第32話 つり橋をゆっくりわたる

「あの……本当に、大丈夫なんですよね……?」


不安げな声で尋ねる椎崎の手は、小さく震えていた。安全装備を装着しながらも、その視線はすでにアスレチックの先へと怯えたように向けられている。ハーネス、ヘルメット、安全ロープ――思っていたよりも厳重な装備であるはずなのに、それが安心どころか、逆に事の重大さを思い知らせてしまったらしい。


「大丈夫ですよ。安全のための装備なんですから。むしろ、これがあるからこそ安心して進めるんです」


励ますように声をかけると、琴音が明るい声で続けた。


「ね、せっかくだし楽しみましょう! 私、こういうの大好きなんです!」


彼女のテンションは、スタート地点に近づくほどにどんどん上がっていく。一方で、椎崎はどんどん顔色を失っていた。


「私、やっぱり……見学の方が――」


「ほら、行きますよっ!」


躊躇いながらベルトを外そうとした椎崎の手を琴音が素早く止め、そのまま腕を引っ張った。


「あ、ちょ、ちょっと待って――!」


抗議する間もなく階段を引っ張られて上っていく。心の準備なんて、まったくできていなかっただろう。今の琴音には“鬼”という言葉がしっくりくる。


最初の種目は吊り橋渡り。橋の下には安全ネットが張られており、万が一落ちても怪我はしない――そう分かっていても、実際に足を踏み出すのは別の話だ。


「あ、あの……足が届かないです……」


板と板の間隔が思ったよりも広く、椎崎は慎重に一歩目を進めたが、次の板へ足を伸ばそうとした瞬間、その足が空を切った。


「もっと力を抜いて、大丈夫ですよ!」


優しく声をかけるが、その言葉で緊張が解けるほど簡単ではない。目をぎゅっとつぶり、必死に足を伸ばす。やっとのことで板に足が乗るが、バランスを崩して足を滑らせた。


「あっ!」


「っと!」


慌てて背中に手を当て、倒れかけた椎崎の体を支える。


「あ、ありがとうございます……」


「やるじゃん、椎崎さん」


「おさえててくれると助かります……」


かすれた声で頼まれ、背中に軽く手を添えたまま進む。歩くたびに、震えが伝わってくる。その震えが恐怖の深さを物語っていた。


「前からは私が支えます。りん兄は絶対助けてくれますから、少しずつ進みましょうね」


「ありがとう……」


琴音が手を差し出し、両手を握りながら後ろ歩きで導いていく。リズムよく声をかけ、鼓舞しながら少しずつ前へ。椎崎の歩みも、少しずつだが確かに進んでいた。


「いい感じです!」


励ましとともにペースが上がり、ほんの一分もかからない距離の吊り橋を、十倍近い時間をかけてようやく渡りきった。


「ゴールまで行けましたね!」


「……うん。二人のおかげ、ありがとう……」


安堵の笑みを浮かべた椎崎の肩がふっと下がる。そして、同時に全身から力が抜けたようにその場に座り込んだ。張り詰めていた神経が一気に緩んだのだろう。その挑戦が彼女にとってどれほどのものだったかは、俺にも琴音にも計り知れない。


「よーし、次いきますか!」


琴音が元気よく声を上げる。しかし――


「……ごめん。少し、休ませて……」


しゃがみ込む椎崎の姿に、琴音の表情が一瞬で曇った。さっきまでの笑顔が嘘のようにしおれていく。


「……そっか。りんにい、ごめん。私、先に行く。やめるようなら……下で待ってて」


無理に明るく振る舞っていた琴音が、ふと本心を漏らしたように見えた。


「わかった。後で追いつくよ」


俺は無理に引き止めなかった。今は、琴音のその決断を尊重すべきだと思ったからだ。


「……うん。椎崎さん、ごめんなさい」


「謝るのは……こっちのほうだよ。必ず追いつくから」


「うん、待ってる……」


そう言い残して琴音は歩き出す。彼女の小さな背中は、すぐに視界の奥で揺れて、そして遠ざかっていった。


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