどみは携帯端末をどこからともなく取り出し、そこにマップを表示する。この子こういうテクノロジーも使うんだ。


「この辺りまで行ってもらいます。学校から距離があるのも一因ですが、ここから遠いほど管理が行き届かず強い悪魔が育っているので、これまで派遣を避けていたんです」


 あどみが指し示した場所は、隣駅の飲み屋街付近──すなわち、私の家の最寄り駅だった。


 あの辺りも一応学区に含まれているとは知っていたが、こうして示されると気味が悪い。


「特殊な能力を持つ強い悪魔の発生が予想されます。先生、これを持って行ってください」


 彼女から手渡されたのは、一発の拳銃弾だった。表面が緑色になっていて、いつも使っている弾丸とは差別化が成されている。


「それは敵の悪魔ではなく、ルリちゃんに向けて撃つものです」

「は? ルリを撃てってこと?」


 自分でも驚くほどに低い声が出ていた。


「話は最後まで聞いてください。戦後、いわくつきの銃が増加したことから銃を使う闇祓いが増え、術式を盛り込んだ銃弾が開発されてきました。お渡しした弾丸はその過程で生まれた副産物。それを使うのは、悪魔を〈使役〉する闇祓いだけです」

「悪魔殺すやつが悪魔飼うとか、できるの?」

「今まさにルリちゃんと行動を共にしているではないですか」

「ルリは人間と悪魔のハーフでしょうが」

「その弾丸は、悪魔の力を強化するものです」


 ルリに危険が及ぶものとばかり思って話していたが、どうやらそうでもないらしい。とはいえ、油断は禁物だ。話は最後まで聞こう。


「撃つことで短期的なリスクがないことは確認済みです。長期的に見ればわかりませんが、今すぐ死ぬよりはいいでしょう」


 怪しい。怪しさ満点だ。


 それでも、私はあどみをある意味で信頼していた。ここでルリを使い潰してもあどみに得はないはずなのだ。


「……これ、どこに撃てばいいの」

「ハーフの悪魔に撃った事例がないので、そればかりはなんとも」

「あっそ。ならいいよ、いざとなったら実戦でどうにかするから」


 あどみにはこう言ったが、撃つ気はなかった。


 ただ純粋に今を楽しんで、私と居る時間を嬉しく思ってくれている彼女に鉛玉を叩き込むなんて言語道断だ。


 今日は私が先行して反界に来ていたので、ルリを待つ必要があった。その間に一服しておこうと、私は生徒指導室を後にすべく扉を開ける。


「先生。悪魔も善の精神を持つことがあります。現役の闇祓いが従える悪魔がその好例です」

「……で?」

「善の精神は簡単に塗り替わります。人のそれと同じように」

「ご忠告どうも」


 ルリに依存しすぎるなと言いたいのだろうか。私としてもそんなつもりはない……が、彼女が頼りの戦力という事実ばかりは消えない。私が強くなるしかないのだ。



 というわけで、学校に置いてあった自転車をお借りして、私たちは隣の駅へと向かっていた。


 なお、ルリがめちゃくちゃ早く来たので煙草を吸う暇はなかった。


「先生!」


 否応なくあどみの言葉を想起してしまう。

 今日もルリはついて来てくれているし、彼女なしでは狩りが始まらない。だが──


「せんせ~! 無視はやめてよ!」

「あ……ごめん。ちょっと考え事。なにかあった?」

「いや……考え事の邪魔しちゃってごめん」


 なんだかしおらしいぞ。さっきまでの態度とは大違いだ。


「私こそ聞いてなくてごめん。まだ駅の方まで少しあるから、おしゃべりしましょ」


 せっかく道路も空いているので、ルリと横並びになって自転車で走る。彼女の方が少し速いので、合わせていたら後々疲れそうだ。


「えと……先生のその銃ってさ、呪われてるんだよね。どんな呪いがかかってるの?」


 珍しい話題を振ってきたことに少し驚く。しかも、この前あどみに聞いておいたので答えられる内容だった。


「なんかね、呪いってこう、呪い~って感じでかけるんじゃなくて、使われることで染み付くみたいに付くこともあるみたいなの。こういう武器は特にね」


 あどみが「戦後に銃を使う闇祓いが増えて~」と言っていたのも同じ理屈だ。たくさん殺した銃は曰くつきになる。その曰くこそ、呪いの正体なのだ。


「しかも、この銃はこの街由来の呪いが染み付いてるの。昔からヤクザの町でもあったから、抗争で使われまくりの殺しまくり。それでたくさんの血を吸った、みたいなエピソードがあるみたい。刀ならわかるけど、銃が血を吸うってよくわからない表現よね」


 ひとしきり話したところでルリの方を見やると、ぽかんとした顔をこちらに向けて固まっていた。このまま電柱と出くわしたら衝突しそうだ。


「ちょ、ルリさん?」

「先生、エグい話とか好きなタイプ?」

「いや、別にそんなことは……慣れてる方ではあるかもしれないけど……」

「そっか……わたし頑張るね」

「いや、なにも頑張らなくていいからね? ルリさんはルリさんらしくあってね?」


 最近になって自分の中の闘争本能が刺激されているのか、あどみの解説も少し面白く聞いてしまっていたのを忘れていた。やくざ映画ではしゃぐ養護教諭とか終わってるって。


「ルリさん、どうして銃のこと?」


 純粋に気になったので訊いてみると、ルリは即座に返事をせず口ごもった。ミスったか。また子供の立場を慮るべき私が地雷を踏んだのか。



「こんにちはー!」



 私とルリは同時にビクリと体を震わせた。


 後ろから唐突に飛んできたのは、男性の快活な挨拶だった。


「こんにちはー! こんにちはー! こんにちはー! こんにちはー!」


 一声ごとに声量の増していくそれを耳にしながら、私たちは自然とペダルを回す速度を上げていた。


 だが、連呼される挨拶と共に足音が近づいて来る。どうやら、この声の主は走っているらしい。


「ルリさん、どうす──」


 私が声をかける前に、ルリはその場で自転車を停止させている。


 そしてそのまま跳躍し、背後から迫る男に飛び蹴りを叩き込んでいた。


 ──この子、決断が速い。


 反界に居る人間は基本的に私とルリだけだ。ましてや走って声がけしてくる男とあれば怪しさ百万倍。その時点で、これは悪魔だと目星を付けてはいた。


『悪魔は高位ほど人の形を保つようになるので、人らしくあればあるほど高位になります』


 あどみが言っていたことが真実なら、対話を試みて来る悪魔とあればまず高位だ。そんなモノに背後を取られた緊張は手汗になり、銃を掴む手を湿らせている。


 ルリの蹴りは無事当たり、吹っ飛んだ男は背後のコンビニの窓ガラスを突き破って店内へ突っ込んで行った。この勢いなら直撃だろう。


「ルリさん、ありがとう。後は私が」

「先生、あいつやばいよ」


 瞬間、大きなプレッシャーが波のように押し寄せ、私は今一度肩を震わせた。本能に訴えかけるような〈感覚〉。これは私の感呪性がキャッチしたものだ。


「あの悪魔、気配を隠してたんだ。ここからもっとヤバくなるかも。だから、先生」

「こんにちはー!」


 コンビニ内から弾丸のごとく学ランの男が飛び出して来たかと思えば、ルリではなく私目掛けて突っ込んできた。


 既に銃は抜いていたが構えていない上、男のスピードは速すぎる。あ、死んだ。


「先生!」


 背後からルリの声が立ち、わずかに安堵する──その瞬間、交通事故もかくやという衝撃音が爆ぜた。


 そして、真っ二つに折れた自転車が私の真横を駆け抜けていった。


 私を助けるため、ルリは自転車を武器に殴りかかった。しかし挨拶悪魔の放った蹴りが自転車を叩き折ったのだ。当たっていたら私も横に真っ二つになっていただろう。


「先生ごめん!」 

「こんにちはー!」

「うるっさい! 先生周り見て!」


 ルリに言われて周囲に視線をやると、民家の上や道路に大小様々な学生たちが現れていた。ざっと見て十体以上の悪魔が私たちを取り囲んでいる。


 背後で弾ける音が連続する。自転車を捨てたルリと挨拶悪魔の格闘戦が始まっていた。


 ルリの方が動きはしなやかだが、単純な威力で挨拶悪魔の方が勝っている。技の練度や攻撃を捌く技術でルリが勝り、なんとか互角に持ち込めている状態だ。


 その時、挨拶悪魔が風のように消えてルリの死角を陣取った。速い!


「ちわっス!」


 隙を突いた蹴りがルリの脇腹をしたたかに打つ。吹っ飛んだところを私が受け止める──が、受け止め切れずに一緒に転がった。


「ルリ! 大丈夫?」


 自転車を叩き折る程の蹴りを受けながら、ルリは笑顔を覗かせていた。


「うん、ピンピンだよ。呼び捨て嬉しい」

「んなこと言ってる場合じゃないでしょ!」


 私は近づいて来る低級悪魔どもに弾丸を叩き込んで行きドンドンドンドンッ、それから挨拶悪魔に残った二発を撃ち込むドンドンッ


 が、すべて回避されてしまった。動きが速すぎる!


「先生、あの弾撃ってよ。あどみちゃんから貰ったの」

「え……あなた聞いてたの?」

「ごめん。でも、わたしが強くなれるんでしょ」

「っ、どうなるかわかんないヤバい弾なんだから、ダメに決まってるでしょ!」


 返事を残さずにルリは立ち上がり、挨拶悪魔に向かっていった。


 しかし、挨拶悪魔がルリの接近をかわして私に肉薄する。銃を向けるが、シリンダーに弾は残っていない。


「このままじゃ先生を守れない!」


 ルリの飛び後ろ回し蹴りが挨拶悪魔の頭に直撃する。悪魔は怯んでよろけるが、変わらぬ調子で「こんにちはー!」と叫んでいた。もはや鳴き声でしかない。


 ルリは私と挨拶悪魔の間に立ち、あくまで私を守る構えだ。


 彼女は今、戦いの中で初めて息を切らし、焦燥を覗かせている。


「ルリ、私を庇うのは──」

「それと、わたしも死んじゃう」


 ルリのまっすぐな瞳がこちらを見据えた。既に覚悟が済んでいる、仕上がっている者の目だった。


「二人じゃなきゃ勝てないし、二人じゃなきゃ意味ないんだよ」


 私はポケットに手を入れ、あどみが手渡してくれた緑の弾丸を手に取った。重い。質量以上に、重たい。


「……わかった」


 教師と生徒。わたしがこの子を導いて、守るのだと意気込んでいた。


 だが、戦いではこうだ。それに、彼女から教えられたことだってもうたくさんあるじゃないか。


 弾丸をシリンダーに放り込み、覚悟を決めるために撃鉄を起こした。


「責任、取るから」

「なにしてくれる?」

「生き残ってから考えましょ」

「とびきりのを考えとくね」


 ルリの背中に銃口を向け、急所を外して引き金を引いた。


 すると、ルリの小さい体がガクガクと震え始めた。顔を青くして自分の体を抱きしめているが、自らの脚で立ててはいる。


「ルリ、大丈夫!?」

「ふひひっ……余裕、だし」


 そう言うルリが見せた笑顔は引きつっていた。唇も青い。幼児に見られるような熱けいれんを想起する。


 しかし、これは悪魔の世界の事象だ。私にはどうすることも出来ない。


「こんにちはー!」


 挨拶悪魔が突っ込んで来る。

 が、ルリも同時に駆け出し──その手で頭を掴んで止めた。


「こんにちはー?」

「挨拶は大事だもんね」


 挨拶悪魔の顔面が、ルリの手の形に凹み始めた。ギリギリと音がして、鬱血したように顔が真っ赤に染まっていく。



「天宮ルリ、あくまでJK! よろしくゥ!」



 そのまま、掴んだ頭を地面に叩きつけた。


 何度も、何度も、何度も。何度も何度も叩きつけ、地面が砕けて男の頭が抉れ出すまで叩きつけた。


 この時、私が感覚する眼前の気配はより大きくなっていた。


 挨拶悪魔のものじゃない。目の前で無双するルリの気配が──これまで感じることのなかったルリの気配が、私に感じられていたのだ。圧倒的に強い悪魔のそれとして。


「こんにちはこんにちはっ! さよならさよならっ! おりゃおりゃおりゃおりゃ~~~~!」


 動かなくなった悪魔にさらなる殴打を叩き込み、突っ伏したところで地面が揺れる程の踏みつけを何度も繰り出す。砕けた地面のヒビ割れは更に広がり、私の足元まで届こうとしていた。


 行われている所業だけ見れば、まさに悪魔のそれだった。


「先生! こいつにトドメさして!」


 ルリに言われて我に返る。よかった、ちゃんと意思疎通を図れる状態だ。あまりに凄絶な姿に、私も呑まれていた。


 急いでシリンダーに弾を詰め、撃てるだけの弾すべてを挨拶男に叩き込んだドドドドドドッ


 流石にこれは効いてくれたようで、体が完全に動かなくなる。


 それでもまだ消えないので、もう六発を再装填して全弾ぶち込んだドドドドドドッ。そこまでやって、挨拶悪魔はそこから消え去った。


「ルリ、終わっ――」

「先生おつかれさま〜」


 私がトドメに手間取っている間に、ルリは周囲の悪魔たちを一匹残らず制圧し終えていた。


 死屍累々の学生たちの中心に立つセーラー服の少女は、押しも押されぬ番長の風情。しかし妖しく光るその目に、私は息を飲んだ。


 ――この子も、悪魔なんだ。


 攻撃の威力もさることながら、覚醒したルリは速さまでもが向上している。私が一瞬目を離す間に、彼女は暴力の疾風と化して悪魔どもを蹂躙していたのだ。


 私はカロリーウェイトを頬張りながら、ルリの周りの低級悪魔たちを片付けていく。ボコされて動かない学生姿の者共に弾を撃ち込んでいくだけの流れ作業。楽すぎて、気分が悪いくらいだった。


「先生先生! わたしチョー強かったでしょ! 今めっちゃくちゃ気分良くて……うぁ」


 ピョンピョン跳ね回っていたルリだったが、急激にその声がしぼみ始める。


 私はすぐに駆け寄り、頭を押さえてフラついている彼女を抱き留めた。


「ルリ! 大丈夫? どこか悪いところない?」


 先程までの勢いはなく、青い顔で息を切らしている。弾丸の効果はもう切れているようだった。


「ウッ……ぎゅって抱きしめた後に高い高いしてもらえないと、死ぬ……」

「そんな軽口叩けるなら大丈夫ね」


 言いつつ、私はルリをぎゅっと抱きしめた。いつものこの子だ。つい安堵を覚えてしまう。


 それに、彼女の決断と行動がなくては、今頃私たちは殺されていたのだ。なにをどうしてでも、彼女の健闘に報いてあげたかった。


「とにかく、どこか悪いところがあったらすぐ言って。本当、本当にありがとうね……」


 私はルリの脇に手を置き、高い高いをしてあげた。細身の見た目通りに軽いこの子を抱えるのなんて簡単だ。少なくとも、この子の頑張りに比べたら。


「……あ。先生、あの」


「私勘違いしてた。教師と生徒だけど、もう何度も一緒に戦って来てるんだもの。ちゃんと信じて、背中を預けられるような──」

「ごめん」

「えっ」

「おろろろろろろろろろろろろろろろろ」

 吐瀉物の滝が、私に注がれた。



「…………イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」



 叫んだ。


 めちゃくちゃ叫んだが、ルリを放り出すことはしなかった。


 私はルリをその場にそっと降ろし、それからどうすべきか考えた。考えてもわからなかったので、立ち尽くした。


「せ、先生、ごめん。なんか我慢できなくて。あぁ、今日食べたの、うんちになってないやつは全部出たかも……」

「い、いいい、いいよ別に。服ぐらい替えはいくらでもあるし、最悪買えばいいからね」

「先生、顔が引きつってるよ」

「顔が正直でごめんなさい!!!!!!」

「いや、悪いのはゲーしちゃったわたしだから」


 私はルリと目線を合わせるため、彼女に近づいてからしゃがみ込んだ。


「ルリはなんっっにも悪くない! 悪いのはなにもかも私!」

「ちょっと臭いかも」

「ほんとごめんどうしようね私」

「臭いのはわたしが吐いたやつだから……」


 そうして、頑張ったけど吐いちゃった方と頑張れなかったけど吐かれちゃった方があたふたしていると、


「お疲れ様です」


 と、舌足らずな声が私たちを止めた。いつの間にかあどみが現れていた。


「ちょっとあどみ! ルリ吐いちゃったんだけど!」

「極度の疲労とも取れますが、悪魔は物を食べないという性質に由来するとも考えられます」

「ルリにそんな設定が?」

「わたしごはん大好きなのに……」

「あの弾丸によって悪魔の性質が強化されたことで、一時的に胃の中のものを受け付けられなくなった結果戻してしまったと考えられます」


 やはりリスクはあったのだ。あどみはそれを考慮していながら、私に告げることはなかった。つくづく信用ならないガキだ。


 あどみは小さな手をぽんと叩き、仕切り直すように告げた。


「さて。これから帰るにしても、その状態では大変でしょう。いいところがありますよ」


 その状態といえば、吐瀉物まみれの私のことだろう。可能ならどうにかしたいが。


「ルリ、立てる? ダメそうなら抱えて行くけど」

「……大丈夫。少しふらふらするけど」


 そう言うルリの瞳が泳いでいるのを、正直言えば見逃したかった。この世の誰が自分のゲロまみれの女に抱えられたいというのか。私だって心得ている。


「あどみ、どこまで行くの」

「幸いここから歩いて一分ほどです。お二人なら検討がつくのでは?」


 場所と今の目標を鑑みればなんとなく推測できたが、ルリは首を傾げていた。


「行くのは構わないけど……動くの?」

「そこは任せてください」


 あどみが小さな歩幅で進んでいくのを追って、私とルリはゆっくりと歩き出した。


 ⇔


 でっかい木造の建物で、入り口の暖簾には「ゆ」の一文字。これは、これは……


「温泉だぁ……!」

「ルリ、これは銭湯だからね。期待しすぎないで」


 温泉と銭湯の違いがよくわからないけど、とにかくでっかいお風呂だ!


 わたしはさっさと中に入って女湯に向かい、セーラー服に手をかけた。


「待って待って! ルリちょっとこっち向いて。服はまだ脱がないで」

「先生になら脱がされてもいいよ……♡」

「そういう問題じゃないの」


 先生はわたしの体をさっと眺め回した後に、おでこに手を当てた。ひんやりしてて気持ちいいかも。


「やっぱり、熱あるね。さっきのはやっぱ熱けいれんか……お風呂は避けた方がいいかも」

「えーーーーーーーーーー! 先生とお風呂入るーーーーーーーーーーー!」

「他のお客さんに迷惑! あ、人いないんだわ……ともかく。体調が悪い人が無理にお風呂に入るのは避けた方がいいの。さっと体を流すくらいならいいけど、湯船は避けるのが無難ね」

「なんで~~~先生だけずるい!」

「それは……そうだし、私も申し訳ないと思ってる。でも、あの弾丸を使ったことであなたになにが起こるかわからない。可能な限り安静にしてもらって様子を見たいし、体調を悪化させるような行動は避けておきたいの」

「先生、なんか保険の先生みたい」

「これまで保険の先生らしくできなくてごめんね……」


 先生の言うことはもっともだ。それに、わたしのことは一番わたしがわかってる。いつも通り力が入らないし、きっと今戦ったら勝てる戦いも勝ち切れないかも。


「わかった。先生がお風呂入ってるの待ってる」

「わかってくれた? ありがとう。この埋め合わせはちゃんとするからね」


 言いつつ、先生は私に財布を手渡した。これで飲み物買って飲んでねということらしい。


「今度一緒にお風呂だからね! 背中流しっこ!」

「銭湯でも温泉でも、どこでも連れてってあげる」


 言いながら先生が頭を撫でてくれる。さっきから先生がたくさん優しい。でもこの気持ち悪いのと引き換えだっていったら、少しイヤかも。


 わたしが脱衣所を出ようと先生に背を向けると、すれ違うようにあどみちゃんが入ってきた。


「先生、お着替えです」

「ありがと。洗濯もお願いしていい?」

「仕方ないですね」


 先生が白衣を脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めた。わたしは思わず足を止める。


 でも先生は外す手を止めてしまい、あどみちゃんの手から着替えを受け取った。


「……あどみ。ドッキリにしても笑えないけど」


 受け取った服を先生が広げると、わたしも着ている水乱の制服がぴらりと現れた。しかも、わたしが着ているのと同じくらいのサイズだ。


「あどみが用意できるのはこれくらいです」

「人には適正なサイズってものがあるんだけど、わかるかな?」


 わたしは素直な気持ちを先生に言う。


「先生細いからたぶん入るし、絶対かわいいよ!」

「うん、褒めてもらえるのはありがたいけどそういう問題じゃないんだよね」

「コスプレイヤーさんみたいでかわいくなるよって言えばいい?」

「ルリ、女同士とはいえ着替えを覗くのは良くないからね」

「は~い。またあとでね」


 先生がにこやかに笑って手を振ってくれる。わたしも手を振り返す。


 ただそれだけのことなのに、胸の辺りがあったかくなる。これが熱のせいじゃないのはわたしにもわかる。


 先生が優しくなったのもそうだけど、フランクに接してくれるようになっていた。距離は確実に近づいている。


 その結果ゲロぶっかけちゃったわけだけど、そこはほら。愛の力でどうにかしていくとして。

 脱衣所の方からあどみちゃんと先生が話している声が聞こえてくる。


 でも立ち聞きが良くないのはわかってる。さっきの弾丸の話はついつい聞いちゃったけど、あれは不慮の事故だから仕方がない。


 待合所の冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出す。どこにお金を払えばいいんだろう。誰も居ないので、冷蔵庫のそばにお金を置いた。先生の財布はぴかぴかの買いたてでちょっとかっこいい。


 スポーツドリンクの蓋を開けて、飲みながらソファに腰を下ろした。こっちはちょっと使い込まれたソファっぽい。でも疲れたわたしには心地いい。


 静かだった。ほんのかすかにシャワーの音が聞こえるくらい。風の音、建物がきしむ音、わたしがドリンクを飲む音に、心臓の音。普段ならあんまり聞こえないようなものが耳に入る。


 少しだけさみしい時間だった。


 でも、待っていれば先生が来てくれる。それがわかっているだけで、いつまでだってここで待てる気がした。


 ⇔


 ひと通り体を洗い終えて湯船に浸かる。


 瞬間、体が溶けるかと思った。


「ア~~~~~~~~~~~~最高」


 あまりの気持ちよさを体中が駆け巡った結果、一瞬意識が飛びかけて顔まで湯船に沈んでしまう。


 ああ、髪が傷む。でも最近の終わった生活で傷んでたし、もういいかなっていう諦めもちょっとある。


 すると、小さな手に髪をワシッと掴まれ、引き上げられた。


「痛い痛い髪の毛ちぎれる」

「先生、お風呂で寝られては困ります。こんなところで死ぬのは流石によしてください」


 私を引っ張り上げてくれたのはあどみだったらしい。顔を上げると、彼女は湯船の中で立っていた。


 もちろん服は着ておらず、普段はダボダボの制服に包まれた中身がそこにある。


「……あんた本当に子供なのね」

「なにを言っているのかわかりませんが」


 あどみもちょこんと私の隣に座って湯船に浸かる。この子はお風呂を楽しんだりできるのだろうか。そもそも疲れみたいな概念と無縁そうだ。


「銭湯なんて久しぶり。しかも誰も居ないし……ほんと最高だわ。あどみ、ありがとうね」

「いえ、あどみとしても都合がよかったので」


 どういう意味だろうか。この子もお風呂好きとか? 流石にないか。


「てかさ、あんた人間界の方には来れないの?」

「なぜそのようなことを?」

「私たち……私とルリね。最近他の生徒と一緒に保健室でアフタヌーンティーやってるの」


 一ヶ月前に私とルリ、それと矢白さんで始めた密かな催し……だったのだけど、いつの間にか他の生徒も集まるようになっていた。


 最近ではルリが給仕係みたいなことをする日もある。ゆっくりお茶というわけにはいかないけれど、それはそれで楽しいのだった。


「学校でそのようなことをしてもいいのですか?」

「それは……自由な校風だから」


 我ながら酷い言い訳だ。水乱に呆れ倒していた私だが、徐々に水乱に染まりつつあるのかもしれない。


「ともかく! 前にお揃いのティーセット買ったんだけど。あんたの分もあるの」

「あどみの……ですか?」

「そう。ルリが買おうよって、つい昨日ね。でも、反界の辛気臭い空眺めてお茶ってのも嫌でしょ?」


 あどみは固まってしまった。こういう挙動は、なんというかロボットめいている。


「あどみは、そちらの世界を感覚はできても、干渉はできません」

「やっぱそうよね」

「それに、あどみたちの空は、あの赤錆びたような色なんです」


 言いながら、あどみは銭湯の壁に描かれた雄大な富士山の絵を見つめていた。その背景は、真っ青な青空だった。


「ごめん、私たちのことしか考えてなかったね。今度ティーセット持って来るよ」

「……ルリちゃんも眠ったようなので、そろそろお話を始めましょうか」


 ブツリと話は打ち切られた。

 彼女が慰安のためにお風呂に入るとも思えないので、順当ではある。


 だが、聴き逃がせない一言があった。


「待って。ルリが眠るのをってことは……さっきの弾丸の話はわざと聞かせたの?」

「特にそういった意図はありませんでしたが、結果的にそうなりました」

「っ……これでルリになにかあったら承知しないからね」


 とはいっても、私からあどみに対して出来ることなど皆無に等しい。手から生えてくるアサルトライフルで頭を抜かれておしまいだ。


「話を続けてもいいですか?」

「どうぞご随意に」

「先程先生に使用していただいた弾丸で、ルリちゃんの持つ潜在的な能力を測ることが出来ました。あの悪魔を即座に制圧する程の実力。学区の〈親玉〉に匹敵しうる実力です」


 なんとなく嫌な予感を覚えつつ、私はおうむ返しに「親玉?」と聞き返した。


「我々の間でそう呼称している悪魔です。先生が赴任してから姿を現していませんが、あなたの前任者を殺したのはその親玉です」

「それで、ルリをその親玉にぶつけるとでも?」

「それができればある種苦労はしませんが、奴は姿をくらましています。既に反界には居ないかもしれませんが、今回の話の主題はそこではありません。以前連鎖反応の話はしましたね」


 強い悪魔を倒すと周囲の悪魔も共倒れしてくれるという便利システムのことだ。私は頷いた。


「今日の討伐でこの辺り一帯はどうにかなりましたが、現在水乱学区の悪魔は指数関数的に増加しています。先生がどこまで感じ取れているかわかりませんが」


 あどみは淡々と語る。どこまでも淡々と。

 これはルリに聞かせるべきでない話だなのだ。そう思うと、妙に息が詰まった。湯船に長く浸かりすぎただろうか。


「ごめんあどみ。私ちょっと」

「このままのペースで討伐を続ければ、二週間後には〈破裂〉が起きます」


 この話題から逃げ出したかった。逃げることなんて無理だとわかっていても。


「……それで?」

「ルリちゃんを撃った時に起こるであろう連鎖反応があれば、この学区全体を一時的に救うことが出来ます。それほどの動きがあれば親玉も姿を現すでしょうし、そうなれば他区の闇祓いに応援を要請することも出来ます」


 丁寧な説明の中で、最悪の提案が行われていた。


 ルリを殺せと。


〈つづく〉

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