星霜に棲むという覚悟 望郷編

鶴海蒼悠

第1話 時空を超えた夜 1973年6月29日 未明 



 ほのかに漂う匂いは何処かで嗅いだことのある香りだった。それが鼻をかすめる度に、深い闇の中に沈んでいた感覚と意識が刺激された......やがて僕は覚醒すると、ゆっくりベッドから起き上がった。


 此処はどこだろう? 常夜灯が見慣れない部屋をぼんやりと映し出している。古風なデザインの机と椅子が置かれているだけの狭い部屋は、人の気配がない。でも、先ほどまで此処にいた人物の残像が見えたような――そう、ここにはまだ人の息づかいと、ぬくもりが漂っている。寝ているうちに犯罪に巻き込まれた? それとも想像を超える何かが起きたのだろうか? いずれにしても此処は僕の部屋ではない。


 ベッドから椅子に移ると、壁に付けられたスイッチのひとつを押した。明るくなった部屋の書棚には、参考書や問題集が整然と並んでいる。机の後ろを振り返ればドアがある。そこから誰かが入って来るかもしれない――とたんに不安が頭をよぎった。


 昨日といえば、週明けの仕事に向けて夜遅くまでレポートを作成していた。それからベッドにもぐり込んで落ちるように眠った。眠りについたのは24時を少し回った頃だったと思う――『どうやって此処に来たのだろう? 記憶を検索しても、なぜか答えは見つからない。なんて厄介なことに巻き込まれたんだ』僕はこの奇妙で理不尽な状況に為す術もなく、ため息混じりに椅子の背に深く身を預けた。





 右横の窓に目をやった。 カーテンの隙間には暗闇が広がって何も見えない...夜明けまではまだ遠いように思える。カーテン越しの外からは雨音が聞こえてくる。そっとカーテンを引いてみた。漆黒の空から落ちてくる雨粒が、部屋の明かりにキラキラと反射している。 雨は小さな銀の矢となって、ぽたぽたと地面を叩く。


 雨音以外に何か聞こえないかと窓を開けてみたが、耳に届くものは何もなかった。 それよりも、湿気を含んだ空気がまとわりつき、息苦しさを覚える。 外気が部屋に入り込まないよう、窓を閉めた。 後ろのドアを振り返っても、部屋の住人が戻ってくる気配はない。机に視線を落とすと、小さな卓上カレンダーが目に入った。 そのマンスリーカレンダーには、大きく「1973」、そして少し小さく「6」と印字されている。 1から28までのマス目には手書きのレ点があり、29にはチェックがない。


――ということは、今日は1973年6月29日……?


数字は僕の不安を膨らませ、動揺を誘った。「時空間移動をした? だとすれば、どんな方法で時間旅行をしたのだろう――」 先ほどまでの平静は、一瞬にして吹き飛んだ。気が遠くなっていく感覚に襲われたその時、「冷静になれ!」という声が頭の中で響き、僕を現実へと引き戻してくれた。


 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して呼吸を整える。 繰り返すうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。 それにしても、カレンダーの数字が気になって仕方がない。 何度も見つめているうちに、僕の頭の中は、いつのまにか「1973」という数字だけで埋め尽くされていた。


 どれほどの時間が経ったのだろう。 棚の隅に置かれた小さな置時計に手を伸ばすと、針は3時40分を指していた――我に返り、今宵の出来事を静かにたどった。


『僕は、数時間前まで2043年にいた。 ここが1973年だとしたら、70年前に戻ったことになる。 タイムスリップをしたのだろうか? いや、そうではない。 この部屋にはタイムマシンや、それに類する物理的な装置は見当たらない。 乗り物を使って人が移動するような、いわゆるタイムスリップやタイムワープではなさそうだ――』





 しばらく部屋の中を見回していると、時間移動の方法が意外なほど簡単に見つかった。 壁に立てかけられた大きめの鏡に気づいたからだ。その鏡に映った自分の姿を見た瞬間、背筋が凍る思いがした。けれど、それは同時に、最も知りたかった答えでもあった。 なぜなら、鏡には見知らぬ少年の姿が映っていたのだから……。


やはり、タイムスリップやタイムワープではなかった。意識だけが時空を飛び越えて、過去の自分に入り込むという“タイムリープ”だ。しかも、僕は自分ではなく、他人の体に意識がある。こんなことがあるのだろうか? 僕は『意識スライド』という現象を思い出していた。 詳しい仕組みは知らないけれど、量子理論では意識を他人に入り込ませることが可能だという。


 この部屋の住人――すなわち鏡に映った少年と鉢合わせする心配は、これでなくなった。 そうだとしても、問題が解決したわけではない。こうしている間にも、時計の針は刻々と進んでいる。


『そこにあるドアを開けなければならない朝は、やがてやってくる。そうなれば、僕は少年の家族と顔を合わせることになる。間違っても、家族に疑念を抱かせてはいけない。 ドアを開く時までに、できる限りの情報を集めるんだ。とにかく急げ! 時間に猶予はない!!』


 焦った僕は、机の引き出し、書棚の奥、クローゼット、部屋の隅々まで―― ヒントになりそうなものを探し回った。 ここに来たからには、何としても突破しなければならない難題。 この世界で生きていくための、最初の試練だ。 そして、超えるべきいくつものハードルが、この先に待ち構えている。 全神経を集中するんだ!!

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