祐 ~二十四歳、夏

 続くロシアとウクライナ、アメリカと中国。世界中で戦争の気配が濃厚になるにつれ、望さんはあちこちに出張しなければならなくなった。思えばリヨンにいた一年は嘘みたいに穏やかな生活だった。最近はハイキングどころじゃない。行きたかったドロミテコースも当分無理だろう。


「Kay,Where's the tie? 《カイ、ネクタイどこ?》」

「In the socks poket. 《靴下のポケット》……ちょっとそれ、That tie doesn't match. 《そのネクタイ合わねぇすよ》」

「You're wroooong.」

「あっ……ぐぅ」


 おれは一ドル札を財布から出して、望さんに雑に渡した。


 リヨンから本部のあるジュネーブ、出張でロサンゼルス、台湾、緊急出動でスーダン。留守番することもあればついて行くことも多くなって、フランス語を勉強していた俺に、「やっぱり先に英語やろうか」と望さんが勧めたのは自然な流れだったと思う。

 去年の春、「日本のバラエティで遊んでいたのを見た」と、家の中では英語しか使えないルールが加わった。間違うのはオーケーだけど、会話中に日本語を使ったらアウト。

 そうと決まると望さんは、わざわざ両替したドル札を給料から差し引いて現金払いし、いつの間にか持ってきたデカい硝子瓶に『Mistake Saving まちがい貯金』て紙を貼り付けた。こういうときの細やかさが憎い。しかも間違うとかなり嫌な感じにツッコまれるか無言で金を巻き上げてくる、すごく楽しそうに。


「さて僕は京都で会議、君は清子とデートらしいけどなにか申し開きはあるの?」


 そして俺たちはお盆に合わせて日本に帰国している。七日だけ滞在していま拠点にしているバンコクに戻る。望さんは五日間仕事、一泊二日の帰省――俺も今年は実家に帰る予定だ。

 いまはホテルの朝食を食べたあと、自然と望さんの出勤準備を手伝っている。ハウスキーパーというよりすでに付き人だ。


「いや、デートというかモールに服を買いに行くんですよ。明日は自分が行くんだからいいじゃないですか……」

「よくないよ。清子が買い物するの見守ってるときが一番幸せな時間なのに」

「……まったく同感できないですけど、ゴチソウサマです」

 明日、カイは俺だと打ち明けることになっている。清子さんは外国人の若者の服を好きに選べると聞いてこれまでにない興奮状態らしい。正直どうなるか、こわい。


「そういえば昨日の試験はどうだったの」

 「どうだったの」が「受かるんでしょ?」のニュアンスで俺は苦笑した。

 望さんは、不測の事態があったら困ると、高卒認定試験を受ける俺の帰国に合わせてくれた。

「どうですかね、でも手応えはありましたよ」

「I know.」



 ――ちょうどリヨンを引き払う時期、ハウスキーパー契約をどうするか俺たちは話し合った。

「もう分かってると思うけど、僕の仕事は落ち着かない。災害があれば出動があるし、キナ臭くなれば根回しに足を運んで調整しなきゃいけない。これからもバタバタし続けるけど、僕は仕事を変えるつもりはないんだ。だから君が家にいて衣食住を整えてくれることはとても有益で必要なことだよ」

 はっきり教えられてないが望さんは国連職員だ。佐藤が言ってた通り世界を救おうとしてるひとり。

「俺も、拾ってもらえて……衣食住が保証されてる生活が送れて、本当にありがたかったです」

「うん。君、元気になったね。また身長伸びたの?」

「最近また関節痛いんで、たぶんもうちょい」


 若いっていいねぇと望さんは煎れたてのコーヒーを一口飲んだ。この日は春先なのに寒くて、寒がりの望さんはなんだかんだと日当たりのいいキッチンで過ごしていた。昼飯を片付けたテーブルで俺たちは向かい合っている。


「それで学校はどうすることにしたんだい?」

「日本の、高卒認定試験を受けようと思ってます。これから高校入って単位取るのは厳しいので」

「辰くんに話せば学費は出してくれるんじゃない? それに別にこの際日本じゃなくても」

「……色々考えて、やっぱり日本で就職を目指そうかなと」

「オーケー。君の意思は尊重するし応援する。じゃあとりあえず高卒資格を取ってそのあとは?」

「まだ……具体的には」

「じゃあ契約は更新かな」

 いいんですか。いいでしょ、そこはビジネスライクで。


 俺は心底ホッとして自分のマグカップを持ち上げた。すっかり飲み慣れたブラックコーヒーが腹にしっかりと落ちる。

「八月に二日間の試験があって……そんときは休みをもらって実家に帰ろうと思ってます」


 冬に帰国してからずっと考えていた。

 髪色はともかくスーツを着ていた佐藤になにも思わなかった訳じゃない。望さんの好意におんぶにだっこで生き続けちゃだめだ。でも結局俺はなにがしたいかじゃなくて、なにができるかで仕事を探すしかない。

 望さんに放り出されたら俺はやっぱり、住所不定の中途半端な語学力しかない中卒だ。

「親父と、今後についてちゃんと相談します」

「そうだね。それは賛成だ」


 望さんの日本語は慎重で本音が見えづらい。どこか英語を直訳したような言い回し。でもいつの間にか言葉通りに受け取れる――そのままを信じて大丈夫だと思えるようになっていた。

 俺は頭を下げた、深く。

「また一年、よろしくお願いします」


 *


「は……?」

「……清子さん。ご無沙汰しています」

 待ち合わせた駅の改札口。清子さんが息を整えるまで、たっぷり三分かかった。それで抱きつかれておいおい泣かれて十分。モールどころじゃないと、駅ビルのカフェで根掘り葉掘り一時間。

 それで多少満足したらしい清子さんが口を尖らせて言ったのが、

「のんくんが、あたしに嘘つくなんて」

 だったので、俺は盛大にコーヒーを噴きだした。

「それは、すみません俺のせいです……望さんは俺をかばっててくれただけなので」

 まぁねぇ。

 清子さんは大きなマグカップを品よくすすってなにか考え込んだ。そして俺を睨んだ。すごく恨みがましく。

「察して余りあるから、それはもういいわ。でも……ずるくない? ずっとふたりで楽しく暮らしてたのかと思うと、なんだか許せなくなってきた」

 「えっ」俺は仰け反った。でもオレンジの固いソファの背が、ぶつかって逃げられない。

「だってハイキングに行くとか買い物行くとか……ただのハウスキーパーにしては仲が良すぎるとおもってたのよ。全ッ然あたしに紹介しないし……まさか体の関係になってや」

「しませんて!」


 そのあともブチブチ言い続けながら、モールに移動した清子さんは信じられないくらい金を使った。ユーロでもドルでもない円だから感覚的には一瞬安いけど、塵も積もればなんとやらで、こっそり合計していた俺は途中から震えた。この様子を「楽しい」と評する望さんの懐の広さにも。似たもの夫婦でしかない。

 そうして日が暮れたモールの駐車場で「明日はのんくんの買い物だわねぇ」と聞いたときには膝から崩れるかと思ったほどだ。


「ねぇ祐くん」

「はい」

 せっかくだから夕食もどこかで食べましょうと誘われ、そのまま車で知らない洋食屋に入った。日本のハンバーグはどこで食べても美味い。カレーも。食べたいなと思うものが次々出てくるのは生まれ故郷だからだろうか。

「明日、紗世も帰ってくるけど」

 カトラリーを置いた。清子さんはじっと俺を見ていた。

「……許してもらえるなら、会いたいと思ってます」

「それってどういうこと? 謝るとか、そういうこと?」

「謝るとは、思います。でも、」

 昨日の試験でも、『国語』が一番難しかった。読んで理解はできても適切に伝えることが俺は苦手だ。

 首を傾げた清子さんは先を促す。

「……俺はまだ高卒でもなくて、紗世と約束したマトモになれた訳でもない。将来なにして食っていくのかも分からない。ってか、そんなこと紗世には関係ないことで俺の自己満でしかないし」

 ステーキ皿の熱は触れられるくらいになっていて、添え物のポテトに埋まるバターは溶けかけたまま固まり始めている。

「だけどいまの俺なら、昔のこともばあちゃんのことも全部、冷静に話せる気がしてます」

「うん。そんな気はする。あなた、大人になったわね」


 ため息と共にそう言った清子さんは、フォークで前菜のピクルスを突っついた。いつまでも溌剌として今日も明るい色のスーツ姿の彼女だったが、ふと目元には細かな皺が刻まれてるのに気づいて俺はどきりとした。

「ねぇ、のんくんとは英語で話してるんだっけ」

「はい」

「じゃあ、Let's start speaking English right now. 《いまから英語ね》」

「は、Okey.」

 戸惑う俺を無視して清子さんは食事を再開したので、俺は気まずくなってとりあえず残りの肉を咀嚼した。

 待てよ、前に同じようなことがあった。

 霞みかけた記憶を引っ張り出した――あれはばあちゃんの当面の介護費用を援助してもらうことになったとき、あのときも清子さんは「いまから嘘はダメね」と言った。介護で困ってることはなにか、お金に困ると思う瞬間はいつか、高校に行きたいか。

 俺はあのとき、高校に行きたいと言った。嘘じゃなかった。でも半分は嘘だった、別に行きたい訳じゃなかった普通でありたかったから、そう答えただけだった。


「俺、ひとつだけ決めたことがあります」

「何?」

「ばあちゃんと同じ墓に入ります」

 言ってから、これは英語じゃないとはっきり言えなかったかもしれないと思った。


 俺はバックパックからくしゃくしゃの薄黄色の封筒を出した。円柱の入れ物のせいで角はひしゃげて持ち歩いたから薄汚くなってるそれ。

 清子さんは見ただけでなにが入ってるか気づいたようだった。目を丸くしている。

「まだ入ってます。俺は海に撒けなかった。ばあちゃんは怒りそうだけど」

 ずっと持ち歩いていた。

 どこかで散骨しようと思って、海にも山にも持って行った。

「……あなたって、そんなにクレイジーだったかしら」

「たぶん。あぁ望さんの影響はあると思います」

 途端悔しそうな顔をするから、この夫婦は本当に似ているなと思う。可笑しくてつい笑ってしまった。


「海藤家の墓にするか新しくばあちゃんの墓を立てるかはこれから相談します」

「そうして」

 ハァと疲れたような息を吐いて清子さんはワイングラスに入った水を含んだ。

 いますぐ赤ワインが飲みたいわね。

 それが日本語だったので思わず「You're wrong.」とツッコむと「Fuck」と吐き捨てられた。こわい。


 洋食屋を出て清子さんは「ひとり暮らしで寂しいの、少し付き合って」と、ホテルまで送ってくれた。繁華街を大学生とかサラリーマンが連れ立って歩いている。五年前と大して変わらない風景が不思議と懐かしい。

「あたしねNPOやってるのよ」

「聞いてます」

「いつも思うのよ、貧困は愛を失わせる」

 あの頃のあなたと辰くんを思うと、あたし後悔しかないわ。

「健康も未来も、なにもかもを奪う。生きるために頑張っているはずなのに、そのせいで奪われていく人のなんて多いこと」

「……はい」

 「I know」か「I see」か一瞬悩んだ。でも俺は知っていた。

「でもね、貧困を食い止めるのも愛なの。それは間違いないの」


 *


 暑い。こんなに暑かったか、日本。

 昨日までは曇りで雨がぱらついてたおかげか涼しかったらしい。やっぱり湿気っぽいな日本。

 商店街は、日中なのにシャッターが閉まっていたり『盆休み』と貼り紙がしてあったりで張り合いがない。でも角の肉屋からは油の匂いが漂っていて、つい足を止めてしまった。

 紗世と食べたくてメンチカツを買ったっけ。

 不経済だからといつも我慢していたけど、紗世と、と思うと贅沢に感じなかった。あいつ、ひとり暮らしでちゃんと食ってるんだろうか。怪しいもんだ。

 痩せた紗世の肩、背中――俺の中の紗世はいつも飢えていた。人のことは言えないが。


 ホテルをチェックアウトしタクシーで実家に帰る途中だった。シャンプーとかボディーソープを買う必要性に駆られ、商店街で降りた。親父が買ってくるのは妙に匂いが好きじゃなかった。安物だから仕方ない、夏場は俺が日に三度も体を洗うせいもあったから。トラベル用のセットと髭用の剃刀を買って、ぶらぶら歩いていた。

 ちょうどいいバスがあれば乗ってもいいかもしれないと、バス停に向けて。


 するとスマホが鳴って清子さんからの着信を知らせた。

「……Hi.」

「Where are you now? 《いまどこ?》」

 やはりまだ英語パーティは続いていたらしい。商店街だと伝えると、「そっからバスに乗りなさい」とやけに強い口調で言われる。「はぁ」と返事をすると、奥で望さんがなにか騒いだ。

「All you need is love!」

 清子さんは言いたいことだけ言って電話を切った。


 ……なんだったんだ。まぁいいか、どうせ時間はある。

 昨日のうちに親父には電話して、今日帰ると伝えてある。帰りは夜だと聞いたので、冷蔵庫になにかあれば飯でも作って待ってようかと思う。

 待てよ、食材あるのか?……バス時間見たらなにか買おう。


 古ぼけた停留所はそのまま、道路向こうにバス停が見えた。アーケードを抜けたら陽射しが音を立てそうなくらい肌を焼く。

 ふと、望さんがスーダンに二週間支援に行って帰ってきたときは、人違いかと思うくらい真っ黒になって帰ってきたなぁと浮かんだ。あのデスクワークか交渉を得意としてるらしい望さんでも、緊急時には災害地に出動することもあるんだと驚いた。案の定、髭も髪も服もテキトーになって帰ってきたのには呆れた。

 だけどそのときに、いつも誰かのことを考えているからそうなんだ、と分かった。

 そりゃ望さんは不器用なんだろう。服くらい着替えろよと思う、でも、そんなことを誰も気にしてられない世界が確かにあると知った。

 そして昨日の清子さんの話は、俺もそのひとりだったってことなんだろう。


 俺は、世界を救う側の人間になれるんだろうか――。


 風が吹いた。ざぁあっとまだ青い稲穂を揺らした音。

 停留所には先客がいたようで、荷物だけ無造作に置きっぱなしになっていた。

「……That's too careless. 《不用心すぎる》」

 つい英語で出た。一体どこのどいつだ。仕方なくベンチの奥端に腰掛けると、この小屋の裏手で足音がしたので安心する。

 バス時間はあと三分。

 ……まぁ見ててやるか。それくらいの親切なら俺にもできる。

 足を投げ出すと、あの日のことが目蓋によぎった。

 紗世を待っていた時間。紗世と歩いた時間。


 あの午前授業の日、たった三時間の授業にすらついていけず半ドンを喜ぶ同級生の波に乗れず「辞めよう」とはっきり思った。ストンと納得した。

 ばあちゃんを残しては死ねない、だから――。

 学校から駅に着くまでにはあっさり決意が固まっていた。


 ――だけど駅で紗世を見かけた瞬間に、胸にはいいようのない感情が湧いた。暗くて粘っこくて目も当てられない汚らしい感情。夏でも長いスカートが、まだ俺との思い出を宿している、まだ俺は紗世の中にいる。永遠に紗世に忘れられたくない。どんな酷いことをしてでも言ってでも。

 だから待ち伏せした。

 それなのに、ここで紗世の顔を見た途端。俺の醜くて臭い真っ黒な心臓はバカみたいに逸って、『最後くらい昔みたいにしゃべりたい』に変わった。


 紗世のことが好きだった中一に戻ったみたいになった。


 何度も踏みとどまった。意識のない水浸しの紗世を見下ろしてるとき、祭りの帰り道、タバコがバレた夜。病室で一緒に夜明けを見たとき。

 絶望でしかない朝が来ることを受け入れられたのは、世界中のどこにいたって朝の来る方角に、日の昇る場所に――紗世が居ると思えたからだ。


「はぁ……なんにも変わってねぇ自信しか、ないな」

 今日会えるだろうか。野上家にそれとなく挨拶に行くか? それとも電話?

 親父から殴られて会えない顔になる前に勢いで……いや、それじゃゆっくり話せない。待てよその前に、俺と会話してくれるのか?

 やっぱ高卒認定試験受かってからの方がよかったか? がっかりさせるかもな。あまりに状況が変わらなくて。

「はぁ」

 デカいため息が出て、咄嗟に口を覆った。ひとり言なんて恥ずかしい、裏に人がいるのにと思ったとき。


「もーっと、がんばらなきゃなぁ!」

「…………は?」

 驚いて俺はベンチから勢いよく腰を上げた。幻聴か? いや落ち着け。いくらなんでも……それはない。暑さで脳みそがやられた可能性がある。

 とにかく心を落ち着けるために、もう一度腰を下ろした。靴の底がコンクリと無駄にに擦れてじゃりっと言った。わざとじゃりじゃり鳴らした。


 足音が近づいてきた。裏にいた荷物の持ち主だろう。俺は照れから足を伸ばして古びてけばついた柱の奥から女の白い足首が見えてハッとした。既視感に俯いていた顔を上げた。

 目が合った。

「……もうバス来るぞ」

 俺は何を言ってんだ。

 シミュレートの甘さに自分に舌打ちしたい気分だった。そして清子さんの計略にかかったと頭を抱えかける。もっと感動的な再会の仕方があっただろ!

 むくれた顔になってる自覚がさらに羞恥を加速させる。

 あぁやっぱり俺は紗世が好きなんだ、クソ野郎だな。


 紗世が呆然と俺を見る。風がまた吹いた。まるで夜明けの空みたいな色のスカートが軽やかに揺れた。

「たす、く」

 紗世が俺の名前を呼んだ。


(了)

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