第7話 磯貝先輩と先方へ出向くことになった
うろうろと、しんと静まり返った、水面の中のように息苦しい室内で、見つけたくない相手を探す。
「課長」
「後にしてくれ! こっちは忙しいんだ! 見て分からんか」
「すいません」
メールチェックを求める僕を意図的に避けるように、今の今までだらだらとゴルフ用品を映し出していたPC画面を慌てて、取引先のページへと移し受話器を取る。あまりの露骨さに呆れを覚えるぞ、ガマガエル。
仕方がない、少し待とう。その間に、仕事の振りをするようにカチャカチャと、白い余白の大海にマウスカーソルを彷徨わせ、カチカチと言わせるか。
「どこを変えようとしてるの?」
「ひっ!?」
突然、磯貝先輩の声が僕の奇行に針を刺す。「ビビりすぎでしょ」と下田がせせら笑い、印刷室へと向かう。
「あ、ええと。磯貝先輩。課長に見せるので、大丈夫です。お、お忙しいと思いますので」
「別にいいじゃん、秒で終わることでしょ」
彼女がじろじろと画面を見る。課長もそうだが、僕の書いた文章の大半を彼らは変更してしまう。その度に僕は、まるで賀来絵空の存在そのものを否定された気分になるのだ。それを知ってか知らずか、彼らはピアノを演奏するように軽やかに改変してくる。
しかし、今回は少し違った。
「ふうん、いいんじゃない?」
「え」
「でも、ちょっと甘い。こことここだけね、ちょっと分かりにくい。何が主題なのかをはっきりさせるために、こうやって…」
カタカタとタップする二組の五指。
「賀来君さ」
「は、はい」
「優しすぎるから、いろいろと」
「すいません」
平謝りに溜息をつかれるたび身震いしてしまう。それなのに、どうしてか今回は、一種の温かみのようなものを覚えた。
その直感は、錯覚だろうか。
「あんまり優しくし過ぎると相手が調子に乗るから、気を付けてね」
そうだよな、先方にナメられることはよく分かっていた。でも、醜く争うくらいなら下に見られた方がマシだし、無理そうなら他の一件を探せばいい。
いつものように、そういう意味で指摘したはずだろうに、今日の磯貝先輩は、どこかそわそわと落ち着きがないような気がした。ゆうべ、何かお気に召さないことをしただろうか。だから、怒りに震えている。先輩のプライドを傷つけた? 分からなくて、今日もまた恐怖の絶頂だ。ああ、便所に逃げたい。
「おい賀来!」
ガマガエルが吠えた。
「は、はい」
びっくりした。
「ちょうど一年前か、お前が契約したパン屋があったよな?」
「はい…、そうですが…」
忘れもしない、ポンコツ社員である僕が、生まれて初めて獲得した一件。バイト雑誌に掲載させてほしいと、個人経営のパン屋の玄関前で土下座して、ようやく獲得した一件。体育会系らしく日焼けしたガタイのいい店主の首を、どうにかして縦に振らせた、あの一件。その間に同期が何件も獲得したのに、僕は諦めきれなかったあの非効率な一件。
僕にとっては大切な思い出で、これからの希望を与えてくれた一件。
脂ぎった顔が、不気味に歪んだのを目にし、嫌な予感がした。
「あそこの店、経営難で畳むみたいだ」
「え」
初耳だった。
「そして、俺が今電話した大手コンビニチェーンの役員が、どうやらあの土地から立ち退いた後、店舗を設置したいと申し出たらしい」
不敵な笑みだった。このゲス顔を何度も僕の作品である『スカーフル~東京帝国紀行~』に登場させ、主人公のニシキ=エソラにその首を何度も斬らせた。
「言ってる意味、バカでも分かるよな、賀来」
「は、はい…」
ニシキ=エソラとは違って、首を斬ることは愚か、しらを切ることすらできない僕は、本当に無力だった。
「細かいことを考えず、情だけで判断するヤンキー店主だ。お前がもう一回泣き落としすれば言うこと聞くだろ」
「そ、そうですね、あはは」
笑ってしまう自分が情けない。店主の麦田さんがこの顔を見たらガッカリするだろうな。
「とはいっても、お前だけでは確実性がない。立ち退かせた後、社長の息子さんが店長をすることになるからな。確実に勝ち取りたいのだよ」
ぎょろぎょろと、オーク族似のガマガエル人間が目を動かし、誰を食べようかと選ぶように雑菌まみれの舌で唇をチロチロと舐め回しながら、その目は僕の隣へと行きついた。
「磯貝、お前が面倒を見てやれ」
「…はい」
さっきまでの柔和なオーラは消え去り、先々の苛烈な戦争を想像する剣士のような顔つきになった。
『スカーフル』のヒロイン、赤髪の剣士レイナをモチーフにしただけはある。
親心にも似た微笑ましさが、場違いにも身体をくすぐったが、またこの人と一緒なのかと思うと、全身に鳥肌が立った。
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