第29話 妹来る

 俺の妹・琴音が、今日このタイミングで遊びに来ることになった――最悪すぎる。

 なぜなら今、俺は椎崎を相手に、かなり繊細な説得を進めている最中だったからだ。朝から何度も言葉を選びつつ、「今日は……できれば、家から出ないでくれないか」とお願いしていた矢先だった。


 だが、そんな俺の慎重な努力もむなしく。

 最悪のタイミングで、最悪の登場人物が――玄関の向こうから、現れた。


 琴音は、俺と椎崎が家の前で会話している“その現場”を、逃さず見つけ、

 ――しかも、カメラでパシャリと一枚。

 シャッター音が空気を裂くように響き、やけに耳に残った。


「その……椎崎美咲です。倫太郎くんとは、先月、知り合いになりました」


 椎崎は気まずそうにもしっかりと礼を正し、名乗った。声はわずかに震えていたが、誠実さがにじむ。だが。


「なるほど。一ヶ月でそういう仲になったってことね~。ふふん。りんにい、モテないと思ってたけど、私、見くびってたわ」


 その言葉は、まるで鋭利なナイフだった。

 琴音は、初対面の椎崎の言葉をまるごと無視して、独自の“事実”を構築し始めた。


「琴音。椎崎に迷惑をかけるな。俺たちは付き合ってない」


「はいはい、“人目を気にして隠れて付き合ってる”ってやつね。了解了解。大丈夫、私、そういうの口外しないタイプだから!」


 ……地獄だ。これがあるから、琴音と椎崎を絶対に会わせたくなかった。


 琴音は、全国区の長距離ランナー。運動神経と体力に全振りしたモンスターで、思い込みは速くて重く、そして“どこまでも善意”で押し通す。

 その突進力は、時に人の理性を粉砕する。


「その、ですね。私と倫太郎くんは、たまたま家が近くて――」


「家が近い!? うわ、それってもう運命ってやつですね! やば~!」


「い、いえ、その……!」


 椎崎が――完全に飲まれている。

 琴音のポジティブすぎる暴走思考に、冷静沈着が持ち味の彼女が、ここまで動揺するとは思わなかった。


「りんにいもさ、彼女と会うなら事前に教えてくれたら、私、日程ずらしたのに」


「違う、偶然だって……今、たまたま会っただけなんだよ」


「でも椎崎さんの家に行ったの、倫太郎くんでしょ? あっ」


 ――椎崎、痛恨の発言。

 必死で取り繕おうとしたその一言が、逆に全てを台無しにした。


「それを“たまたま”って言うんだ~? ふ~ん」


 どこまでも悪化する空気。

 耐えきれず、俺は話題を強引に変えることにした。


「ていうか琴音、お前なんで運動着なんだ? 今日、買い物って言ってたろ」


「決まってるじゃん。りんにいと体動かすつもりでさ」


「……買い物は?」


「え? あー、あれは嘘」


 あっさりと言い切った。悪びれもせず。


 そして、最悪の予感が――的中する。


「そうだ! 美咲さん、今日って暇ですか?」


「え、えーと……」


 やばい。“暇です”と言った瞬間、誘われる。いや、もう既に誘う気満々だ。そして今の椎崎に、琴音をさばく余裕は絶対にない。


「椎崎、今日は予定、あったんだよな?」


 俺の必死のフォローも虚しく。


「その……。ないです。今日は、一日暇です……」


 落ちた。完全に。

 琴音の世界に、飲み込まれた。


「ほんと!? やったぁ! じゃあ一緒に行きましょう!」


「え、と、その……はい。同行させていただきます……」


 その返事は、もはや諦めにも似ていた。

 自分の意思を切り離したような、どこか遠い声だった。


「よーし、それじゃあ、行きますか!」


 琴音は、太陽のように明るく、元気いっぱいに駆け出した。まるで台風の目。

 残された俺たちは、その渦に巻き込まれた枝葉に過ぎない。


「……悪いな、巻き込んで」


「いえ。気にしないでください。少し……体動かしたかったので」


「あー……それなら。自分のペース、絶対忘れるなよ」


「え? どういう意味ですか?」


「……あいつの運動は、常識外れだから」


「……なんか、すごく心配になってきました」


 その直後、後方から突き抜けるような声が響いた。


「なに話してるんですかー? 2人とも、早く来てくださいよー!」


 ――ああ、やっぱり。

 この嵐は、簡単には過ぎ去らないらしい。

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