第九話 唯一の場所
椎崎の様子が妙だった。明らかにテンションが高い──そう感じるのに、彼女の声のトーンはいつも通りで、表情も変わらず無表情のまま。だが、歩調や挙動から滲み出る焦燥感が、逆にその“普通”の皮を不自然なものにしていた。
「早くしてください」
無感情な声色でそう言いながら、椎崎はまっすぐ前だけを見て歩く。というより、ほとんど小走りだ。俺たちは駅に向かっていたが、そのペースは“歩く”とは到底言えない。
「待てって」
追いつこうと足を速める。早歩きと走りの中間くらい。競歩のルールなら完全にアウトなスピードだ。
「急がないと手に入らないのか?」
問いかけると、彼女は少し首を傾げるだけで即答した。
「いえ。余裕で間に合います。手に入れるのも簡単です」
じゃあ、なぜそんなに急ぐ? 理由が見当たらない。
「じゃあ、なんで急いでるんだ?」
「倫太郎君の足が遅いだけです。私はいつも通りのペースを保っています」
そんなわけあるか。
「……わかったよ」
半ば諦めて歩幅を広げる。この光景、誰がどう見てもカップルには見えない。前を行く彼女を追いかける俺。まるで何かから逃げているようだ。
「はぁ、はぁ……」
追いついて距離が縮まると、椎崎の荒い息遣いが耳に届いた。
「無理すんなよ」
「そっちこそ、無駄口叩かないでください」
きつい呼吸を整えながらも、言葉に棘を含ませる。そのまま黙々と歩き続ける。沈黙はやがて重くなり、会話を挟む隙間すら消えていった。
駅に到着する頃には、椎崎の呼吸はさらに荒れていた。肩が上下に揺れ、明らかに体力の限界が近い。
「ほら、水」
自販機で買ったボトルを差し出すと、彼女は両手を添えて受け取り、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
キャップを静かに回し、ほんの少しだけ口を潤す。喉を鳴らす音すら控えめで、彼女の礼儀正しさと気遣いがそこに表れていた。
「お前、体力なさすぎだろ」
彼女の表情は相変わらず無。けれど、その無表情が逆に異様に見える。前にも思ったが、椎崎は自分の体調よりも効率や結果を優先するタイプなのだろう。無理して重い荷物を持っていたときも、そうだった。
「今日はたまたまです。マラソンではいつも二桁ですし」
自信なさげに言うが、二桁といっても一桁でなければ誰だって二桁だ。
「ま、電車移動だし、しばらくは休憩だな」
「……ごめんなさい。私が誘っておいて、こんなふしだらな状態で」
「どうせ寝て過ごす予定だった一日だ。気にすんな」
言葉を受けて、彼女がふと視線を下に落とした。
「やっぱり謎です。倫太郎君みたいな人が、あんな噂を立てられるなんて。何があったんですか?」
ふと、脳裏にあの出来事が浮かんだ。特別なことはしていない。ただ、相手が悪かった。それだけだ。
「……どうでもいいことだよ」
曖昧に返すと、どこか空気が冷えたような気がした。
「悪いことを、したわけじゃないんですよね?」
問い詰めるでもなく、確かめるような口調。俺は黙り込んだ。世間一般の正しさと、自分の行動。そこにズレがあるのはわかっている。
「ですね。数日知り合っただけの私に話せるくらいなら、とっくに解決してますよね」
「そういうこと。誰にも話す気はない」
「……わかりました」
彼女の顔は変わらない。けれど、沈んだ空気が伝わってくる。ここまで重くなったのは、少し隠しすぎたせいかもしれない。もう少し信じても、いいのかもな──そう、思った。
電車に乗ると、ちょうどいいタイミングで空席があり、ふたり並んで座ることができた。椎崎はどこか眠たげで、静かにまぶたを落としかけている。まだ午前中なのに、疲れすぎだろ。
「あの、何か話題ないですか? 眠いです」
「寝てろよ」
「いやです」
弱みは見せたくないらしい。意地っ張りな部分だけは、相変わらずだ。
「ワンダーランドって、好きなんだな」
「もちろんです。暇があれば必ず行ってます。年パスも持ってますし」
思った以上にガチだった。
「真面目なお前にも、そういうかわいい趣味があるんだな」
「私にとっては、唯一の場所なんです。ずっと手に入らなかったグッズも、やっと今日手に入れる手段ができて……うれしいです」
その言葉に、ほんの少しだけ彼女の心が開いた気がした。感情は希薄なままだが、彼女にとって「ワンダーランド」は単なる遊園地ではないのだろう。癒やしであり、逃避であり、救いなのかもしれない。
「……どうせ暇だし、好きに使えよ」
「ありがとうございます」
棒読みの感謝が返ってくる。でも、少しずつ伝わってきている。彼女は、俺にだけは素を見せても大丈夫だと思っているらしい。なぜそう思ったのかは、まだわからない。でも、悪い気はしなかった。
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