氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~

森川茉里

プロローグ 01

 鏡には、銀色の髪に淡い水色の瞳の、暗い表情の女が映っている。

 専属侍女のミシェルは、『氷の精霊みたいですよ』と褒めてくれるが、きっとそこには親しい人間への贔屓が入っている。


 顔立ちは自分でも整っているとは思う。

 しかし、表情を出すのが得意ではない上に、最近あまり食が進まず伏せりがちだったから顔色が悪い。

 寒々しい髪と瞳の色もあいまって、ネージュの目には生気のない亡霊のように見えた。


「ミシェル、今日はできるだけ顔色が明るく見えるようにしてくれないかしら? 少しでもアリスティード様に良く見えるように」


 ネージュは背後で櫛を持ち、髪を整えてくれている侍女のミシェルに声を掛けた。


「あら、ネージュ様からお化粧の要望を頂くなんて何日ぶりでしょうか? 未来の旦那様のお陰ですね」


「そうね。マルセル様の血を受け継がれる方だもの。少しでも良く思っていただきたいわ」


(……マルセル様)


 その名前を口にすると、甘く苦い感情が湧き上がる。

 

 マルセル・ラ・レーネは、ネージュの伯父という事になっている人物だ。

 彼は戸籍上の父――マルセルの弟が亡くなった後、レーネ侯爵家の当主として、行き場のないネージュを保護し、育ててくれた人である。


 残念ながら二か月前に亡くなってしまったけれど――。

 彼が逝ってしまったのは夏の盛りだった。

 病に冒された体に今年の暑さは堪えたのだろう。


 ネージュの顔色が悪いのは、実の祖父のように慕っていたマルセルを喪ったせいだ。ネージュだけでなく、今は侯爵邸全体が主人を失った哀しみに包まれ、陰鬱な雰囲気が漂っている。


 だけど、これから彼の孫に会えるのだ。ネージュは心が浮き立つのを自覚した。

 アリスティードという名の四歳下の青年は、マルセルが遺言で決めた婚約者でもある。

 ネージュの胸は、彼との対面への期待と不安でいっぱいだった。


「優しい方だといいですね」


「きっといい領主になられると思うわ。夢を見たの。マルセル様の若い頃の肖像画にそっくりの男性が、領都の大通りで領民と楽しそうに過ごされていたのよ」


「幸先のいい夢じゃないですか。正夢になったらいいですね」


「そうね」


 ネージュは淡い笑みを浮かべた。


 ――あの夢はきっと実現する。ネージュは確信していた。


 ネージュには予知能力とでも言うべきものがある。

 時々夢で近い将来の風景を見る事があるのだ。

 予知夢とそうでない夢の区別は簡単だ。普通の夢は白黒なのに、未来を夢に見る時は鮮やかに色付くのだ。


 ただ、ネージュの予知夢は、日常の他愛ない一場面ばかりで、災害とか株の暴落とか、上手く活用すれば利益になりそうなものを見た事がない上に、年に一度見るかどうかという頻度だったから、特に誰かに伝えた事はなかった。


 それでもミシェルの言う通り、いい夢だったから気持ちが上向く。


 ネージュは上機嫌で、髪がミシェルに結われていく様子を観察した。


 そうこうしているうちに、ヘアメイクを終えたミシェルが、化粧筆を手にしてネージュの前に移動してくる。


「ネージュ様、目を閉じて頂けますか?」

「ええ」


 ネージュは返事をすると目をつむり、もう一度夢の中で見た青年の姿を思い浮かべた。


 白粉を含んだ筆が頬を撫でる感触がくすぐったかった。




 美容の研究に熱心なミシェルの腕は確かだ。

 喪中なのでドレスは黒、髪も化粧も控えめにまとめてもらったが、普段使っているものより明るい色味の口紅のおかげで、不健康な印象がかなり和らいだ。


「ありがとう」


 オーダー通りにしてくれたミシェルにお礼を言うと――。


「喪中とはいえまだお若いんですから、もう少し華やかになさってもいいと思いますけど……」


 残念そうなつぶやきが返ってきた。


「アリスティード様には初めてお会いするのよ? これ以上華美にするのは気が引けるわ。必要以上に派手にしていると思われたくないの」


「……かしこまりました。いつもより明るいお色を使う気持ちになって下さっただけでも、進歩と思う事にします」


 ため息交じりにぼやいたミシェルに、ネージュは苦笑いを浮かべた。


 私室のドアがノックされたのは、その時である。

 ミシェルが開けに行くと、家令のエリックが顔を出した。


「ネージュ様、アリスティード様がいらっしゃいました!」


 遂に彼と会えるのだ。

 ネージュは勢いよく椅子から立ち上がった。



   ◆ ◆ ◆




 エリックやミシェルを伴って、玄関ホールに続く大階段へと向かうと、階下にストロベリーブロンドの青年の姿があった。

 彼はこちらの気配を察知したのか、ネージュの方を見上げてくる。

 紹介されなくても一目でわかった。彼がアリスティードだ。


 髪の色だけでなく、エメラルドのような深緑の瞳も、端正に整った目鼻立ちも、夢で見た青年にそっくりだった。


「ネージュ様、あの方がアリスティード様です」


 エリックがネージュに囁いた。


 ネージュは深く呼吸をしてから、彼に話しかける。


「初めまして。アリスティード様。ネージュ・ラ・レーネと申します。血の繋がりはないのですが、あなたから見れば伯従母いとこおばという事になるのでしょうか」


「……初めまして。アリスティード・リエーヴルです」


 ネージュの挨拶に答えるアリスティードは、どこか不機嫌そうだった。


「……ネージュ嬢、あなたの噂は色々と聞いてます。祖父の愛人だったらしいですね。確かに見た目は美人だ」


「なっ……」


 アリスティードの口から飛び出した発言に、背後のエリックとミシェルが気色ばんだ。

 また、アリスティードの隣には、彼を迎えに行った侯爵家の顧問弁護士であるナゼールがいる。

  彼は、申し訳なさそうな目をこちらに向けてきた。


(……私の噂をお聞きになったのね)


 そして、どうやらその悪い噂を信じ込んでいるらしい。

 悲しかった。だけど表情がほぼ動かない体質に今は感謝する。そうでなければみっともなく涙を零していたかもしれない。


「容姿をお褒め頂いたと捉えてもよろしいのでしょうか? ……移動でお疲れでしょうからまずは座っておくつろぎ下さい」


 ネージュは階段を降りながらアリスティードに向かって、手で応接室の方向を指し示した。


 アリスティードと自分は婚約関係にあるはずなのだが、それはどうするつもりなのだろう。

 彼からの敵意を含んだ視線をひしひしと感じ、気持ちが沈んだ。

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