ヴィランズピース!
益井久春
プロローグ(読まなくてもいいよ)
第0話 正義(読まなくてもいいよ)
「勧善懲悪」。
あらゆる時代、あらゆる国の物語が、途絶えることなくなぞってきた一つの類型である。
登場人物が正義と悪に別れ、双方は対立し、最終的に正義が勝利して悪は滅びる。正義と悪の姿や力は変わるが、同じことが何百何千年と繰り返されてきた。
子供の頃から物語に触れる者であれば、誰もが本や画面の中で正義が勝つ姿を見届けるだろう。ある者は三匹の動物を従えて鬼を倒し、ある者は空を飛び回って自分の美味しい頭を分け与え、ある者は変身して悪の軍勢から人々を人知れず守った。
しかし、同時に世の中にはこんな言葉も存在する。『勝てば官軍、負ければ賊軍』と。あるいは別の言い方をすれば、『歴史は勝者によって作られる』と。つまり、正義だから勝つのではなく、勝ったから正義だと述べる者もいる。
しかし、正義とは常に素晴らしいものなのだろうか?
かつて、人類は特定の人種に属す人間に対する虐殺や奴隷化を行ったことが何度かあった。しかし、いくら偏っていたとはいえどそれも彼らの抱いていた正義ゆえの行動であったことは変わらず、また彼らとて当時は正義だと思われていた可能性も否定できない。
例えばドイツのかの政治家は数々の迫害を引き起こした独裁者として有名だが、その方法は演説による人々の心の掌握であった。今となっては奴はもはや肯定されざる悪であることは周知の事実だが、当時の一部のアーリア人は正義とみなしていた。だから奴は総統になることができたのだ。だからユダヤ人や障害者は大量に殺されたのだ。
それだけではない。そのさらに前にかつて黒人を奴隷化した者たちも、当時は黒人を奴隷にすることは悪ではないと考えていたから、そのようなことをしたのだ。アメリカやオーストラリアにおいても、先住民をはじめとする有色人種に対する行為は彼らの正義のもとに行われたのだ。
このように、『正義』のもとに特定の属性を持つ人間を排斥したり、殺戮するという行為は人類の歴史上に遍在する。時として『正義』は人を殺すときの言い訳になるのだ。
では、もしも桃太郎に倒された鬼がただの被害者だったら?あるいは、もしも魔王軍が勇者と戦う動機が「先に人間が魔族を虐殺したから」だったら?『殺す側』と『殺される側』に考えられる可能性は、無限にあると言っていいだろう。
私のこの主張の先にある物語は、決して正義を讃える物語ではない。
人間の歪んだ正義は、時として悪より恐ろしいのだ。
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