第2話

 母の明子は私が八歳のときに家を出た。私はそれを見送った。玄関で出かけようとしていた母の背中に私は問いかけた。


「どこ行くの? 買い物なら一緒に行く」

「違うわよ。お父さんを迎えに行くの。傘、持ってないから」


 母は脱いだエプロンを畳んで、玄関の靴入れの上に置いた。母は普段着だった。降り出した雨の勢いは強く、玄関の中まで雨音が響いていた。


「じゃ、行ってくるね」


 母は一瞬、私の顔をじっと見た。そして、足早に玄関を出ていった。

 私の中に違和感が残った。母が一瞬私を凝視したから? それもある。でも、それだけじゃなかった。何かがおかしいと思ったが、その「何か」がわからない。それはとれない魚の骨のように陽子をちくちく責めた。


 帰ってきた父の姿を見て、陽子はその「何か」がわかった。母は傘を一本しか持ってなかった。自分の傘だけしか。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 父は濡れた黒い傘を傘入れにたてた。雨がまだ強いのだろう。足下が濡れていた。


「お母さんは?」

 父は首を傾げている。


「お父さんに傘を持っていくって、さっき駅に」

「そうか」


 父は部屋着に着替えると、食事を作り始めた。そして、食卓に並べると、陽子に勧めた。


「でも、お母さんは?」

「食べなさい。お父さんの作ったものも美味しいぞ」


 父は笑って、そう言った。父は笑ってはいたが、有無を言わせぬ雰囲気があった。

 陽子は黙って父の作ったものを食べた。それは父の言う通り、美味しかった。


 父は感づいていたのだろう、母と外の男のことを。それから父との二人暮らしがはじまった。

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