第2話 天空の鳥籠 1−9
ネットで評判や査定価格を調べ、わたしは銀座の、いわゆる質屋に来ている。もちろん初めてだ。
雑居ビルの一角にある買取専門の狭い店舗で、カウンターを挟んで店主と客、二人入るのがやっとという空間だ。カウンターの後ろには間仕切りがあり、その裏がバックヤードらしいけれど、客からは見えない仕様になっている。
「これ、いくらになりますでしょうか?」
わたしは小さな箱を開いてみせた。中にはダイヤの婚約指輪が入っている。
「鑑定書はありますか?」
「いいえ」
万里が付き合いのある輸入業者から直接買いつけたものだ。たぶん格安で。ティファニーでもなければハリーウインストンでもないけれど、大きさだけはある。二カラット以上だと聞いている。
「失礼して」
店主はおざなりに白い手袋をはめると、サイズゲージで大きさを測ったり顕微鏡のような器具でダイヤを覗いたりしていた。
「七十万でいかがでしょう」
「七十万……」
貴金属の値段が高騰しているらしいから、ある程度の期待はしていた。正直、七十万が高いのか安いのかまではわからない。でもこの店の例にあがっていた二カラットのダイヤよりも安い。
「大きさはありますね。一、八六カラットです。ですが、見た目じゃわからないと思いますが、質がそこまでねえ。カラーがF。クラリティがS|2。カットはGoodってところでしょうか」
「そうなんですか」
七十万という値段云々よりも、人から見えないダイヤの質が予想通りだったことにやっぱり落ち込む。クラリティやカラーはわからないけれど、カットのGoodが一番下のランクだということは、たまたまの知識で知っていた。
結婚当時でさえ、万里にとってわたしはその程度の存在だったことを突きつけられた思いだ。もちろん世間的には充分すぎる値段の婚約指輪だろう。
けれど小金持ちの御多分に漏れず万里は、ロレックスだのオーデマピケだの、それ以外にも名前を覚えられない高級腕時計をコレクションケースいっぱいに持っている。最高額はおそらく三千万円は下らない。そう昔聞いたような気がする。
そんな男性が、配偶者になる女性に贈る一生に一度の指輪の値段が、中古とはいえ七十万。直接の買い付けであることや、貴金属の高騰から考えて、当時の値段もそんなものだったんだろう。
財産と婚約指輪、その分母分子の比率は愛情に比例してしまうように感じるのは、女特有の感性だろうか。
とりあえず、着手金には充分な額だ。
「結構です。そのお値段でお願いします」
店主は指輪を引き取り、分厚いお金の束を封筒に入れ、差し出してくれる。わたしはそれを受け取るとバッグに収め、店を出た。
もう後戻りができないことが、とてつもなく清々しかった。
駅前のATMから、わたしは無事に着手金を佐伯法律事務所に振り込むことができた。それだけじゃなく、楽しみにしていた高校の友だちとのランチ会を、キャンセルしなくてすみそうだ。
ビルとビルの間に入道雲が見える気持ちのいい景色の中、銀座の大通りを闊歩する。身体が軽く、自然に背筋が伸びる。街のざわめきが心地よい。
視界の隅にひっかかったあるものに足を止める。
「素敵……」
わたしはショーウインドウのマネキンがまとっている、黒いノースリーブのタイトワンピースに見入った。足首にかかるマキシ丈で、斜め右側に膝までの深いスリットが入っている。足元は、透明の素材をヒールに使った、指先と踵部分のない黒メッシュのサマーブーツを合わせている。こんなに素敵なワンピースも、値段はいつも買っている品と似たようなものなんだろう。
今、バッグの中に入っているお金を使えば、こういう個性的なおしゃれも楽しめるのかもしれない。現金だ。万里にバレることはない。この服を今月の食事会に着ていったら、みんなどんな顔をするかな。
浮き立つ心に歯止めが効かず、わたしは店のガラス扉の前に立った。音もなく左右に開く自動扉の先には、はるか未来への道筋が広がっているように感じた。
いらっしゃいませ、と応じてくれる店員さんに、わたしはショウウインドウに飾ってあるワンピースとサマーブーツの組み合わせを指差し、試着を願い出た。
それを身につけ大きな鏡の前に立つ。別人のようだ。
「とてもお似合いですよ。垢抜けて見えます」
「本当? セールストークなんじゃないの?」
テンションが上がってしまい、少し年下だと思われる店員さんに軽口を叩いてしまう。
「いいえー。少しアバンギャルドなデザインでしょう? お客様、とても可愛いらしくていらっしゃるから。ギャップというんでしょうか。それが不思議な魅力になってます」
可愛らしい? わたしは鏡に映る自分の姿に疑問を抱き、同時にさらなるいたずら心が芽生えてしまう。
「ねえ。どちらもいただくわね。ワンピースとこのサマーブーツ。だから、その……ちょっと聞いてもいい?」
「はい?」
弁護士事務所の倉智さんの面影が脳裏をよぎる。別にあの人にいくつに見られたのかを気にしている訳じゃない。
「わたしって、何歳くらいに見えるもの? 入ってきた時はいくつに見えて、このワンピースだといくつに見える? 気を悪くしたりしないから、正直なところ、どう見えるのか知りたいな」
店員さんはさすがに逡巡して口を閉ざしてしまった。これじゃ全くのモンスターカスタマーだ。
「ごめんなさい。気を悪くしたのはあなたの方ね。答えにくいに決まってるわよね。気分がすごく高揚すると度を外すのはわたしの悪い癖だって最近気づいたの。実は同窓会があるのよ。だから歳のことが気になって」
年齢を気にする言い訳には、〝近く同窓会がある〟の説明が不自然にならない、と美容院の雑誌で読んだことを思い出した。
店員さんの表情にようやく余裕が戻る。
「正直、お客様が入って来られた時は三十代の後半かと……。とても落ち着いた服装をなさっていらっしゃるので。でもまだ二十代ですよね。若さは有限ですから、洋服だって冒険できるうちに冒険しないともったいないですよね?」
「二十代? それ本気で言ってるの? 二十代に見えるなんて……ありがとう」
わたしの返答に、店員さんは今度は怪訝な表情をした。面倒な客であることは百も承知なのに、高揚感にその場でステップでも踏みそうだ。
「こっちのアクセサリーも買っちゃおうかな。このコーディネートに似合いそう。あら、結構するのね」
華奢な鎖のネックレスの先に、幾何学的なデザインのトップがついている。ひっくり返すのも苦労するくらいの小さな値札を、爪の先で操る。
「素敵ですよね。作家の一点ものなんですよ。でも人気の作家さんで、すぐに売れ切れちゃうんです。今日入ってきたばかりです」
商売上手な店員さんだけれど、とても感じのいい人だ。
わたしは久しぶりに好きなものを手に入れる楽しさを思い出し、結局その店でワンピースとサマーブーツとネックレスの三点を購入して自動扉を抜けた。二十代だなんてセールストークに完敗した訳だけれど、微塵も後悔はない。
帰路につく間も、かなりの大きさになったショッピングバッグを、前後に大きく揺らして歩きたい迷惑な衝動に駆られる。
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