二十八、洞天仙会〈三〉

 数十秒の落下の後、宵珉シャオミンは痛みもなくふわりと着地する。これも修行の成果といったところだろう。


「ふぅ……」


 目を開くと、奈落の底は鍾乳洞よりも劣悪な場所だった。グツグツと音を立てる溶岩はまるでマグマみたいだ。黒くて赤い。上を見上げると、近くに黒い空が広がっている。


(ここが黑熾山だな)


 宵珉シャオミンがいるこの場所は、正確には洞天の崖の下ではなく、奈落を媒介として繋がった全くの異空間・黑熾山であった。


 ふと耳を澄ませると、どこからかクチャクチャと耳障りな咀嚼音が聞こえてくる。

 かと思えば、その咀嚼音が鳴りやみ、今度は低い男の声が耳に届いた。


「お、エサがやってきたみてェだな」

「っ!?」


 いつの間にか、背後にヤツがいる。

 宵珉シャオミンはごくりと固唾をのむ。覚悟していたこととはいえ、いざ対面するとなるとその強烈な威圧感と凄まじい魔力に縮こまりそうになる。


(怯えるな宵珉シャオミン! 俺は阿珉アーミンとは違う、必勝法があるんだから……)


 この妖魔さえ倒せば、宵珉シャオミンが死なない。絶命回避を成し遂げられるのだ。

 宵珉シャオミンは意を決して恐る恐る後ろを振り向くと、宵珉シャオミンの何倍もある巨躯の妖魔がこちらを見下ろしていた。


 怪牛よりもずっと大きなその妖魔は血のように全身の赤い二足歩行の狼で、大きく膨らんだ両手の先はメラメラと炎が燃え盛っている。ギョロリした眼は宵珉シャオミンを射抜き、開いた口元は血で塗れている。


「ヒヒ、待ちくたびれたぞ」


 餐喰散サンハンザンは目を細め、グルルと喉を鳴らして、宵珉シャオミンの来訪を予期していたような言い方をする。


 それも、あの霧は奈落へエサを誘い込む罠だったからだ。南峰の修仙者たちは既に奈落に誘い込まれて餐喰散サンハンザンが生気を吸い取った釣餌のようなものである。


「ンンー?」


 ドンッと身をかがめて、宵珉シャオミンを舐めるように観察していた餐喰散サンハンザンは、スンスンと匂いを嗅ぐと途端に眉を顰める。


「この匂い……貴様、何者だ?」


 そうして、宵珉シャオミンにぐっと顔を寄せて、宵珉の身体を──正確にはその内側を覗き見る。


「フハハハハ!!! 妖魔界の王ともあろう者が、小物に化けてのこのこと儂の口へ入ってくるとはな」


 餐喰散サンハンザン宵珉シャオミンが妖魔王の器であることを見破ると、山中に響き渡るくらいに声を上げて高らかに笑う。


(あー嫌だ嫌だ、さっさと倒してしまおう)


 宵珉シャオミンは鉄扇を構えて、餐喰散サンハンザンを見上げる。そして、振りかぶろうとした。


「蒼炎──」


 しかし、術を発動させる前に、餐喰散サンハンザンに身体を握りこまれる。狼と大きな手のひらは容易く宵珉シャオミンの全身を包み、尖った鉤爪が喉元に当たる。


「儂はキサマにはうんざりしてたのだ。今日、キサマを喰ってその座を奪ってやろうじゃないか!」

「かはッ……!!」


 餐喰散サンハンザンはさらに握り込んだ宵珉シャオミンを持ち上げて、ニヤリとほくそ笑みながら上から下から観察する。


「しかしキサマ、手応えがなさすぎる……。はて、王とはこんなにも貧弱だったろうか……」


 憐れみを浮かべて宵珉シャオミンを眺める餐喰散サンハンザンに対して、宵珉シャオミンは痛みを覚えつつも、冷静な態度を保てていた。


(今のままじゃ、滅火の術を発動できない。こうなったら……)


 宵珉シャオミンは外部ではなく体内に意識を集中させ、封印された魔力を一時的に解き放つ。コントロールせよという汪澄ワンチェンの言葉に従い、密かに鍛錬していたのだ。


 段々と身体が燃えるように熱くなっていき、視界が赤く染っていく。じわじわと体内に魔力が巡るのを実感する。


「……俺が生き延びるために、おまえには死んでもらわなきゃなんない。その後、おまえが転生できるかは知らないが」

「キサマ……」


 突然、雰囲気の変わった宵珉シャオミンに、餐喰散サンハンザンは徐々に獰猛な憎しみをたたえた表情になる。


 宵珉シャオミンは意識的に自分の霊力と魔力を織り交ぜていく。


(今、俺は妖魔王の姿になっているに違いない)


 変身した自覚はあった。手足も長くなり、体内の魔力も解放されている。餐喰散サンハンザンの顔つきが変わったのも、憎き妖魔王が姿を現したからだろう。


 しかし今回は鍾乳洞の時とは違い、自ら願って変身したのだ。そのためか誰かに操られているような感覚もなく、自分の霊力で魔力をコントロールできている。


「はぁぁ……」


 宵珉シャオミンは魔力で手のひらに灯した蒼炎を大火へと強化させていく。


「蒼炎舞!」


 そして、仙術を唱えるとたちまち蒼炎は餐喰散サンハンザンの腕を伝って燃え上がる。なんという炎だ。自分でも驚くくらい、驚異的な火力──。

 

「そんなもので儂をやれるとでも──ッ!?」


 餐喰散サンハンザンは反撃しようとするが、強化された蒼炎は容赦なくその全身を包み込み、怒りのように高く燃え盛る。


「滅火」

「グァァァ───ッ!!!」


 餐喰散サンハンザンの呻き声を聞き流し、宵珉シャオミンは片手で印を結んで仙術を発動する。これが苓舜レイシュンに伝授してもらった秘術だ。

 この秘術を唱えると、攻撃対象の内部を氷の波が侵していき、対象が火狼族である場合はその真ん中に灯る核──生命の火を消滅させる。一撃必殺の仙術である。


「なぜ、貴様がそれ、を……」


 餐喰散サンハンザンは未練がましく声を絞り出して、宵珉シャオミンを睨みつける。

 しかし、宵珉シャオミンの滅火の術の効果により、餐喰散サンハンザンの燃え盛る生命の火は消えてしまい、しその巨躯は粉々に砕け散ってしまう。

 

「ふん、教えてやるもんか。人を喰いまくった罰だと思うんだな」


 宵珉シャオミンは既に塵となった餐喰散サンハンザンに冷たい眼差しを送る。

 あんなに恐れていたのに、呆気ないものだ。秘術の効果、そして妖魔王との実力差は残酷なまでに大きいのだろう。


 そしてぐいーっと大きく伸びをして、「はぁ……」と深呼吸した。これで終わった。とうとうやってのけたのだ。


華琉ホァリウ晏崔ユェンツェイ、大丈夫かなぁ……」


 二人は今頃雨の中で身を寄せあっているだろうか。ちゃんとイベントが進んでいたらいいのだが。


 いつまでもここに留まっているわけにもいかないため、宵珉シャオミン黑熾ヘイチー山からの脱出をはかる。


「ここから出るにはっと……」


 宵珉シャオミンは考えた末に転送術を使うことにした。鍾乳洞では出口が見つからず困ったが、今は違う。転送術を使えるほど成長したのだ。


 宵珉シャオミンは剣で指先を傷つけて血を出し、地面に陣を描く。そして、心の中で『転』と唱えた──。


◇◇◇


 転送先は苓舜レイシュンのいる場所に、と体内に残る苓舜レイシュンの霊力を辿って行くと、洞天の外、リン派の監督席へと着地した。


「あ、師兄!」


 そして、苓舜レイシュンを見つけて駆け寄り、安堵感からバッと抱きついてしまう


宵珉シャオミン!?」


 宵珉シャオミンの出現に気がついた苓舜レイシュンが「どうしてここに……」と声を上げる。


綺珊チーシャン角柳ジャオリウからはぐれたと聞いたが……華琉ホァリウ晏崔ユェンツェイはどうした。こちらの監視鏡が突然曇って君たちの姿が見えなくなったんだ」

「はは、実はまた妖魔と接触しちゃいまして……。監視鏡は直に元通りになるはずです」


 あの凝った罠は餐喰散サンハンザンの仕業だ。ヤツが死んだ今、罠も数刻と経たずに消滅するだろう。


 宵珉シャオミンの言葉に、苓舜レイシュンは眉を顰める。


「また交流会の時のようなことが起こったのか?」

「まあ、そんな感じで……」

 

 どこから説明しようか考えあぐねていると、突然苓舜レイシュンの顔色が変わる。


「微かにあの人の力を感じる……。まさか、また妖魔王に変身したのか?」


 確信を宿す眼差しを向けられ、宵珉シャオミンは素直に「はい」と首を縦に振る。


「フフ、わたしの忠告通り、魔力をコントロールできたみたいだね」


 すると、苓舜レイシュンが何かを言う前に汪澄ワンチェン宵珉シャオミンの肩をぽんっと叩いた。その顔には全てを見透かしたような笑みを浮かべている。


(一体この人はどこまでお見通しなんだか……)


 汪澄ワンチェンは今この瞬間に、肩を通して秘魔の紗を硬くしてくれた。

 この男は、餐喰散サンハンザンを倒したことすら把握していそうで恐ろしい。


「師兄、後で詳しくお話します。まずは華琉ホァリウ晏崔ユェンツェイを助けに行きましょう」

「ああ」


 二人のいる場所を知っている宵珉シャオミンが案内役を買って出る。


「話は後で詳しく聞かせてもらうが、あまり危ないことはしないでほしい。……気が気でない」

「師兄……。多分、今回のが人生最大級の山場だったんで大丈夫です!」


 宵珉シャオミンがそう言って拳を握ると、苓舜レイシュンは「そうだといいのだが……」と小さく息を吐いた。 


◇◇◇


 汪澄ワンチェンイェン派師尊の協力の元、無事に-晏崔ユェンツェイ華琉ホァリウは救出された。

 八仙門も関わっているため、仙会が中止されることはなく、この騒動は東峰だけが知ることとなる。


 餐喰散サンハンザンを巡る事件の真実に至っては、宵珉シャオミン綺珊チーシャン、そして苓舜レイシュン汪澄ワンチェンしか知り得ない。


 無事に餐喰散サンハンザンを懲らしめたことを綺珊チーシャンに報告すると、たいそう喜んでいた。

 そして、「今度は仙界ですかね〜!」と浮かれ出すので、「ダメだからな!?」と念を押す。

 今後、平和思考へと教育していかねばならない。宵珉シャオミンはそう覚悟した。


 苓舜レイシュン汪澄ワンチェンには、火狼族の餐喰散サンハンザンに遭遇したことと、消滅させたことを伝えた。

 餐喰散サンハンザンにはバイ派とガオ派の弟子が被害に遭っていることもあり、その二仙門には汪澄ワンチェンが折を見て報告するという。

 曰く、「面倒ごとにはならないようにするから安心して」とのことだ。


宵珉シャオミンのバカ! バカ宵珉シャオミン!」

「ほはひぅ、ほへん」


 泣き顔の華琉ホァリウがむぎゅっと頬を引っ張ってくる。心配させてしまって後ろめたい宵珉シャオミンは大人しくされるがままでいる。


「君が無事でよかった……」

「心配してくれてありがとう」


 晏崔ユェンツェイも心の底から案じてくれていたようだった。

 彼氏面で華琉ホァリウの肩に手を添えているのを見ると、宵珉シャオミンは引き立て役として十分に役立ったらしい。


(ああ、生きててよかった……どんどんイチャついてくれ……俺の努力も報われたってもんだ)


 内なる宵珉シャオミンは二人の尊さに合掌する。


 そしてちゃっかり、晏崔ユェンツェイは天宝を手に抱えていた。流石は主人公というべきか。ちなみに、天宝の正体は"魔をはね返す仙鏡"であり、別の章でキーアイテムとなるものだ。


「この半年長かったけど、なんとかなったなぁ……」


 宵珉シャオミンの生死は真逆の結果となったが、洞天仙会は晏崔ユェンツェイの勝利で終わったようだ。


(これからは華琉ホァリウを応援しつつ、師兄とハッピーライフを送るぞ!)


 今後の課題は魔力を完璧にコントロールできるようにすること。妖魔界を鎮めること。そして、晏崔ユェンツェイに殺されないようにすることだ。

 ラスボスは倒される運命ならば、ラスボスにならなければいい。餐喰散サンハンザンを倒したから全てが安心なわけではなく、生き延びるためにまだまだ課題は山積みである。


(『桔梗仙郷伝』じゃこんなの序盤だし、ついでに今世はバグも多いしな……)


 修仙者は普通の人間とは違い、寿命が数百年にも及ぶ。


(絶対長生きしてやるぞー!)


 宵珉シャオミンはそう意気込むのだった。

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