第48話 これの存在

 アパートの前に着いて最初に視界に飛び込んできたのは、見覚えのある車だった。学校の前で見かけた――椎崎の姉の車。つまり、彼女がここにいるということか。理由は一つ、椎崎の看病。……それにしても、なんだこの妙な胸騒ぎは。


 階段を上るたびに、足取りが重くなる。疲れているだけだと思いたい。だけど、一歩一歩に増していくこの感覚は、単なる疲労じゃない。胸の奥がざわつく。嫌な予感というやつだ。

 ようやくたどり着いた階の踊り場。息を整え、何気ない風を装って部屋の前まで行く。外観はいつも通り。ドアにも窓にも異常はない。……やはり、気にしすぎか。そう思って鍵を差し込もうとした、その瞬間だった。


「やっと帰ってきたね」


 隣の部屋の扉が音もなく開き、椎崎の姉がひょいと顔をのぞかせてきた。まるで俺が来るタイミングを計っていたかのように。


「はい、これ」


 手に握られていたのは――鍵だった。まさか、椎崎の部屋の鍵か?


「なんですか、これ?」


「隣の部屋の。高熱で倒れてるから、看病してあげて」


 あまりに軽い口調だった。深刻さがまるで感じられない。むしろ、面倒ごとを押し付けてきたような気さえする。彼女の視線には、椎崎への情も心配も見えない。ただ淡々と、そしてどこか冷たく。


「いや、いりませんよ。他人の部屋の鍵を軽々しく渡すのってどうなんですか」


「え? でも、あなたのほうが彼女と仲良いんでしょ? だったらあなたがやるべきじゃない?」


「あなたが見てあげればいいじゃないですか」


「なんで私が? 時間のムダでしょ。正直、放っておいたっていいと思ってるし」


 突き刺さる言葉。いや、それ以上に――彼女の目だ。無関心と諦め、そしてわずかな軽蔑が混じったような、冷たい視線。それを向けられているのは俺ではない。椎崎、美咲だ。


「ずっと思ってましたけど、“これ”って言い方、やめてください。……椎崎のこと、人間として見てませんよね」


 自分でも驚くほど、声が低くなった。怒りではない。苛立ちでもない。ただ、胸が痛んだ。

 椎崎は、表では冷静で、裏ではきちんと人のことを思っている。それを知っているからこそ、この扱いが許せなかった。


「じゃあ、君の前では“美咲ちゃん”って呼んであげるよ。特別にね」


 あっけらかんと、しかしどこか試すように言ってきた彼女。皮肉か、それとも単なる興味か。いずれにせよ、俺の反応を観察しているのは確かだ。まるで実験動物でも見るかのように。


「……そうしてください」


「なら、美咲ちゃんの看病よろしく。私は運んだだけだから、ここからは君の役目。あ、鍵は“美咲ちゃんから直接受け取った”ってことにしておいてね。じゃあね」


 言いたいことを言い切って、彼女はあっさりと背を向けた。説得も、対話も意味をなさない。自分の中に“正しさ”があって、それを曲げる気などさらさらない――そんな人間なのだろう。


「……わかりました」


 俺が従うしか選択肢がないことも見透かしているのかもしれない。悔しいが、放置はできない。椎崎のことは、俺が見に行くしかない。


 扉の向こうから声が戻ってくる。


「あ、そうだ。私、まだ名乗ってなかったね。椎崎薫。よろしく、倫太郎くん」


 最後の言葉だけ、妙に柔らかく感じた。けれど、そこにも何かを試す意図が隠れているようで、素直には受け取れない。


「よろしくお願いします」


 彼女が自分の部屋に戻っていくのを見届けると、改めて手の中の鍵を見つめた。

 初めての、椎崎の部屋。入る理由は明確だ。必要なことだ。仕方ない。……仕方ないんだ。


 ――文句があるなら、俺じゃなくて、椎崎姉に言ってくれよな。

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