2-2:置いていった人たち


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 椎野みつえと椎野豊は、渚の生みの親だ。

 

 だが、渚に二人の記憶はほとんどなかった。交通事故で亡くなる前まで共に暮らした日々を、どこか遠くに落としてきてしまったからだ。


「私の部屋、じゃない」

 

 一度、状況を整理しなければならない。

 

 渚はベッドから降りた。身体が自分のものではないように軽い。調子が良すぎて不気味だ。

 

 部屋を出ると、目の前に階段があった。


 ゆっくりと一段一段を踏みしめるたび、古びた軋みではなく、築数年の新しさと、使い慣らした柔らかな音が返ってくる。

 

 暖かな匂いが強くなった。トントントン、と包丁の軽やかな音もする。他人の生活音が聞こえる。渚の心臓は下へ行くほど早鐘を打った。


 階段を下りきると、明るいキッチンとダイニングが広がっていた。


 隣にはリビングルーム。壁際のテレビから、アナウンサーの声が淡々と流れる。


「おはよう、渚」

 

 美しい内装をぼんやり眺めていると、背後か声をかけられた。低く落ち着いた口調だ。


 スーツ姿の男が渚の横を通り過ぎ、手にしていたパンの皿をダイニングテーブルに置いた。

 

「渚、これも運んでちょうだい」


 キッチンの奥から、母親の姿をした女性が顔を出した。


 お盆に味噌汁を載せながら、父親の姿をした男性が小首をかしげる。


「どうしたんだい?」


 渚が立ち尽くしていることを、不信に思ったのだろう。


 全身は痺れたように動かなかった。

 何とか身体を動かして、ロボットのように、言われるがまま渡された皿をテーブルの上に運ぶ。


 母親はエプロンの裾で手を拭きながらやってきて、そのまま席に座った。父親も向かいに座り、二人は何事もないように朝食を食べ始めた。


 油が切れた機械の渚は、箸が置かれた席にぎこちなく座った。


 目の前にパンと味噌汁。野菜サラダ。

 自分の前に並べられた朝ごはんを眺めて、二人の姿を交互にうかがう。ゆっくりとお椀に触ってみると、握れる程度の温かさが指先に染みた。


 それは、これが夢ではないと突きつけられる温度だった。


「今日はどうしたの」

 

 いつまでも動かない渚に、母親が穏やかな声で問いかけた。

 

「具合が悪いの?」

 

「顔色も良くないな。何かあったのか?」

 

「え、えっと……」


 歯切れの悪い返事に、二人は顔を見合わせた。

 

 渚はひどく混乱していた。

 あの揺さぶられるような感覚に、まだ頭の中をかき混ぜられている。

 

 俯いていた顔を上げると、箸を止めて、眉を下げて、渚を見つめる二つの顔がある。居心地の悪さがさらに膨れ上がった。


 この場にいることにも耐えられない。だがそれ以上に、心配そうな顔で渚を見ている二人のに、心が締め付けられる。

 

(何か言わなきゃ)


(でも、何を?)


 言葉にならない感情が膨らみ、頭の中が燃えるように熱い。止められない衝動が目から零れ落ちそうになる。渚は下唇の裏を強く噛んだ。

 

「渚、やっぱり病院に行った方がいいんじゃない?」

 

「びょ、病院?」


 渚は素っ頓狂な声をあげた。


 もしかして、自分が、気付いているのだろうか。


「だってほら、この前、大怪我してから、やっぱりおかしいわ。あの……あのこどうに行ってから」

 

「こ、え? こどう……?」


 母親が頷く。

 

「あそこで何かあったんでしょう? お休みだってもらってきて。何も話してくれないんじゃ、私たちもわからないわ」

 

「そうだぞ。父さんたちは力になりたいんだ」

 

「いつも怪我してばっかりで……。何かあるなら、もう無理しないで、機関も辞めた方が良いんじゃないの」


(何を言っているの?)

 

 頭の中に何かがひっかかった。


(――こどう?)


 その言葉を、渚は知っている。


 聞き覚えがあるのではない。見覚えがある言葉だった。心臓の動きを表す鼓動でも、古い道の古道でもない。


 渚はその言葉を、つい最近見た覚えがあった。


 あれはそう――「弧洞」と、書かれていた。


 思考が自然と、その言葉へ漢字を当てはめた。

 

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