祐 ~滞在前夜
29話のあと、紗世が祐の家に再び滞在することになったころ
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ばあちゃんの姿勢を変えて、穏やかな寝息を確認する。
昼は部屋の片付けをして、さっき茶の間も掃除した。親父は今日と明日が夜勤で、晩飯中はテレビをつけっぱなしにしてなんとか乗り切った。
「はー。落ち着かねぇ」
俺の独り言にばあちゃんが反応した。耳を澄ませていないと分からないくらいの息の乱れ、毎晩聞いてるから分かるかすかな反応。俺は足音を忍ばせて戸を閉めた。
今日はいくらでも恨み言を言えそうだ。
まだ九時前でたぶん紗世も起きてる。でもきっと、電話は寄越さない。
そう思うと茶の間にいる気にならなくてやっぱり部屋にいようと階段を上る。いつもならシャワーを浴びて茶の間でダラダラする時間。
「まじであいつ俺のことナメてる」
知らず声が低くなる。危機管理がなさすぎるあいつにこれまでどれだけ我慢してきたか分からない。目の前にいなくても独り言になっちまうくらいには。
まさか紗世からキスされるなんて。
カッと血が上って壁を殴りつける。こうして不意に浮かぶ映像のせいで最近そこかしこの壁があやしくなってきている。
親父がいたら怒鳴られてたと頭の隅で思い、同時に一服拝借して気持ちを鎮める名案が浮かんだ。
白い煙がやけに長く上って、今夜は風がないんだと気づく。
『ふしだら』なのは紗世じゃない、出ていった母さんだ。
ばあちゃんは、親父を裏切った母さんのことを憎んで悔やんで、でも嫌いになれないままボケた。紗世は完全な被害者。なのにぶっ壊れかけてた家に同情できるんだから、あいつも大概おかしい。もちろんあいつを好きな俺も。
外は月がないのか真っ暗だった。ライターの火が真っ直ぐ伸びてタバコを炙る。吸う、煙が肺に届く。
もう夜だけなら秋――もうすぐ彼岸。紗世と別れる日。
紗世、と口に出してみる。
なぁ、と呼ぶ。
「うん」と聞こえた気がしてあいつの家の方を見た。
「紗世」
ばあちゃん、ふしだらなのは俺だよ。
夜になると紗世に会いたくて堪らない。
それは純粋な恋心とかきれいなモンじゃない。俺のせいで一生隠すつもりでいるあの脚を無理やり暴きたい、泣いても喚いても嫌がられても酷く触れたい――。
でもその反面、誰にも俺にも触らせないまま隠し続けてくれとも思う。俺にさえ触れられちゃだめだって。
紗世の肌の感触が手のひらに戻る、最近はどこでだってこうなるから困る。居ても立っても居られずに俺はタバコを噛む。
俺のハーパンを着た紗世も、俺の手で薄い腹をなぞりあげたときの声も、俺が縋りつくと甘やかす手も、冷たいシャワーで濡れる制服を脱がせたときの白くて細い体も全部が俺をふしだらにする。違う、紗世のせいにするな俺がそうなんだ。母さんの息子だから。
「戻りてぇなぁ」
白いワンピースを着た紗世が見たい。なんの衒いもなく俺の隣に並んでマリカーをする、あの瞬間に戻りたい。そうしたら俺は……。
ふー、と最後の息を吐き出した。
明日から紗世が泊まりに来る。タバコは部屋に仕舞っておこう。欲望やタールで濁った胸はひた隠しして、せめて一瞬でもきれいな自分を紗世に見せたい。
すり減ったサンダルが情けない音を出した。ぺったん、家に戻る。
少し風が吹いて、タバコの匂に草の匂いが混ざる。庭にまた草が伸びてきたせいだ。
「はぁしんど」
行き場がない。
ばあちゃんがボケて家がぐちゃぐちゃのときみたいだ。あのときは一日中ばあちゃんのことばっかりで、でも家から出られなくて病んだ。今は代わりに紗世のことばっかりだ。これ以上衝動性に駆られて触れてしまえば、離れられなくなっちまう。
玄関の錠を下ろして部屋に戻りかけ、すぐの障子を開けた。
あいつが何度か泊まった客間をのぞく。もしかしたらあいつの欠片でも残っているかもと思うのだから、俺はやっぱり狂ってる。
物干しを置いてやろうと思う。それに制服用のハンガーも。
――でもあいつが自分から俺に触れてきたら?
ガコッ! 障子を蹴った。戸が半端に外れた。
あり得ない。この前のアレは、たぶん気まぐれだ。女はそういうところがあるって知ってるだろ。違う、紗世はそんなことはしない、でも。
頭に血が上って、もう一度だけ蹴った。
あぁバカだ、俺はもうバカになっちまってる。
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