閑話 2 とあるお屋敷にて
深い暗闇の中、行灯が淡い光を帯びる。
ポッポと道を照らしていくように光の帯ができると、その先には古めかしく情緒あふれる町並みが現れ、照らされた石畳の道が伸びるさらに先には大きな屋敷が居を構えていた。
屋敷というには広すぎるそこは、人の姿にも似た動物たちが黒い祭服を身に纏い、せわしなく敷地内を行き来しており、さながら宴会の前の慌ただしさといった様相だ。
そんな中、床からは無数の黒い手が伸びては荷物を大切そうに抱え、音もなく広大な屋敷を迷うことなく進む。
どこまでも続く屋敷の最奥、襖の壁を幾重にも過ぎた先に、黒い手たちの目的である、彼女が居た。
「……あら、おかえりなさい」
濡れ羽色の長い黒髪をサラリ流し、僅かに首を傾げた女は口元にほんのりと笑みを浮かべる。
相も変わらずその顔には装飾を施した美しい面を被り、その容貌は明確な密に塗れていた。
畳を擦るように這う黒い手は彼女の元へ近づくと、手に持っていた古めかしい壺を彼女へ向かって掲げた。
「これは、随分と古い呪いがかかってたようね。死者蘇生に永久の墓守……しかも墓を訪れる者を贄にするなど……随分とまぁ、傲慢な術だこと」
彼女がそう言いながら壺に息を吹きかける。
たったそれだけで忌まわしい呪いを内包していた依り代はグズグズの灰となり溶けるように消えていく。
「元旦那様は人が愛おしいようだけど、こういう物を作る愚者くらいは間引きしてほしいわ。私の可愛い子が巻き込まれたじゃないのっ」
そう言って可愛らしく怒る主人を目にしたからか、黒い手が機嫌取りとばかりに新たな包みを彼女に差し出した。
両手にすっぽりと収まるくらいの大きさをしたその包みは、美しい柄をした和紙で封がされ、解くのがもったいなくも感じてしまう。
結ばれた紐を解き丁寧に和紙を取り除いて開けてみると、中には上品な白に金の縁取りがされた陶器の入れ物が入っており、蓋を開けてみれば色とりどりの金平糖が詰まっていた。
手のひらで花が咲いたような華やかな菓子を見て、彼女は小さく感嘆の声を漏らす。
「まぁ! なんて可愛らしい。……あの子が私にと? ふふ、本当に私を喜ばせるのが上手なんだから」
淡い桜色をした小粒な金平糖を一つまみして、そっと口に運ぶ。
軽く歯を当てるとシャリリと崩れ、上品な砂糖の甘さと共に、桃の風味がほんのりと舌に乗って鼻へと抜ける。
「とっても美味しい。それに少しだけ、あの子の気配がする」
持っていた器を持ち上げて頬を摺り寄せてみれば、僅かながらに感じるあの少年の気配。
絶望の中に希望の欠片を見つけたような瞳で見上げてきた無垢な少年が、この手を離れてどれほどになるだろう。
瞬きの間のような気もするし、もう随分と経ったような気もする。
暗闇の中で泣いていた子供を拾い、この屋敷に連れて来て過ごしたあの日々は、未だに色褪せることのない鮮烈さで、忘れかけていた様々な感情を呼び起こしてくれる。
この身を燻ぶる全身の傷は、愛する者から与えられた新たな命を産み落とした瞬間に出来たもの。
傷が元で命を落とし、この黄泉に来ることになったが、彼が命を懸けて迎えに来てくれた時は涙が出るほど嬉しかった。
あとは交わした約束を守ってくれるだけで良かった。
しかし約束は果たされず、彼はその顔を恐怖に歪ませて一人で去っていき、封印を施した大きな岩で常世と現世を完全に隔てた。
黄泉の国に残され、永い時の中でこの地を治めるようになってなお、愛していた者から受けた裏切りに恨み、あの人が愛している者たちを奪っては憂さを晴らした。
その怨嗟が断ち切られることがないまま過ごしていた時、どこからか子供の泣き声が聞こえて気まぐれに声のする方へと向かった。
そうして出会った迷い子は、あの暗闇から連れ出した後、何故かとてもよく懐いてどこに行くにも付いてきた。
始めの内はどうしてこんなに好意的なのかわからずに戸惑ったが、あの人が血相を変えて逃げた原因であるこの醜い姿にも恐怖を抱かず、ニコニコと笑みを浮かべて話しかけてくる姿に、生まれたばかりであったはずの赤子を思い出して、あの子に出来なかったことを重ねるようにして可愛がった。
それに、この傷を美しい花のようだと言い、自分の手が焼けるのも気にせず撫でてくれた子を愛おしいと思わないはずがない。
失われていたはずの感情が少しずつ蘇り、それに呼応するように傷が無くなっていくのを見て、この全身の傷が心に付いていた傷そのものであったのだと理解した。
そうして心が満たされていく一方で、少年の胸から伸びていた銀糸がどんどんと頼りなくなっていくのがわかった。
このままいけば糸は切れ、彼は少年のまま永遠にこの地へと囚われることになるのだろう。
既にこの地の食べ物を口にしていて、魂の在り方が変質している。現世に戻しても、おそらく何も知らない只人としては暮らしていけないだろう。
それならばいっそこのまま自分のものになってしまえばいいと思った。
「ねぇ、幽心。ずっと此処に居たい? 」
「はい! ……でも、その」
少年を膝に乗せたまま言葉をかけてみると、案外あっさりと良い返事が返ってきた。
しかしその後に少しばかり言いにくそうに膝の上でモゾモゾすると、口ごもってしまった。
「でも? 」
「……大人になりたいのです」
「どうして? 」
「だって……貴女に似合う男になりたいから」
「まぁっ」
健気に頬を染めながらそんなことを言われてしまえば、帰さないわけにはいかなくなってしまった。
今にして思えば、この時感じていたのは母性であったのだろう。愛らしい子供から言われたおませな言葉に胸を打たれ、純粋に嬉しかったのを憶えている。
けれども、彼はこの時から自分が抱えている想いがどれほど重いものかをわかっていて口にしたのだ。
それは生涯出会うはずの無かった者と出会い変質した、彼の精神が生んだ狂気だったのかもしれない。
神に抱くには到底似つかわしくない生々しい感情。共に過ごしていくうちに芽生え育ったそれは、幼い常識も倫理観も塗り替えて、人と神の隔たりさえも超え大輪の華を咲かせてしまった。
「ならば現世にお帰りなさい。そしてまた、逢いましょう」
「―――様、必ず戻ってきます」
「えぇ、いつまでも待っているわ。約束よ」
「はい、約束です」
約束など二度としないと心に決めていたはずであったのに、この時すんなりと口にしてしまったのは、彼が必ずこの手の中に戻ってくるとわかっていたからなのかもしれない。
永遠に闇が覆う黄泉の国。死人と妖が混在する常世の世界で美しい青年になった彼を想いながら、手の中で愛らしい金平糖を転がしてうっそりと微笑む。
「早く私の元へ戻ってきてね、幽心」
そんな艶やかな吐息と共に零れた言葉は、誰に聞かれることもなく広い屋敷の中で儚く消えた。
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