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彼女はこのスーパーで惣菜担当として働く以前、とあるメーカーに営業として勤めていた。お得意様との接待の場で、有力な業界人と仲介するから見返りに、と強要された。それも一度や二度のことではない。業界ではそれが日常茶飯事だと先輩社員は諦めていた。そんな状況が十数年続き、とうとう限界が訪れた。
「ほら、私って良くも悪くもキッチリとしておきたい性分じゃん?その接待の場で言われたこととか、上司が守るどころか一緒になって追い詰めてきたこととか、全部漏らさずメモして、上に報告したのよ。でも、結局なにも変わらなかった。私が我慢すれば全て丸く収まることだってさ。旦那にも相談したんだけど、擁護するどころか、私にも非があるんじゃないかって責められてさ、あの時はきつかったね。私に枕を強要したお得意、それを一緒に囃し立てた上司、我慢しろって言ってきた人事、そして旦那、みんな男だった。その時やっと悟ったよ。ああ、結局社会のなかで男と女が平等に仲良く働くことなんてできないんだって」
私は何も言うことができなかった。吉岡さんのように、仕事で理不尽な扱いを受けたことは未だかつてないし、男と女が社会で共存していくことについて、そこまで深く考えたことはなかった。でも、至るところに抑圧と理不尽な世界はあって、それにまだ巻き込まれていない私が、恵まれているだけなのかもしれない。
「それでこうしてスーパーに流れ着いたってわけ。女性が多いし、なんかここにいると安心できたのよね。店長が商売下手そうな感じがまたいいのよね。だけど、どこにいたって逃れられないものってあるんだよね。私は結局、ずっと男が憎いの。世の中には男と女しかいないのにね。いつまで私は…」
最後の方は、私にというより、自問自答しているかのようだった。そんな吉岡さんを見ても、なんて声を掛けていいのか分からなかった。その悔しさ、言葉では言い表せないほどのもどかしさに強く共感していることだけは伝えたくて、私は彼女が座る机に、自販機で買ったばかりの温かいココアを置いた。吉岡さんはちょっとだけ笑って、ココアの缶を包み込むように握っていた。
次の日、私はまた、いつものように総菜コーナーで弁当を物色していた。今日は塩鯖弁当の日だ。先述したピリ辛鯖弁当の評価から分かるように、ここの鯖の鮮度は抜群で、非常に満足度の高い弁当の一つだ。正直なところ、もはや真の一位の弁当など決めることはできない。毎日吉岡さんの弁当が食べられたらそれで十分だ。私は鯖の程よい塩気がキャベツの酸っぱさとマリアージュした際の味わいを想像して、口から半分涎を垂らしながら、一番鯖の大きそうな弁当を手に取ろうとした時、横からふいに手が伸びてきて、狙っていた弁当は姿を消した。口惜しい気持ちで弁当の行方を探すと、とろんとした半目、がっちりとした肩幅、その主は見紛う事なく変態パグ男だった。私は一気に血圧が上がり、メンチのひとつでも切ってやろうかと男を凄むが、肝心のパグ男は私を一瞥しただけで、それより総菜作業場の入口が気になっているようだった。へん、貴様が何時間ここで粘ったとて、目的を果たすことはできまいよ、と内心でパグ男を嘲るのが唯一の憂さ晴らしだった。
ところが、次の瞬間、総菜売り場の入り口が開いた。そこにはソースカツ丼を手にした吉岡さんが立っていた。吉岡さんと目が合い、私は必死に「ここは危険だ」と視線を送った。だけど吉岡さんは笑顔で頷いただけで、作業場に引き下がろうとはしなかった。吉岡さんを見つけたパグはまるでおもちゃを見つけた犬のように吉岡さんに近づいて行った。私は男を止めようとしたが、間に合わなかった。
「はーい、今日もお弁当ありがとね」
男はいつものように挨拶をしたついでと言わんばかりに吉岡さんの手を触っている。とにかくこの男をぶちのめす。それだけを決めてパグの後方へと忍び寄る。吉岡さんは
「あら、手が」
と笑いながら男に言った。
「ふふ、触っちゃった。柔らかい手だね」
私がありとあらゆる禁じられたワードを喉元まで持ち上げて男に掴みかかろうとした瞬間のことだった。
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