日常8

『まず、売ってもらう人生ってのはお客さんのこれ以降の人生になる。』

店の奥から戻ってきた男は1枚のA4用紙を持ってきて説明を始めた。


『で、その人生が良い人生であればあるほどその分過去へ戻ることができる。』

『・・・』

この男は何を言ってんだ。

自分の人生を売ったらその対価として過去に戻れるだあ?

こいつ絶対ヤバい奴だろ。

そんな俺の思いなど気にもせず男は至極真面目な顔をして説明を続けた。


『人生を売って過去に戻るのは簡単だ。

 この契約書にサインする。それだけだ。』

『は?それだけ?』

『ああ、それだけだ。

 厳密にはお客さんの思いを少し話してもらう必要もあるんだが、

 その行為自体には過去に戻れる力は無い。

 あくまでこの契約書にサインをすることがお客さんを過去に戻してくれる。』

ヤバいヤバいヤバい!

いよいよ意味がわからなくなってきた。

過去に戻れるなんて信じる気はさらさらないが、でも過去に戻るって言ったらもっとこうタイムマシーンに乗るとか、特別な装置を全身に繋いでとか、もしくはゲートをくぐってとか、そう思うじゃん?

それが、男が持っているあの紙切れにサインするだけだなんて・・・

絶対あいつク〇リ決めてんだろ、ヤベーよ。


『ああ。その目は信じてないな。』

『・・・』

『そりゃそうだよな。

 深夜の古本屋で急に人生を売って過去に戻れるなんて言われても誰も信用しない。

 今までの客もそうだった。』

『!?何人か過去に戻った人間がいるのか?』

『ああ。

 みんなあんたと同じ反応だったよ。

 でも最後には人生を売って過去に戻っていった。』

『その人たちはどうなったんだ?』

『さあな、そんなの俺が知るわけないだろ。幸せになれたんじゃないか。』

過去に戻った客がいるという実績はあるようだ、あくまでこの男の中での話でしかないが。

でも、もし本当に、仮に100歩譲って過去に戻った人間がいるのだとしたら?俺も過去に戻って人生をやり直せるんだとしたら?この現状を変えられるのだとしたら?

・・・あほくさ。過去に戻れるなんて非現実的なこと、この令和であるわけがない。

きっとあの紙に怪しい匂いのするクスリが塗ってあって、それを嗅いだ客の気が変になったところで高額なツボを買わせるに違いない。


『その紙、、、契約書を見せてくれないか?』

『ああ。』

そう言うと男は手に持っていた契約書を俺に差し出してきた。

俺はそれを受け取り、注意深く観察した。

怪しい香りは、、、しない。

軽く見た感じ、莫大な金銭を要求するような文章も無いようだ。細かい部分は読む気にもならないが。


『説明はだいたいこんなもんだ。

 どうだい?人生を売る気になったかい?』

『・・・』

『まあそうだよな。いきなり人生をやり直せると言われて、はいそうですか、

 となる人間はほとんどいないよな。今までの客もそうだった。

 別に俺は焦っちゃいないし、お客さんが人生を売っちまいたいと思った時に

 また来てくれ。』

『・・・わかった。』

俺は怪訝な態度を隠すこともせず契約書を男に返して店を出た。

結局今の時間は何だったんだ・・・ただ男の妄想話を聞いただけの時間。

、、、妄想、、、だよな。

そんな思いを抱きながら駅の方にあるネカフェへ向かう。

ふと振り返ると、あんな話を聞いたからか古本屋の明かりは一層怪しげに、しかしその分魅力的に真夜中の街にぼんやりと広がっていた。

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