天国への捧げもの

和泉 和久

天国への捧げもの


 午前8時を確認すると、俺は腕に装着しているデバイスを操作し、昨日一日に発生した自分の生体情報を天国へ捧げ始めた。

 筋肉運動、会話、排便、排尿、感情……昨日の俺の身体から生じた様々な情報がデバイスを通じて天国(ヘヴン)へと送られていく。

 転送状況を示すプログレスバーが少しずつ伸びていくにつれ、いつもの虚脱感が俺を襲った。この時間が嫌いだ。まるで自分の一部が吸い取られていくようで、泣き叫びたくなるほど惨めな気分になる。

しばらくすると情報を捧げ終わった事を知らせる通知音が鳴り、天国(ヘヴン)が瞬時に算出した祝福(ベラカ)の値が表示された。

0.026ベラカ――やはり、価値が下がっている。

画面の数値をじっと見つめ、湧き上がる怒りを必死に堪えた。天国(ヘヴン)で公開されている一番安価なコーヒー一杯の恩寵を得るにも0.5の祝福が必要な時代で、俺の一日の情報は0.026の価値しかない。

五年ほど前、俺が天国(ヘヴン)機構(システム)に参加した時は一日分の生体情報を捧げる事で、少なくとも2から3の祝福を受け取ることが出来ていた。だが、今は小数点以下だ。


原因は分かっている。人間の生体情報の価値自体が下がっていることもそうだが、それよりも俺がアップロードしている「感情」に問題があるのだ。

俺の感情データの割合は「鬱屈」「不満」「嫌悪」が大部分を占める。だが、天国はこの手の感情を憎む。彼らが好むのは「幸福」や「感謝」、「愛情」「寛容」といった類のものだ。

日々の生活において幸せや愛を実感していれば、祝福の値も高くなっていく。「憎しみ」や「怒り」を抑え、「愛」や「慈悲」の感情を発生させなければいけない。そんなことはとっくに理解しているが、今の俺の環境ではそれは難しい。

なぜなら――

「テル、今日はいくら貰ったの?」

 隣から砂羽の険しい声が聞こえてきた。

彼女は昨日から窓際に置かれたベッドにずっと寝転がったまま、タブレットで猫や犬の動画を飽きずに見続けている。

天国(ヘヴン)から彼女宛てに発令された神託(オラクル)「二十四時間ベッドから動かずに生活せよ」を実施しながら、動物の動画を鑑賞することで、「愛情」や「慈悲」の感情を稼ごうとしているのだ。

 重い口調で獲得した祝福(ベラカ)の額を伝えると、案の定、砂羽の表情が歪んだ。

「なにやってんのよ、もう。ウジウジしたロクでもないことばっかり考えてるからそうなるんでしょ? 頼むからもっと前向きな感情を生んでよ」

 タブレットを凝視しつつ、砂羽は強い口調で俺を責める。

「ふざけんな、俺が昨日から何時間、奉仕したと思っているんだ?」

 俺は言葉を噛みしめながら、吐き捨てる。

 昨日は「歩行による肉体と精神の疲労の関係調査――日没までに40キロの距離を徒歩で移動せよ。移動経路は問わない」という神託(オラクル)を受け、距離を稼ぐために足を棒にして延々とあてどなく街を彷徨い歩いた。

一歩、足を踏み出すたびに激痛が走り、ボロ雑巾のようにヘトヘトでアパートに帰ると同時に、次の神託(オラクル)が発令された。

「ある目的地まで用意された一定量のセメントを運べ」というものだ。

拒否することも可能だった。いや、拒否するべきだった。だが、黙ったまま俺をじっと凝視する砂羽の圧力に負けてしまい、つい神託を受けるボタンをタップしてしまったのだ。

惨めな気分で足を引きずりながら指定された現場にいくと、俺と同じ神託(オラクル)を受けたらしい、みすぼらしい身なりの連中が五、六人、集まっていた。

「いったい、なんでこんなことさせるんすっかねえ。こんなにセメント運んで、どうするんっすかねえ」と、薄ら笑いを浮かべた若者が集まった連中にチラチラと視線を向けながら、誰ともなしに呟いていたが、俺を含めたその他の連中は視線もあわせず黙り込んでいた。

現行の規律では相手と一万字以上の会話を交わさなければ、天国に捧げる情報として認められない。見知らぬヤツとそれだけ会話する労力と天秤にかけた結果、黙っていた方が得だと全員が思ったのだろう。

理由もわかぬまま、夜中から休みなしに働き続け、用意された全てのセメントを運び終えたのは、明け方の6時過ぎだった。

二つの神託(オラクル)を成し遂げ、受け取った祝福は16――食費を差し引けば、残った祝福は8しかない。


「お前と違って俺は身を削って神託を実行してるんだ。いったい何様のつもりなんだよ」

「あのさ、自分ばっかり大変そうなつもりにならないでくれる? そんな被害者意識丸出しだから、ロクな感情データを天国に捧げることが出来ないんでしょう?」

 砂羽の顔面に包丁を突き立てるイメージが脳裏に浮かんだ瞬間、俺の腕に装着したデバイスから通知音が鳴った。液晶画面に赤字で大きく警告文が表示される。


「注意 怒りの感情が基準値を超えています。精神安定の為にメンタルコントロールを今すぐ実施してください」

 

怒ってはいけない。

慌てて大きく息を吸って吐き出すと、瞳を閉じて何度も言い聞かせた。

砂羽は今、大変な神託(オラクル)を実行しているのだから、イライラして当たり前じゃないか。俺が我慢するべきなのだ。

 大事なのは「慈愛」だ。「憎しみ」に価値はない。「愛」と「寛容」にこそ価値がある。パートナーを慈しむ態度、敬う精神が大事なのだ。寛容、慈愛、友愛、そんな単語を頭の中で必死に何度も思い浮かべるうちに、少しずつ冷静さを取り戻す。

 何か砂羽の為にできることはないだろうか――そういえば砂羽は昨日から何も食べていない。きっと腹が減っているのだろう。何か食べて腹を膨らませれば、少しは機嫌も直るに違いない。

「朝食はどうする? お前も腹が減っているだろ。俺が用意してやるよ」

 棚から料理用原粉をとりだし、二人分を皿に入れてフードチェンジャーに突っ込むと、パネルを操作して天国(ヘヴン)が公開しているレシピを眺める。

 ダウンロード可能な料理は、有名料理店から料理自慢の素人が公開しているものまで無数にあるが、俺たちの経済状況ではどれも手が届かない。

毎日、利用するのは福祉団体が運営する低価格サイトだ。その中でも最安値のメニューである「卵サンドとツナサラダセット」を指定した。アイスコーヒー付きで2.5ベルカ。

ここの料理レシピは「残飯レシピ」と呼ばれるほど味や食感が酷い。コスト削減のために料理の情報を極限まで圧縮、削減しているせいか、どの料理も味は「辛い」「甘い」「苦い」の三種類しか存在せず、食べれば必ず吐き気と胸やけを起こした。だが、最低限の栄養を摂取し、空腹を満たすことはできる。そして、この値段が今の俺たちが払える、ギリギリの食事レベルだ。

「お前、卵サンド好きだっただろ? 今作ってやるよ」

「今のわたしの状況分かってないの? トイレを我慢するために飲まず食わずで頑張っているのに、なに勝手なことしてんの? 馬鹿じゃないの?」

 刺々しい砂羽の声が俺に芽生えた慈愛の心を打ち砕いた。フードチェンジャーの扉を叩きつけるように閉じる。

気が付くと、自分でも何を言っているのか聞き取りできないような意味不明な怒声を叫びながら、俺は外に飛び出していた。


あのクソ女、ふざけやがって。

部屋を飛び出した俺は、いまだにズキズキと痛む両足を怒りに任せて無理やり動かしながら道を歩き、ひたすら呪詛の言葉を心の中でまき散らした。

部屋に留まっていたら、本当に砂羽を絞め殺しかねないほど、頭の中は怒りで沸騰している。

 何が、ベッドから動けない――だ。

あの神託(オラクル)を彼女が受けようとした時、俺はやらない方がいいと忠告した。どうしてもするならオムツでも履いてやればいいとまで言ったのに、大丈夫だと拒否したのはあの女じゃないか。なのに今更ブツブツと不満ばかり吐きやがって。

腕のデバイスから、絶え間なく通知音が鳴り響く。「怒り」の感情が規定値を超えていることを知らせている違いない。

知ったことか――

心の中でそう吐き捨てた。

愛だの、慈悲だの、寛容だの――そんな感情を育むなんて、もうウンザリだ。

喉に熱いものがこみあげ、思わず歯を食いしばった。いったい、俺たち二人はいつから、あんな関係になってしまったんだろう。

二週間前――「たから亭」のオムライスが天国にアップロードされるというニュースを砂羽が知ったあの日、彼女は数年ぶりに俺の前ではしゃいだ顔を見せた。

今まで天国に料理データをアップロードせず、店舗で選ばれた人間のみに実物の料理を提供する「たから亭」がついに天国にオムライスのデータを公開することが決定したのだ。

俺たちは「実物」なんて味わったことは一度もない。ほとんどが天国に公開された低価格の福祉料理のレシピをダウロードし、甘味と苦味の二つの情報しかない食べ物を食べて飢えをしのいでいる。

だが、「たから亭」のオムライスは公開初日の特別キャンペーンとして、通常料金の半額である千五百で一人前の料理をダウンロードできるのだという。俺たちのような人間が通常、一生ありつけることがない、一流のコックが作成したレシピの食事にありつける数少ないチャンスだ。

 このオムライスを食べられなかったら一生恨むからね、と砂羽は俺を上目遣いに見つめながら訴え、久しぶりに投げかけられた彼女の強い視線に戸惑い、俺はただ頷くしかなかった。

あの日から、すでに最低ランクに落ちていた生活レベルを更に切り詰め、身体を削りながら祝福を貯める生活が始まったのだ。

最初は明るい表情で張り切っていた砂羽だったが、近頃はずっと不機嫌で何かにつけて、俺に刺々しい態度をとっている。おそらく、どう頑張っても、三日後のデータ公開までにオムライスをダウンロードできるほどの祝福を受けることが出来ないと理解したからだろう。


だが、それが始まりではない。亀裂はもっとはるか以前から生じていた。

大学でアイツとつきあい始め、そのまま卒業した頃までは、お互いそれなりに楽しく過ごせていたはずなんだ。

 自分の感情や運動のデータをアップロードし、たまに発令される神託(オラクル)を達成することで、つつましい暮らしは保証されていた。

 そのうち天国(ヘヴン)は少しずつ俺たちに、より大量の情報と沢山の行動を要求し始めた。単なる感情や運動のデータだけでは足りず、日々の生体情報、会話の内容、何を食べ、どんな景色を見たのか。性交、排便、排尿の回数、その内容や時間まで――

 そして、さらに細々とした、馬鹿げた基準が定められるようになった。

 「会話は他人と規定の文字数以上を喋らないと情報として認められない」、「オーガズムの情報はセックスのみでオナニーは認められない」「笑顔が規定回数以上の相手に向けられなければ、表情の情報は除外される」

最初はそういった要求に俺も砂羽も必死に応えようとした。

お互い特につまらないジョークでも無理に笑い、気分がのらなくとも生理の日以外はセックスをした。天国(ヘヴン)は常に孤独な者を忌み嫌う。他者と交流しないものを、恩寵に値しないものとみなす。奴らが望むのは他者への「喜び」や「愛」だ。

 そういえば何時だったか、二十四時間以内に指定された体位を全て使用して2時間のセックスを行う神託(オラクル)を二人で受けたことがある。

 600ベルカという破格の祝福につられて受けたのが間違いだった。行為の半分を超えたころになると、お互いを睨みつけながら、ただ機械的なオーガズムを求めて互いの肉体を傷つけあうように絡み合った。苦痛と疲労で気が狂いそうになりながら、機械的で殺伐とした最後の絶頂を味わった瞬間、何かが俺の中で崩れるのを感じだ。

 やがて砂羽は俺に言葉をかけることはなくなり、変わりに動画サイトにアップされた犬や猫の動画をタブレットで一日中、眺めながら喋るようになった。おそらく、俺の顔を見るより、動物の方が「愛情」や「喜び」という感情を簡単に生み出せると気付いたのだろう。

もはや、彼女にとって俺は犬や猫以下の存在だ。

だが、砂羽を責めるつもりはない。俺だって同じ思いだ。砂羽に優しい言葉をかけるのは、天国(ヘヴン)がそれを求めているから。生理の日以外、ほぼ毎日セックスを続けているのも同じだ。俺たちの行為に愛も情緒も存在しない。ただの肉体運動と機械的なオーガズム。得られる祝福のために行うだけだ。もし、天国が性交の条件をより厳しくすれば、俺も砂羽も交わるのを止めるだろう。捧げる情報としての価値のない行為に何の意味があるというのだ。

今の俺たち二人を結び付けているのは生活の維持だけだ。だが、どんなにお互いに嫌気がさしても、たとえ殺意を感じていたとしても、別れるという選択肢は取れなかった。

天国(ヘヴン)は「孤独な者」を忌み嫌う。「愛を分かち合う相手」がいない者に祝福を与えない。

別れたところで適当な次のパートナーがすぐに見つかる保証はどこにもない。万が一、パートナーを見つけられず、独りになってしまった場合、俺ひとりでは今、住んでいるボロアパートの家賃だって支払えなくなる。

もはや明日という未来が俺には重石でしかない。もし三日後、例のオムライスが食べられない、という事実をつきつけられたら、おそらく彼女は俺を憎むだろう。

そうなれば俺はもう、砂羽を耐える自信がない。たとえ、その先にどんな地獄が待ち受けていようとしても。

 途方に暮れて道路端の植え込みにある柵に腰を下ろした。すでに太陽は西に傾いていた。上着を羽織らずにアパートを飛び出たせいで、肌寒さを覚えた。今は一月後半だ。夜になれば更に気温は下がるだろう。

 アパートに帰る選択肢はなかった。砂羽の顔を見たくはない。とにかく一人で落ち着ける場所が必要だった。


「煉獄」という蔑称で呼ばれている簡易宿泊施設は、都市部にはいたるところに存在していた。たいてい、こういった施設は一日の生体情報を店に提供することで、一泊の宿泊を許される。生体情報の質は関係ない。生きている限り、情報を店に提供できる限りは、住み続けることが可能となる。

 もっとも、その環境で生き続けることが可能ならば――だが。

 数年前に友人と一緒に冷やかしで煉獄を訪れたことを思い出した。

大学の頃、冷やかし半分で一度友人たちと除いた時のことだ。共同シャワーがある扉から錆びた水しかでず、2畳半程度の広さの個室には、何世代も型落ちのネットワーク端末と薄っぺらい毛布しかない。

ただ、夢も希望もなく、生きるだけの施設。行き場所を失い、愛を分かち合う者たちを見つけることが出来ず、天国から見捨てられた連中が最後に堕ちていく場所――それが煉獄だ。


ただ「生きながらえているだけ」という、みすぼらしい姿をさらした者たちが、虚ろな目で店内の無料配給の食糧をトレーにとって自分の部屋に戻る姿が脳裏によみがえった。

あの頃はまさか、自分がこんなところに二度も訪れることになるとは思ってもみなかったのだが。


大きな雑居ビルの一角に「煉獄」の施設はあった。壊れた家電などが無造作に転がった店前の様子は四年前から変わっていない。建付けの悪いドアを力任せに開けると、中を窺うようにゆっくりと中に入る。

昼間にもかかわらず、店内は薄暗い。おそらく、メンテナンスがされていないのだろう、天井の照明のほとんど点灯しておらず、一部だけが年寄りの呼吸のように弱々しく点滅していた。壁には埃がこびりついていて、黒く変色している部分があった。

目を細めながら、薄暗い店内の入り口付近にあるカウンターと思わしき場所へ、ゆっくりと近寄るが、音声案内が流れず、照明もつかない。一流のホテルでもあるまいし、人間の店員が応対しないことに不思議はないが、自動応答が流れないのはどう考えてもおかしい。

もしかして、すでに閉店してしまったのだろうか?

周囲を見回しても、人気は全くなく静まり返っていた。

もし、閉まっているのだったら、俺に行き場所はない。どうしようかと、途方に暮れていると――

「その機械、壊れてますよ」

 突然、背後からしゃがれた声が響いた。ビクンと肩を震わせながら、首を背後に捻じ曲げると、いつの間にか青白く、無精ひげを生やした男が俺の背後に立っていた。幽霊のように生気のない表情で、俺をじっと凝視してくる。

返す言葉が見つからず、俺は「あ、ああ」と言葉にならない声をあげたまま、男をまじまじと眺める。

獄のような最下層民を相手にする店が、生身の店員を雇うはずがないだろう。とすると、この煉獄の宿泊客だろうか?

履いているズボンはところどころ擦り切れて薄汚れている。上着は店内に暖房が効いていないにもかかわらず、何十年も着古したかのような穴の開いたTシャツとパーカーのみだった。顔にはところどころシミが浮かび、白髪交じりの髪は地肌が見えそうなほど禿げかけていた。

「そこの自動アナウンスは壊れて流れないんです。生体スキャナーは生きているので、こっちで勝手に生体登録すれば泊まれます。部屋に置いてあるパソコンに「掲示」と書かれたファイルがあるので、それを必ず読んでくださいね」

男性はカウンターに置かれた生体スキャナーを指さした。その先には、垢と埃がこびりついて曇った鏡面のついた機器があった。

言われるがまま、鏡面に掌を載せる。ロクに掃除もされていない鏡面に触れることに嫌悪感を覚えたものの、一刻もはやく部屋に入って一人になりたかった。

ピッと機械音が鳴ると、鏡面が鈍く光った。鈍く光ったディスプレイに利用契約書の文字が映った。

 特に読むこともなく「承諾」のボタンを押すと、「201号室」の入室許可が表示された。俺の一日分の情報を店に差し出すことで、一泊することが出来るようになったのだ。

 201号室、とモニターに自分の部屋番号が表示される。

「必ず読んでくださいね。端末を起動してデスクトップに置かれているファイルです」

男性の念を押すような声が背後から聞こえてきた。彼に部屋の場所を尋ねようと振り向いて、思わず息をのんだ。

いない。

まるで存在自体が幻だったかのように彼の姿が消えていた。薄暗い店内を見渡しても俺以外は誰もいない。本当に幻だったのだろうか。だが、彼のしゃがれ声が耳にこびりついている。まるで呪いをかけられたかのように、頭の中でリフレインする。

急に背筋に寒気を覚えた。薄暗い店内のどこかから何者かが俺の様子を窺っているかのような、妙な視線を感じる。

一刻も早く、部屋に入ろう――壁に掛けられていた館内見取り図から場所を確認すると、俺は急き立てられるようにその場を離れた。


エレベーターで二階に上がり、暗い廊下を歩く。施設の空調はガタガタで冷房も暖房も全く効いておらず、廊下はかなり底冷えしていた。天井の照明はほとんどが切れており、非常灯のみが頼りなく光っていた。

 不思議なことに、どこからも人の存在が感じない。以前、ここに訪れた時は、薄っぺらい扉の向こうから、キーボードを打つ音や、独り言、歯ぎしりの音が漏れ聞こえていた。今、俺が歩く廊下は、この世界に俺一人しかいないように静まり返っていて、人の気配を感じさせる物音が一切ない。それにもかかわらず、誰かに監視されているような居心地の悪さが全く消えなかった。

 受付のカウンターで会った男のことを思い出す。

あの男性はいったい何者だったんだろう。こんな最底辺の客を相手する施設が、人間を従業員として雇うなんてことはないはずだ。という事は長期で滞在している客なのだろうか。

 だとすると、今、この煉獄を利用しているのは俺とあの男のみなのだろうか――

 急に不安が俺を襲った。特に明確な理由はない。ただ、何かとんでもない場所に足を踏み入れたのではないか。

一瞬、「砂羽の待つ部屋に帰る」という考えが脳裏をよぎったものの、彼女の顔が浮かんだ瞬間に、その考えは消えた。どうせ、あの部屋に帰ったところで、アイツの視線や言動に怯える暮らしが続くだけだ。今は恐怖や不安より、砂羽への嫌悪の方が強い。

 201号室の扉の前に辿りつくと、錆びたドアノブを回してドアを開けた。

 2畳半ほどの部屋の中には、何世代も型落ちのパソコンと雑巾のようにボロボロのタオルケット、そして表面が黒ずんだ、薄っぺらいマットレスが敷かれていた。中はすえた汗の臭いだけではなく、硫黄のような臭いが漂っており、俺の気を滅入らせた。

 だが、この部屋にいる限り、砂羽の罵声やあの冷めきった視線を受ける心配はない。

 ひとまずはここで心と身体を休めよう。砂羽のいる部屋に帰るのは明日だ。その頃にはアイツも少しは落ち着いているかもしれない。

 とりあえず、部屋に立ち込める臭いや陰鬱な雰囲気から気を逸らそうとして、備え付けのパソコンを起動させた。

 あの妙な男性がパソコンに入っている注意事項を読めと言っていたことを思い出す。

 しばらくすると、古ぼけてブロックノイズがところどころ現れるディスプレイが鈍く輝き、画面が表示された。デスクトップに一つ、「掲示」とかかれたファイルを見つける。

おそらくこれが、男性の言っていた注意事項というヤツだろう。ファイルを開くとブラウザが立ち上がった。


「天国の道は煉獄より始まる」


 そう書かれた文字の下に、黒と白の幾何学模様で描かれたラダーコードが現れた。

 腕に装着したデバイスでそのコードを読み取ることで、天国が管理する専用サイトにアクセスが出来るコードだ。

 腕のデバイスをモニターに向け、ラダーコードを読み取る。

 デバイスの通知音が鳴るとPCの画面が変わり、次の文字が現れた


「善き羊飼いの案内にしたがい、天国への門をくぐれ」


 音も画像も何も現れず、真っ白な画面に意味不明な文字が表示される。そのまま、しばらく待っても、何も変化はない。


 ――もしかして、どこかでバグったのか?

 

 腕につけたデバイスを何度かタップするが特に反応はない。まさか、これが注意事項なのだろうか?

 善き羊飼いとはなんだろう。そもそも、天国の門が開いたとはどういう意味だろう?

 首を傾げたものの、答えは全くでない。意味不明でどことなく不気味だったが、身体が疲れきっていて頭がまともに働かなかった。

 どうせ、こんな施設の注意書きなんて別に大したことはないだろう。

 そう考えると俺は、マットレスに横たわるとボロボロのタオルケットで身体をくるんだ。


 それから数時間後。

 時間は深夜の0時に近づいていた。昼間にあれほど感じていた疲労は全く抜けていないにもかかわらず、マットレスに横たわった俺は眠ることが出来ていない。

 相変わらず、部屋周囲の静けさが逆に神経が昂っていた。

 すでに照明が強制的に切られ、真っ暗だった。煉獄では十一時を過ぎると施設の電源は強制的に切られてしまう。当然、空調も聞いておらず、暖房なんて気の利いた設備もない。

薄っぺらいタオルケットはまったく寒さをしのぐ役には立っていなかった。

暗闇の中、身体を丸めながら震えていると、まるでこの地球上に俺だけしか存在していないような惨めで心細い気分になる。

 薄く、汚れたマットレスや雑巾のように汚れたタオルケットや、ジメジメと湿って固いマットレスに対する嫌悪感よりも、自分のそばに誰もいない寂しさの方が強い。

あれほど憎み、鬱陶しく思っていた砂羽の存在が、今ではたまらなく愛おしく、自分にとって必要だと感じる。今までずっと傍にいた相手が近くにいないということが、ここまで心細いものなのか。

気が付くと目頭が熱く、涙がこぼれていた。

 このままこの部屋を出て砂羽の待つ部屋に帰ろうか――そんな考えが何度も浮かんだが、どうしても踏ん切りがつかない。

照明がない暗闇の中で廊下を歩いてこの煉獄から出ることができるとは思えなかった。

このまま朝まで待とう。朝になったら、こんなところからさっさと立ち去り、砂羽のところに戻ろう。きっと彼女も俺を待っていてくれているはずだ。

 そう決心した、その時――

 ザッ、ザッ、ザッ。

微かな物音が聞こえたような気がした。思わず息を止めて、耳を澄ます。

 確かに足音だった。廊下を歩く靴を引き摺るような音が、薄い扉を通して伝わってきた。

 俺以外に他の住人もいることに束の間、安心する。もしかすると例の男かもしれない。この部屋の近くに自分の部屋を借りているのだろうか。

 ゆっくりと、しかし確実に足音が近づいてくる。足音が明確になるにつれ、理由もなく恐怖心が沸き起こる。

 なんの根拠もないが、その足音の主は確実に俺を目指していると確信した。

 俺の部屋の扉の前で足音が止まり、ギィィっと音が鳴った。部屋の中の淀んだ空気がゆらりと動く。

 光がまるでない真っ暗な部屋なのに、男の影が部屋に侵入してきたことがわかる。

 次の瞬間、俺の腕のデバイスから眩い光が発せられたかと思うと、部屋全体を煌々と照らした。黒ずんだ壁や天井が瞬く間に真っ白な光で塗りつぶされるように消えた。

 いったい、何が起こったのだろう。パニックになりながら周囲を見渡す。右も左も、上も下も光だった。影の存在を一切許さない、一点の曇りもない真っ白で狂暴な光の照射が容赦なく俺を照らす。

 怯えていると、どこからともなく囁くような男の声が聞こえてきた。あのカウンターで俺を案内してくれた男だ。

「天におられます神よ、今夜天国の門をくぐるのはこの者となります。この者は今までと同じようにすべてに見捨てられた者です。今夜、天国に捧げます」

 その言葉が合図となったのか、自然と俺の足が動き出し、光を生み出す中心へと動き出していく。

 だが、俺は神々しく、まばゆい光にとてつもない恐怖を感じていた。

 ここは天国だ。理由もなくそう感じた。あの、不条理で禍々しい神託を下す神々が棲む天国なのだ。

「さあ、」

 男の声が光の中で再び響いた。

 脳裏に、砂羽の顔が浮かんだ。無性に彼女に会いたかった。投げかけられる言葉に憎しみが込められていても、俺に向けられる表情が、軽蔑であっても、俺と数年間ともに生きてきた彼女のもとに帰りたい、心からそう願った。

 その時、真っ白な輝く光から神々しく厳かな声が響き渡る。

「この者は現世に未練を残している。まだ天国の門をくぐる資格はない。わたしは祝福を欲している。今まで羊たちを導いてきたお前に天国の門をくぐらせよう」

 次の瞬間、裏返った男の声が聞こえ、黒い影が何かに引き摺られるかのように、俺のそばを通り抜け、光に飲まれていった。

 気が付くと、俺は煉獄の部屋に戻っていた。男の姿はなかった。

 ふいにデバイスから通知音が鳴る。びくっと体を震わせて、反射的にデバイスを覗き込んだ。

 2万6千ベルカーー俺に送られた祝福を知らせる通知だった。


 ヨロヨロと部屋を出て廊下を歩き煉獄を出ると、朝日がすでに町を照らしていた。

 目を細めて太陽を仰ぎ見る。自分の身体を温かく照らす、太陽の光に感謝を感じた。

 砂羽が待つ部屋に帰ろう。帰って彼女に心から謝ろう。そして愛を持って労ってやろう。心の底からそう思う。祝福なんて関係ない。俺が今、この世界にいることができるのは、彼女のおかげなのだから。ただ、自分自身の心に従って、彼女を愛そう。

 アパートに戻ったのは朝の8時前だ。

「どこ行ってたの? もう帰ってこないかと思った」

 ドアを開けるなり、砂羽は泣きながら俺に駆け寄って抱きついてくる。「ごめんなさい」と何度もつぶやいた後、真っ赤に泣きはらした目で上目遣いに俺を見つめてきた。

「わたし、テルが家を出て行ってから一晩かけてムチャクチャ反省したの。テルがあんなに頑張っているのに、酷いこと言っちゃって……本当にゴメン」

 俺も喉に熱い塊がつっかえて、言葉がうまく出てこない。

「俺も悪かった。お前の事、何も考えてなくて」

 絞り出すように言葉をかける。砂羽がこんなに俺をまっすぐに見つめてくるなんて何年ぶりだろう。

「本当にうれしい、わたし、今日からテルに毎日感謝して生きるからね。これからも一生、一緒に暮らしていこうね」

「俺もお前と離れて一晩過ごしてさ、お前が大事だってようやく気付いたんだ」

 どれだけ俺が砂羽を必要としていたか、そして今この世に留まっていられるのは、砂羽のお陰なんだと、言葉を尽くして語ろうと思った。祝福なんて関係ない

「あ、そうだ、ちょっと待って。もうすぐアップロードの時間だから」

 不意に俺を押しのけると、砂羽はデバイスを素早く操作した。朝の8時。いつもの生体情報のアップロードの時間だ。操作が終わり、昨日の自分の生体情報の価値を確認すると、砂羽の顔が一気に破顔した。

「すごい! 見てよ、テル。私の今日の祝福。一晩中、頑張ってテルの事を心配してたら、こんなに祝福をもらっちゃった!」

 満面の笑みを浮かべて、自分の腕のデバイスを俺に向け、祝福の量を見せつける。

 6ベルカ。俺を心配して得られた祝福だという。砂羽はその額を見て狂喜している。

「ほら、テルもはやくアップロードしなよ。私のこと、ずっと考えてくれてたんでしょう? きっと祝福をいっぱい貰えるし、この調子でいけばオムライスも食べられるよ、きっと」

「ああ、そうかもな」

やめてくれ。

心の中で砂羽にそう訴える。

俺は本当に心からお前を大事にしようと、お前を愛そうと誓った。心を入れ替えたんだ。無償の愛だ。だから、その思いを壊すようなことは――

「ねえ、私の話し……聞いてる? 頑張って二人でオムライスを食べよ? ね?」

玄関に突っ立ったままの俺に対し、砂羽が俺を探るように上目遣いに見つめてくる。が、すぐに申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「ごめんね、テル。きっと疲れているよね。早くベッドに入って寝なよ。今日は神託なんてしなくていいからさ、明日から頑張ろ?」

 砂羽は俺と自分のデバイスを交互に眺めながら、幸せそうな笑みを浮かべている。

「ああ、ありがとう」

笑顔を浮かべなければいけない。親しみを見せなければ天国(ヘヴン)は評価してくれない。

 寛容と慈悲の心。砂羽は忠実だ。真面目に実直に、天国(ヘヴン)が求める姿になろうと努力している。救いを求める子羊のように。

 俺は黙ったまま、砂羽をじっと見つめた。

「テル、どうしたの?」

 彼女は笑顔で首を傾げる。

「砂羽、いいところに行こう。そこに行ったらもう今後の生活の事なんて考える必要はないんだ。」

 怪訝な表情を見せる砂羽に、俺はようやく笑みを浮かべることが出来た。



 3万という祝福――。

 これが、天国(ヘヴン)が評価した「鈴木砂羽の肉体」の価値だった。

 天国はこの世に未練を残したものを拒む――だから、俺は砂羽を生きたまま天国に送らなかった。

 自分の両手をじっと眺める。砂羽の首の感触がまだ残っている。賭けではあったが、俺には根拠のない確信があったのだ。

 天国はこの世に未練を残した人間を拒む。ならば砂羽は天国の門をくぐる資格はないだろう。生きたままならば。だから俺は――。

 そして今、俺の目の前には二つのオムライスがある。

あの砂羽がすべてを犠牲にして追い求めていたオムライスだ。だが、テーブルをはさんで、俺の対面にいつも座っている砂羽の姿はない。部屋の中で沈黙が永遠に続いている。彼女の声が聞こえてくることはなく、俺はただ黙ってフードチェンジャーから取り出したばかりの湯気だったオムライスを見つめる。

 やがて、ゆっくりとスプーンをとると、先端を一つのオムライスのてっぺんに置いた。柔らかな弾力とともに、ゆっくりとスプーンが沈み込んでいく。しっかりした手ごたえを感じたのち、スプーンをすくい上げ、おそるおそる口の中へ運んだ。

一口食べるなり、思わず感嘆の声が漏れる。砂羽が消えてから俺が初めて発した声だった。いつも食べている無料の料理とは大違いだ。ふわりとした半熟の卵の触感と、酸味とコクが程よくブレンドされたデミグラスソースが口の中で混ざり合った。続いて甘酸っぱいケチャップライスの味が口の中に広がる。

 美味い。本当に美味い。――だが、この喜びを伝える相手はもはや、この世にはいない。憎悪であれ、共感であれ、感情を共有する相手はもういないのだ。俺を罵倒する声はもう、聞こえない。俺を見下すような視線を浴びせられることもない。あのわざとらしい微笑みも見られない。

 気がつくと、オムライスを頬張りながら俺は泣いていた。オムライスに涙が落ちていく様子を俺は黙って眺めつつ、スプーンを黙々と口に運び続けた。


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天国への捧げもの 和泉 和久 @izumiwaku

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