祐 ~二十二歳、冬(前)
俺は、一時帰国した日本で紗世に会うことはなかった。
勢いで乗りこんだ紗世の通うK大のキャンパスは、ちょうど昼時で人でごった返していた。薄曇りの枯れかけた銀杏が寒々しい日だった。望さんみたいに困ったらスーツ、みたいな服がない俺は、ロンTとデニムの日本でも普通すぎる恰好のはずだったけど、なぜかまったく馴染めていなかった。それどころか、通りすがる奴らがなぜか視線を寄越すたびに気分が悪くなっていく。
連絡先も知らずに来るところじゃなかった。
空港や駅より開放的な野外のはずなのに、妙に空間が狭苦しく感じる。リヨンのアパートが懐かしく思えてきてカラ笑いが出た。望さんとは空港で別れ、四日後のフライトに間に合うようにそれぞれ行動することになっていた。
二十二にもなって心細いのかよ。
そのまま進学してたら三年――紗世も三年生。
だけど暢気そうで頭の良さそうな連中には、何時間そこにいても溶けこめる気がしなくて並ぶ箱みたいな三階建てや中庭、人のいない裏道をぐるっと回って入ってきた正門から出た。
こわくなった。
知らない誰かに笑いかけたり仲良さそうにしてたりすることがじゃない。
もう三年も経っていた。
おれの知らない紗世に会うことが、なによりもこわかったんだ。
ノンプランだったのがさらにどうしようもなくなって、俺は半日かけて実家に帰ることにした。スマホで新幹線を調べて表示された通りに動くだけの時間は記憶も曖昧だ、それに色がつき始めたのは、県内に入って学校に通うために使っていた路線を確かめたときだった。
よく知る湿度と匂いに、俺の心臓はなぜか逸った。見知った制服や駅のホームが角の丸い窓の外で過ぎ去っていくのを飽きもせずに眺めた。
商店街行きの終バスは半分が高校生で、俺はついその黒とか紺の背中のなかに紗世を探して自分のキモさに目を閉じた。仕方ないだろ、登校した日はそうだったんだからと内心で言い訳してもいま思えば犯罪でしかなかった。
さすがに集落行きのバスはなくて、タクシーを拾った。揺られながら古いガードレールの切れ目を数える間、紗世を病院に迎えに行った夜を思い出した。
「ただいま……」
むうと閉めきった久しぶりの家に、俺はしばらく玄関に突っ立ったままでいた。親父の車がないのは確認してあった。鍵も勝手に開けた。夜だから明かりのない家の中は真っ暗だった。でも、
「……入ります」
そう宣言してからも玄関戸を跨げない罪悪感のような重苦しさで足が前に出なかった。
「線香だけ、上げたいから」
ただいま。もう一回言って中に入った。框を踏んでハイキングブーツを揃えて客間から仏間に抜けようとしてやめた。キィ、と茶の間に続く戸を開けた。
当たり前だけど誰もいない茶の間は静かで、だけど何ひとつ変わらない景色のままそこにあった。俺は電気を点けて、ちょっとちかちかする蛍光灯が隅々まで照らすまでやっぱりじっとしていた。
……親父、意外にきれいにしてるな。
テーブル脇には何日か分の新聞が積まれてるものの、床もテーブル上も余計なものは置かれていない。台所もそっと覗くと、ゴミが溜まってる様子もなく、シンクには茶碗と箸が洗い桶に置かれていてちゃんと生活してるのが見てとれた。
つい冷蔵庫を開けようとしかけてやめる、長居するつもりはない。
台所に居られないなら自分の部屋かばあちゃんの部屋か。自分の部屋になんて用事はなくてばあちゃんの部屋に行こうと思う。
「……いまになって紗世の気持ちが分かんのか」
足が重い。死んだんだ、いるわけないんだから意味なんかないはず。
だけど行かなきゃいけない気がして気の向かないまま部屋にたどり着いた。「ばあちゃん、入る」襖戸を開けると、空っぽのベッドがあった。
畳の部屋に合わない白い骨組みの白いマットレスの介護用ベッドは、当たり前だけどシーツも敷かれていない。薄ら埃さえ積もっている。窓障子もここのところ開けた様子はない。相変わらず寒い部屋だな、ストーブ置かないと風邪ひきそうだ。
俺は戸に手をかけたまま、そんなことを思った。
首を巡らした。広く感じる部屋の中は、ばあちゃんが居ないだけで他は何も変わってない。いいや匂いが違った、換気しても鼻についた病人の匂いは消えていた。
仏間にも行った。飾ってある写真は微妙に若いときので、真新しい座布団の上には座る気になれなくて困った。
なんのためにここまできたんだよ。仏壇の前で突っ立った。目だけは忙しなくそこらを観察しながら。
それでどうしても、ろうそくに火さえ点けられなくてようやく分かった。俺はまだよく分かってなかった。
もう、この世のどこにも、ばあちゃんは居ない。
俺の居場所もどこにもない。
*
実家に近い隣市のビジネスホテルは清潔そうで、とりあえずは安心してシャワーを浴びた。真っ白で薄っぺらなバスマットが足裏に張りついてぺらっぺらの使い捨てスリッパに指が入らなくて苛立ったほかは特に問題なかった。
それに住空間なのに無機物な印象のシングルルームはぼんやりするのにちょうどよかった。
でも、情けなくも望さんに連絡をしたのはその日のうちだった。
「Hi」
「あ……望さん、俺……」
「On chatte. 《チャットで》」
「は、Oui《ウィ》」
するとすぐ携帯番号が送られてきて、「ここに電話してみて」とメッセージがきた。
きっと清子さんといるから文字に切り替えたんだろう。話し相手が
誰のだろう、親父のじゃない。なら、清子さん? いや、そうなら今日まで隠す必要はない。
おれはその番号が記憶の紗世のものでないと確認してからタップした。あとから後悔すると知らないで。
制服姿か草取り姿しか見たことがなかった紗世の友人――佐藤
長かった髪は肩まで短くなり、水色のインナーカラーを揺らして濃いグレーのリクルートスーツで現れた。そして開口一番、
「まさか紗世に会わせろとか、言わないよね」
と俺を睨みつけた。
なんだこいつ。
初対面から藍衣に対する印象は変わらない。常にイラついてる犬みたいな奴。
「会うつもりはねぇよ。……まだ」
尻尾巻いて逃げたことは隠したのに、相変わらず察しがいい佐藤は「あぁ、まだ『マトモ』ってやつになれてないんだね」と黒の四角いビジネスバックを椅子にガツッと置いた。雑な仕草で向かいに腰かけた。
待ち合わせたのは高校近くの駅、商店街行きのバスが出るバスロータリが見える駅ビルのカフェ。前はただの待合室だったのが最近新しくオープンしたらしい、それなりに混んでいた。
おれが驚きで声を出しかねていると、
「もちろん、あんたからのクッソ女々しいラブレターは既読だから。最ッ悪な自己愛レターで紗世が立ち直るのにどれだけ泣いたか、その空っぽそうな脳みそに理解できるまで捻じりこんでやりたいって思ってた。機会があって泣くほど嬉しいよ」
と剣呑に目を細めた。
「今日は望さんに免じてあんたを殴らないであげるけど。正直、視界に収めてるだけでも頭に血が上りそう」
どうやら随分この女を美化して記憶していたらしい。そうだ、物言いはいつも生意気で紗世の友だちでなければ絶対に関わり合いたくない相手だったと思い出す。
友だち? 知るかよ。なんでこいつに、ここまで言われなきゃなんねえんだ。
「そりゃ悪かったな。おれもお前と話す気はねぇよ」
いや少しはあった、でももうない。
おれはなにも置かれていない席から立ちあがった。椅子が床を擦る引き攣ったような音はざわめきの中でもよく響いた。
「待ちなさいよ」
待つかよ。バックパックを引っ張りあげる。
「あんた、望さんのところに転がりこんでるって? 清子さんには内緒で」
「……」
「望さんとこそこそしてたのが知られたら、どうなるか。今すぐバラそうか」
藍衣がスマホをこっちにかざした。野上清子の文字に内臓が一瞬で縮んだ心地になる。そうだ、こいつ清子さんとやけに気が合うって聞いた気がする。
「いいかい祐くん。清子にだけは絶対バレちゃだめだよ」「下手すると君を雇っていられなくなる……気がする」フライト中、そう言った望さんは珍しく弱り顔で、おれたちは時間差で搭乗口から出た。彼女がサプライズで迎えに来ていたら一巻の終わりだからと。
……こいつ。
脅すつもりかと睨み返すと、ふっと憎たらしい笑い方をして、
「立ったついでに奢りなさいよ。カプチーノホットね」
と、佐藤が言った。
「誰が」
「ケーキセットBも」
俺はバックパックを椅子に放り投げてレジに並んだ。
ほぼ無言でケーキセットBを平げたあと、佐藤は「じゃあついてきて」と薄っぺらいトレーに、とっくに空になっていた俺の飲んだアイスコーヒーのグラスを乗せた。さっさと立ち上がると返却し、早く来いとばかりに振り返った。
「どこ行くってんだ」
「まずはあんたの家」
「は? なんで」
「なんでもクソもない。頼まれてなきゃ声も聞きたくないのに」
なにを、と尋ねようとして口を噤んだ。「もしもし、ノリ?」佐藤は三歩先でスマホを耳に当てた。
「ごめん、用ができて帰れなくなったから夕食ひとりで……あぁうん……何時になるか分かんないから一応兄さんに泊まってもらいな。何言ってんの、母さん遅番でしょ危なっ……あんのクソ弟」
どうやら話途中で切られたようで間髪入れず今度は兄に電話し始める。
そこまで聞くと自分がどれだけ佐藤の予定を狂わせているのか理解できてしまい、俺は大人しく黒い軽自動車の助手席に乗り込んだ。
またしても親父の車がないことにホッとしていると、佐藤が「辰さんなら清子さんたちと合流して明日までいないって」と事もなげに言った。
「……それ、いつ聞いたんだ」
「最初にあんたのアシになれって言われたのはひと月前。今日って聞いたのは先週」
佐藤は驚きで固まった俺に、玄関を開けろと顎をしゃくった。「ハイお邪魔します」つかつかと入った佐藤がパンプスの先を揃え、迷いなく客間の障子を開け放って仏間に向かうのを俺は慌てて追いかけた。
「おい」なんでそんなに慣れてんだ。昨日は入らなかった客間、奥間を通り抜けると佐藤はすでに座布団に正座して線香に火を点けていた。
「ほら、あんたも」
「……」
当然のように促され、俺は佐藤から線香を受け取った。じ、と橙色の火先が緑に燃え移るのを待った。息を止めていたからか、ひと息くらいだったようにも十分経ったようにも思いながら香炉に立てた。冷え切った部屋のはずなのになぜか汗をかいていた。
佐藤がカンカンと鐘を鳴らした。だから俺は手を合わせた。音の響きが小さくなっていくのを手を合わせたまま聴いた。俺自身も遠ざかっていくような感覚にぼんやりしていた。
「宮子さん。せっかく来たとこ悪いけど今日はもう行くね」
佐藤がパッと手でろうそくの火を払った。火が消えて立ち昇る煙が白くくゆった。
「次はこっち」
「おい……なんでお前がばあちゃんの部屋なんか」
前を歩く佐藤のインナーカラーの青が見えたと思った途端、俺は勢いよく胸を突き飛ばされた。
「あんたってホントおめでたい。自分がどれだけ失踪してたか分かってないの? 誰が宮子さんのお葬式手伝ったと思ってんの、告別式に何人来たか知ってんの? 部屋くらい目ぇつぶってでも行けるわ、私にイキんな」
見上げられておるはずなのに、俺は自分がだんだん小さくなっていくように感じて知らず震えた。
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