第2話 天空の鳥籠 1−5
怜和のおむつが完全に取れて赤ちゃん期を脱すると、わたしを置いて二人だけで出かけるようになった。そしてプレゼント攻勢でも怜和を喜ばせるのはいつも万里の役目だった。
長編漫画の大人買い。豪華な図鑑セット。フィギュアのついた限定盤のアニメDVD。初版特別装丁の児童小説全巻。夜通し並ばなければ手に入らない最新ゲーム機に、プレミアのついた遊戯王のレアカードまで、お金にも時間にもいっさい糸目はつけず、人を使って怜和のために手に入れる。
怜和はまだ友だちが持っていない遊具をいち早く手に入れたし、公開間もない人気のテーマパークに誰よりも早くに行った。
子供の好奇心を刺激してうまく学習に繋げることにも長けていて、当然怜和はそんな父親が大好きだった。その大好きな父親が見下すわたしの存在は、歳を追うごとに薄れていったのだろう。
わたしは万里から小遣いをほとんど与えられておらず、怜和に望むものを買ってあげることは難しかった。そして何よりもそれを禁止されていた。
怜和は大事な牧枝家の跡取りなのだ。
寂しかった。心が擦り切れ、胸の痛みで身体が粉々になってしまうんじゃないかと思うほどに、苦しかった。
わたしが怜和にできることは、絵本の読み聞かせくらいだった。幸い怜和はそれをとても喜んだから、喉が枯れて痛くなっても彼の気が済むまで何冊でも何時間でも、絵本を読み続けた。わたしの読み上げる活字によって、怜和の瞳が好奇心で満ちていくところを見るのが、あの頃の最上の、そして唯一の幸せだった。
そこに生まれてきてくれたのが若葉だ。
ちなみに若葉も本が好きで、二人各々が小学校の低学年まで、毎日欠かさずに読み聞かせをしていた。
若葉を孕っていることが発覚した頃には、万里の女性蔑視はあからさまで、それはわたしに対してだけではなく、自分の血を引くお腹の中の娘にまで及んだわけだ。
それでも生まれてくれば、長男の怜和と同じように可愛がってくれるものだと確信していた。だって自分の子供なのだから。
でもそれは大きな間違いだった。
我が家では、怜和の誕生日パーティーは父方の祖父母や時には親戚も招待し、一流ホテルで行う。しかし若葉の誕生日会は、わたしと、わたしの両親とのファミレスでの外食だ。そこに幼い怜和は加わったものの、万里も、まして義両親の姿もない。代金を支払うのはもっぱらうちの親だった。
牧枝家は万里の上の代、さらにその上の代から、徹底した男性優位思想が連綿と受け継がれている。
わたしの実家は決して裕福とは言えないものの、ごく一般的な家庭だった。娘が結婚前、しかも美大在学中の十代で妊娠してしまったことを、両親はおそらくとても嘆いていた。けれど救いだったのが、相手が資産家だったことだろう。
万里は子供とわたしを幸せにすると、表面上であったにしろ殊勝な態度でうちの両親に頭を下げてくれた。中退した大学の奨学金を肩代わりしてくれ、さらには自分が退学させてしまったわけだから、とわたしが大学に支払うはずだった先の学費を、弟の進学費用に充ててくれたのだ。そのおかげで弟は奨学金を使わずに大学に行くことができた。
ここまでしてもらった両親はとても感謝し、なんて誠実な人なのだろうと信じるのも道理だ。美大は中退することにはなったけれど、わたしが幸せになれるのだと純粋に喜びもしただろう。
万里が実は既婚者だったなんて、もちろん口が裂けても打ち明けられることじゃない。
有名ホテルでの結婚式。怜和の誕生。あの頃の幸せに満ちた両親の顔が、いつも脳裏の片隅にある。
とはいえ、未婚の妊娠や大学の中退といった親不孝をしたことは覆せない。万里のモラハラを悟られないよう細心の注意は払ってきたつもりだ。でも、あれから十九年。さすがにおかしいと感じているに違いない。若葉が誕生する頃には疑いようもなく……。
最近若葉は、うちの両親の前でさえ、万里のことをパパではなく〝あの人〟と呼ぶことがある。
キッチンをすべて片付け、その後、しまい湯でのお風呂から上がる。脱衣場にある洗面化粧台で簡単にスキンケアを終えると、すでに十二時をまわっていた。
わたしは自室に戻り、部屋の扉を閉める。これでようやく今日一日が終わった。
ベッドに横たわり、白い天井を眺めながら両手を鳩尾(みぞおち)の上で組んだ。目が冴え、心臓はいまだ心地よく高鳴っている。
商談がうまくいかなかったらしい万里の機嫌は良くなかったのに、どん底の気分からはほど遠い。それどころか、暴言を吐かれながらも、心はどこか浮かれていたような気がする。
今まで遠い憧れだけで現実味のなかった離婚のふた文字が、小さいけれど胸の中核に、はっきりとした形を成して芽生えた。ののしられながらもそこにあり続けた。この鼓動の心地よさは、つまりはそういうことなのだろう。
離婚は、若葉の中学受験が終わってからにするべきだろうか。
怜和の時は中学から受験するのが既定路線だったのに、同じことを望む若葉の希望を叶えてあげるのは至難の業だった。女がいい学校に通う必要はない、というのが万里の考えだ。
そこを何度も万里に頼み込み、やっと進学塾の費用を出してもらえることになったのだ。決め手になったのは怜和の口ぞえで、それがなければわたしの言葉なんて、歯牙にも掛けなかっただろう。
離婚して、わたしひとりで若葉を中学受験させてあげることができるだろうか。
しかし感受性の高い時期の若葉を、今は一刻も早くこの家から連れ出したい。徹底した男尊女卑家庭の中で若葉を育てることは、怜和とは逆の意味で良くないに違いない。
今は明るくのびのびとした子に育ってくれている若葉。あの子がこの家で思春期を過ごすことによって、自己肯定感の低い人間に変わってしまう可能性だってないわけじゃない。事実、幼い頃はわたしに優しかった怜和は、徐々に変わってしまった。
でもきっと若葉は、今ならまだ遅くない。
怜和はこの家に残ることを選ぶだろう。けれど若葉は、間違いなくわたしに着いてきてくれる。
ベッドの上で仰向けのまま、スマホの検索画面を開き、指でなぞる。
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