第7話 痛み

7-1 痛み


 引っぱたかれている。グーでなく手のひらで引っぱたくのはこのひとにまだやさしさが幾分のこされているからだろうかとすこしばかりポジティブに考えながら私は二発目でたおれて床に叩きつけられる。この期に及んで頭が男を擁護しようとしてしまうのは私の心の甘さでたぶん正しくないんだろう。


 叩きつけられながら安っぽい床だなと思う。木目プリントの、フローリングのふりした塩ビの床だ。おかげで衝撃がやわらかい。それでも打ちどころが悪かったのか、口のなかに血の味がにじむ。なつかしい味だ。


 ところで彼がどうして引っぱたくのかというと、私がほかの男のをくわえて舐めてあげるのが気に喰わないんだそうだ。なに言ってんだと思う。私がこんな女だと最初から分かっててこいつは部屋に転がりこんできたのだし、そもそもの始まりはあんただってそんな大勢のお客のなかのひとりに過ぎなかったんだし。


 風俗やってる女に岡惚れする男なんてのにろくなのはいない。といっても私の経験値はぜんぜん低くてn数たったの2なんだけど。前の男は暴力はふるわなかった代わりに、たいした稼ぎもないくせ私に貢ぐため闇バイトに手を染め最後は逃げた。なにから逃げようとしたのかは知らない。いま無事なのかも知らないしべつに知りたくもないけど、死んでなけりゃいいなとは思ってる。


 そういやこないだ話したはカレがホストだとかで、そいつがほんとに彼女をカノジョ認定しているのか怪しいぞって私は疑ってしまうけどご当人は幸せらしい。彼女が毎日いろんな男のを舐めまくって稼いだお金はごっそりぜんぶカレが持っていくんだそうだ。でも手を上げることはけっしてなくて、それどころかいつもお姫さまみたいな扱いをしてくれるんだとうっとりした目で言っていた。これなんかも岡惚れの一種で私のとは男女逆転してるよなってのはさておきどうせろくな結末を迎えないだろうという点では変わりない。それでもその日がくるまではいい夢を見ればいい。自分を好きな男と一緒になるより、自分が好きな男と一緒になる方が幸せなのだとだれかが言っていた。そうなのかもしれないしそんなの人それぞれなのかもしれない、いずれにせよ私にはどっちだっていいことだ。


 幸せは私の手のひらからこぼれ落ちてしまった。永遠に。だからもう戻ってはこない。戻ってきたところで私は蹴っとばすし。床にうずくまった私のおなかを彼が蹴っている。


「ゆるして」


 つい唇からもれた言葉を耳にして男は蹴るのを止めた。彼に向け許しを請うたのではなかったんだけれど。酒が入ってふらふらしている足で蹴られたところで、蹴られ慣れてる私にたいして効きはしないし。


 そんなことまったく勘づかないで、溜飲をさげたらしい彼はいつものように私のバッグをまさぐり、たいして残っていないお札をぜんぶ掴むと出ていった。その金で好きでもない酒を無理してまだ飲むつもりなんだろう。ついでに女を買うかもしれない、どうせぐでんぐでんで勃ちもしないくせに。


 父さんもお酒は強くなかった。週末だけ母さんにつきあってビールを一杯飲むのだが、たった一杯でかんたんに顔をまっかにしていた。三杯ぐらいはけろりと飲んでしまう母さんの方がかえって平気な顔をしていた。でもわるい酔い方ではなかったと思う。ちょっと説教が長くなるくらいで。


 その説教だって、心から私のことを思っていたからなんだって今ならわかる。そのときだってほんとうはわかっていた。わかっていて耳をふさいだ。


 さいごの説教は高校三年の夏だった。予備校の夏期講習のほとんどをサボって恋人の家に入り浸っていたのがバレたときのことだ。勉強は一応しているんだし、と私は自分で自分に言い訳して、予備校講師のバイトをしている彼の部屋で怠惰な恋にあまくとろけきっていた。そんな私のせっかく幸福なきもちを一気に冷ました父さんの説教は私の心にまるで響かなかった。


「うっさい」


 私は説教をとちゅうでさえぎった。父さんが眉をしかめるのが分かった。


「どうせ私は優秀じゃないし。私は父さんとはちがう、母さんともちがう、勉強したってむだよ。ヘンに期待しないでよ。私はどうせ――」


 そのあと私が言った言葉を聞いて、父さんは私をぶったのだった。発作的に。


 自分の口走ったセリフがこうまで父さんに衝撃を与えたことに私はたじろいだ。もちろんぐさりと言葉で刺してやるつもりで口にしたのだけれどその効果は期待していたよりはるかに手ひどく父さんを打ちのめしたようだ。ぶたれた側の私の痛みはといえば、こちらも相当手ひどくて私の頬はしばらくあかく腫れあがっていた。その感触はいまでも私の記憶にたいせつにしまいこまれている。


 初めて父さんにぶたれた私は信じられない思いで父さんの顔を見た。父さんの顔は蒼白になっていた。信じられないという点では父さんの方がよほど自分の行動を信じられなかったんだろう、だからあんなに血の気がひいた顔になったんだろうと思う。父さんは唇をふるわすばかりで声を出すことができないでいた。


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