9.透明

 「私と食事?」


甘理あまりが意外そうに言ったのは、翌日の休憩時間のことだった。

午前中の作業段階で、何となく明斗あきとが落ち着かない表情だった理由に納得したらしいモデルはニヤっと笑った。


「デートのお誘い?」

「ち、違います」


明斗は慌てて振る手を茶碗にぶつけそうになりながら、取って付けるみたいに答えた。


「祝賀会みたいなもので……ヒットした後、甘理さんにそれらしいお礼をしていなかったなと思って」


昨夜聞いた「ヘタレ」の言葉が頭に浮かんだが、甘理は笑わない様に首を振った。


「気を遣わなくていいのに。お給料は貰ってるんだし」

南美子なみこさんには今頃言うなんて気が利かないって言われました」


本当に言われたらしく、申し訳なさそうな調子の男に甘理はぷっと吹き出して頷いた。


「私が断ったら、ミントくんが気の利かない男のままになっちゃうわけか」

「そうです。俺の汚名返上の為にもお願いします」

「そこまで言われたら断れない。何食べに行く?」

「何でもいいですよ」


甘理は腕組みして唸った。祝賀会のイメージから、焼き肉、お寿司、イタリアンなどを思い浮かべてから、首を捻る。


「そういえば……ミントくんて、アイス以外のチョコミントも好きなの?」

「お菓子とかですか。うーん……実はアイスも市販以外はそんなに食べたことないんですよ。ああいうのを扱うお店って、女性が多いじゃないですか」

「そう? オジサンが居ても、『おお、センパイの同志が居る』って思うだけだよ」

「確かにそうですが、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいです」

「カノジョ居たことあるんでしょ? 一緒に行かなかったの?」

「そこがチョコミント好きの生き辛さですね。例えば、ダブルでアイスを食べるじゃないですか。大抵、彼女は選びきれない味をシェアしたいって言うんです。でも、チョコミントは食べたくないって言われてしまう。歯磨き粉なんて言われたらショックですし」

「おお、同志の悲しみがわかるね」


苦笑し合うと、甘理は頷いた。


「よろしい。せっかくだから、同志を美味しいチョコミントを巡る旅にお連れしましょう」

「おかしいなあ、俺が御馳走する側に聞こえない」


何故か納得のいかない顔になる明斗だが、反対する気はない様子で頷いた。そんなつもりはなかったのだが、週末にいわゆる『映える』スイーツを巡ることになった。


「なんだか、若い人みたいですね」

「ミント色でも着て行く?」


勘弁して下さいと言ったところで、南美子が帰って来た。


「ただいま~……」

『おかえりなさーい』

「いやねえ、合唱しないでよ。大きい子供が二人居るみたい」


あからさまに嫌そうにした南美子が椅子に座ると、大きい子供たちはいそいそとお茶を淹れたり、荷物を受け取ったりと甲斐甲斐しく動き回った。


「フーン、チョコミント巡りねえ……」


若いわねと言いつつ、反対はしない南美子は茶を啜った。


「週末じゃ、コラボが始まる辺りね?」

「それを食べに行くのは目立ちますよ」

「私なんて共食いみたい」


えげつない表現に作者とマネージャーが変なものを呑んだ顔になると、モデルはにこりと笑って言った。


「ミント先生は恥ずかしそうだけど、行ってみたいと思ってましたよ。南美子さんもタッチしてるなら、味は間違いないでしょう?」

「作ったのはプロだから、ちゃんと美味しいわよ。見た目は小娘たちが写真映え狙いすぎてギトギトしてるけど」


おみに劣らず歯に衣着せぬ南美子にたじろぐ明斗をよそに、甘理は面白そうに含み笑いをした。


「行ってみない?」

「えぇ……本当に?」


確かに単独で見に行くよりは行きやすいが、知り合いに遭遇したら二重の意味で気まずい。デートではないと聞いたからか、甘理は呑気な調子で南美子に振り返る。


「南美子さんも行きません?」

「私はパス。あんた達ほどチョコミント好きじゃないし、挨拶で行くので充分。……いいじゃない、コッソリ行くぐらいが丁度いいわよ。現場はスイーツ側の人間ばっかだし、ああいうトコじゃ、絵描きなんて透明人間みたいなもんだもの」


マネージャーとしてはなかなか豪快なことを言う南美子に呆れつつも、その方が気楽だと思ってしまうのがどうにも弱い。今日も整える気など“からきし”のくせっ毛を掻きつつ、明斗はしぶしぶ頷いた。


いてたら、ですよ。並ぶのは恥ずかしいので」


無駄な断わりを入れる芸術家に女たちは弟でも見るような笑みを浮かべた。


「わかってると思うけど、注意は忘れないでね。脅迫状の件は解決したわけじゃないんだし、関係者はコラボに乗じた事件が起きないか不安視してるんだから」


すかさず釘を刺す南美子に、そういえばそうでした、という顔をしながら二人は頷いた。本当に半ば忘れていた話だが、まあ仕方がない。


〈描くのをやめなければ、レディ・ミントを殺す〉


この具体性のないパワーワードを放って以来、犯人は音沙汰ないのである。

買い手が付いて納品された『レディ・ミント』たちも、展示されたものを含めて、被害報告や事件は起きていない為、只の愉快犯か、嫉妬による憂さ晴らしだったのでは、という見方が強まっている。

もちろん、良い気分はしない。


……何処かで、姿の見えない誰かが一度、そう思ったことは間違いないのだ。




「……玉城たまきさん、お電話です」


電話を片手に言ったアシスタントの尾川志帆おがわ しほは、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。遠慮がちな声掛けに、玉城は気怠い顔を向けた。


「誰?」

「それが……晃生こうせいさんの――……」

「あー……そうか。ほいほい……」


気楽な調子で子機を受け取ったが、玉城の顔は名前の真央まおから魔王と呼ばれるそれにしては憂鬱だった。


「はい、お電話代わりました。はい、どうも……お世話になっております――」


丁寧な口調で話しつつ、彼は席を立った。そのまま別室に入って話し始める。途切れ途切れに聴こえてくるのは、冷静だが、説得じみた声だった。

それは同じような文言が何度も繰り返される。相手がなかなか理解し得ないのだ。

同じ相手なのは、志帆も知っている。電話自体、何度も掛かってきているからだ。

此処が職場であることも、仕事中だということも、お構いなしに。

あまり多いので留守電にしたこともあるが、長々とメッセージが入り、たちまち録音時間を消費するが為、仕方なく取ることになった。玉城の留守を告げると、何時に戻るのかとしつこく聞かれ、携帯電話に出ないと文句を言われ、取り次いだこちらの名前も何度も聞かれる。スタッフなど何人も居ないのだから、いい加減、名前ぐらい覚えて欲しい……そう思いながら、玉城が居る部屋を不安げに見ていると、同僚の笹井ささいがこれまた気の毒そうに呟いた。


「最近、また増えてません?」


まだ男子大学生の雰囲気が抜けない笹井は、眼鏡を掛け直し、あからさまに嫌な顔をした。


「いくら晃生さんの身内だって、ボケてんでしょ? 相手にしなけりゃいいのに」


大学時代にたまたまOBの玉城と知り合い、その人柄や仕事ぶりに憧れ、晃生の絵に惚れた男の言い分に、志帆は同意しつつも首を振った。


「気持ちはわかるけど、そんな風に言ったら失礼よ。玉城さんにとっても親戚なんだし……」

「わかるッスけどね……でも、あの人たちが玉城さんに四の五の言ったって、晃生さんが描けるようになるわけじゃないっしょ。可哀そうですよ。そもそも、晃生さんのことは、殆ど玉城さんにおんぶに抱っこの癖に」

「うん……」


今日、詰めているスタッフは志帆と笹井だけだ。彼は純粋に、尊敬する玉城を心配しているので、志帆も強くは言い返さない。

玉城の晃生に対する対応が、単なる画商と画家の関係ではないのは、業界では有名だ。

従兄弟同士というのもそうだが、もっと若い頃――それこそ、彼らが子供だったろう時代からだと聞いている。ひどく幼い精神と気分屋の晃生を、従兄である玉城はその両親よりも親身になって世話したらしい。

志帆が晃生の作品に惚れ込み、三顧の礼でアシスタントに転がり込む前から、玉城は晃生の手となり足となり、日除けに盾にと奮闘し、今も関係各社に頭を下げて回っている。身内ぐらいは彼の胸中を察してくれてもいいのにと思う。


「こっちの裸婦ヌードは順調スねえ……」


皮肉っぽく言った笹井のデスクには、美術誌と、彼には用が無さそうな女性誌の両方が有る。美術誌には『レディ・ミント』と画家の三咲明斗のコラムが載り、女性誌にはコラボ・スイーツについて大々的に載っていた。


「すっかり掻っ攫われたカンジ。良い絵なのはわかりますけど……俺、ミント先生は風景画の方が好きだなあ」

「……私も」


遠慮がちに言うと、志帆は誌面から目を逸らした。

明暗がわかりやすい業界のこと、いちいち気にしてはいけないが、三年も沈没していた三咲画伯の復活作が裸婦というのは皮肉なものだ。的場晃生が沈んだ時期に、同じジャンルで別の若手が飛び出てくる――あまりにもドラマチックで、当てこすりのような気さえする。尤も、当の三咲画伯は裏表のない好青年で、嫌がらせなんぞはジョークでもできなさそうな印象だ。


「晃生さん、こんな文句言ってくる人たちが居る実家でどうしてるんですかね」

「私にはわからないよ……電話は『晃生さんの為を思って』だから、大事にされてると思うけど……」


笹井は実家と言ったが、正確には生家ではない。

晃生は持って生まれた性質故か、両親と上手くいかず、昔から祖父母の元で過ごすことが多いそうで、今回、引き篭もっているのもその家だ。西多摩の静かな家は、すぐ傍にカヤやヨシに覆われた河川敷や、大きなクヌギや桜が植わった緑地公園が有り、晃生は家でぼんやりしつつ、ふらりと散歩に出たりするらしい。若い頃に描いた野の花のスケッチは志帆も玉城に見せてもらったことがあるが、今もそういうものを描いているのだろうか。晃生が非売品として祖父母にプレゼントした絵は、素朴でかわいい印象の絵だった。

ぞっとするほど華美である裸婦とは全く別の姿だが、どちらも細部にこだわる点は同じだ。タンポポの花弁一枚一枚を数えたのではと思しき描写と、女の睫毛一本一本をなぞるような描き方は晃生らしい。細密描写の点では花の絵で有名な志方臣しかたおみも凄まじい画力だが、彼は花によってタッチを変え、花を知るが故のデフォルメがまた美しい。

晃生はそうではない。虫食いも、病に枯れた葉も、泥跳ねや埃に煤けた様も、見たまま、ありのまま、表面をなぞり、見えない部分は描けない――それは心が籠っていないと揶揄されることもあるが、人間の余計な下心や欲望などの感性を欠いた、究極の透明感をもって描く。


……だからこそ、『夜の階段』は恐ろしい作品になったのだが。


ふと、晃生が野の花ではなく女を見てはいまいかと思い、身震いしたときだった。


「新しいモデルさんて、見つかりそうスか?」


不意に仕事の話に戻って来た笹井の声に、志帆は慌ててパソコン画面を見た。


「えっ、ああ、ええと、候補は居るんだけど……晃生さんのOKが出なくて……」


絵になる綺麗な女は沢山居る。だが、晃生が描きたい女はなかなか居ない。


「あー……こうして見ると、皆似てますねー。体形もメイクも。モデルって、ある程度の一律が良いんでしょ? 抜き出たカリスマ性って、服とか紹介するにはジャマってハナシ」


笹井は自席で呟いた。これまで送ったデータを眺めているのだろう。


「意外と、ぽっちゃりさんとかどうでしょう? ルノワールみたいな趣向が芽生えるかも」

「ニナさんと真逆ってこと? 今度はモデルさんを探すのが難しいよ……そういう体形のモデルさんも居るけど……裸婦ってなると……」


しかも、触れる前提だ。晃生が描いた女は売れるというジンクスを、その手のモデルが受け入れるかどうか。それに、ルノワールが描いた裸婦はふくよかで豊満な、時にはくびれさえ見られない体形を描き、「魅力を感じない」だの「女の美しさではない」などと非難されたこともある。ルノワールの絵が素晴らしいのは、肉体そのものというより、そこに宿る温かさと降り注ぐ光、それらを表現する豊かな色彩感覚だが、晃生の場合はこれまでの作品故に、モデルに注目されるのは避けられない。


「いっそ、志帆さんどうです?」

「セクハラ? それとも太ってるって言いたいの?」


じろりと睨む先輩社員に、笹井は苦笑混じりに首を振った。


「違いますよ! 知り合いの方が上手くいくんじゃないかな~って」

「知り合い……」


――晃生の中で、知り合いとして認知されているだろうか?

志帆が自信無さげに溜息を吐いた時、玉城も溜息混じりに戻って来た。


「あー、スマン。ちょっと晃生のとこ行ってくる。適当に上がってくれ」

「晃生さん、どうかしたんですか」


不安げな声を上げる志帆に、玉城は子機を置きながら苦笑いで首を振った。


「子供が呼んでるようなもんだよ。なんか描いたから見てほしいんだと」

「玉城さん……あの、野の花の絵なら……私、売れると思いますよ!」


立ち上がりつつ言った志帆は思わず、「ダメなら脱ぎます」と言いそうになるのを慌てて飲み込んだ。笹井も頷いた。


「俺も賛成です。志方しかた先生とは雰囲気違うし、意外性はウケると思いますけど」


玉城は若手の熱意に、曖昧に頷いた。


「そうだなあ……ま、行ってくるよ」


上着を取って出て行く玉城を、二人は静かに見送った。

『売れる』と言っておきながら、それが難しいのはよくわかっていた。

スランプに陥って、一年以上。若手が行き詰まるのとは、状況が違う。

スポンサー連中やファンが欲しいのは、”的場晃生の裸婦”。

美しい女の絵を欲しがる者に花の絵を渡して納得がいく筈もなく、晃生の気まぐれな性格を理由に言いくるめるのも、そろそろ限界だ。

すとん、と席に座り直した志帆の目に、ミント色の女が目に留まった。

冷たくも温かくもない、強い目だ。男が描いたというよりは、あらかじめそこに居た様な存在感。


――この裸婦も、透明クリアだ。


そう思いながら、志帆は静かに仕事に戻った。




 昭和の名残を残す板チョコめいた造りの茶色いドアの前で、玉城はそれだけやけに新しい――カメラ付きのチャイムを鳴らした。

応じる声に従い、やけに重厚感のある取っ手を引っ張ると、こじんまりした玄関先に背の高い白髪の高齢男性が出て来た。


真央まおくん、忙しいのに申し訳ない」


どっしりした体形だが、丁寧な物腰の家主に玉城も腰を低くしてお辞儀をした。

家主もよくわかった様子で奥へと促し、玉城も上着を手挟んで付いて行く。

奥の和室には、小さな縁側から望む庭が有った。背の高い生垣で外からは見えないが、内側からは隙間を覗くと川が見える。新しい緑が濃くなりつつある庭には、白いけし粒のような花が綻び、タンポポなどの黄色が点々としている。不思議と吹いて来る風はまだ冷たいだろうに、窓を開け放ったそこで男は畳に這いつくばっていた。

周囲は、子供が使う画用紙のような紙が散らばっている。ちょっと描いてやめたものや、花とも木ともつかない何かが生えている絵、動物か魚らしきものが描かれた絵、所々に落書きの有る古びた画板を敷いて、男は絵を描いていた。体が小さければ子供に見えたろう。髪も衣服もきちんとしていたが裸足で寝転び、使っているのも、全部が芯で出来ているようなプラスチック色鉛筆で、30色有る筈のそれは畳にぶちまけられている。


――まるで、昔の鬼才絵師だ。


玉城が家主に目礼すると、彼は静かに襖を閉めて出て行った。

一心不乱に描いている傍に近寄って覗き込むと、それは野草でも何でもない――色の洪水だった。よく見ると、花々が一面に描いてあるらしい。その合間に蝶のような、昆虫のような何かが同じ色を頭からかぶったように塗られ、輪郭線だけが鱗粉まで描いてありそうなほど精緻に描かれている。


「晃生、来たよ」


呼び掛けに顔を上げずに、彼は描き続けながらのんびり言った。


「真央、遅かったね」

「ごめん。都心から此処は遠い」

「真央も此処に住めばいいのに」

「……そうだな」


何度か交わした話を切り上げ、どれを見せたいんだと尋ねると、晃生は顔を上げずに足元の方に重ねてあった紙束を指差した。

玉城は黙ってそれを拾いに行くと、寝転ぶ晃生の前に座り直して眺め始めた。

今描いているのに似ている。紙をなめすように塗り潰す画面で、”何”であるか判然としない物と色とが混ざり合う。

この手の絵を、玉城は知っている。

内側から溢れ出るものを、独自のルールに従い、描かずにはいられない人々の絵。


「なあ、晃生」

「なに」

「俺は、これはこれで良いと思ってるんだ」


独り言のように、或いは何かをはばかるように、小さな声で玉城は言った。


「お前がこれを売りたいなら俺が売ってやる」

「うん」


ぐりぐりと画面を擦りながら晃生は頷いた。


「売らなくてもいいよ」

「そうか」

「でも、売らないと困るんだっけ」


何気なく出た一言に、玉城はサッと振り向いた。


「誰かそう言ったか」


幾らか鋭い声に、晃生は小首を傾げた。


「言ったかな。わかんない。真央はどっちがいいの?」


無邪気な問い掛けをする男は、容貌さえも四十代とは思えないほど幼い。そういう体質なのだろうが、髭も殆ど生えず、髪や目も色素が薄くてふわふわしている。

玉城はちらと襖の方を見てから小さく答えた。


「……それは、俺が選ぶことじゃないんだよ、晃生。本当は、お前が全部決めて良いんだ」

「真央が良い方で僕は良いよ」

「……そうか。ありがとな」


苦笑混じりに答えると、幼いが大人である絵描きはちょっと笑った。


「売ってもいいよ」

「うん……俺はそうしてもいい。だが、これを売ると、お前はこれまでの『的場晃生』ではなくなる」


意味はわからないだろう相手に呟き、玉城は首を振った。


「晃生、もう、”お手本”があるのは嫌か?」


その問いは、風に掻き消える程に小さい。自動で動いているような手を止めずに、晃生は「うーん」、と唸った。


「真央が言うなら、描いてもいいけど……」

「俺はお前に無理強いしたくない。もう、お前は充分頑張った……ニナもそうだ。頃合いだと思ってる……描きたい女が居ないって言えばそれで済む」

「甘理なら描いてもいい」


滑らかに出た言葉にぎくりとして、玉城は顔を強張らせた。


「彼女は……もう会えない。そう言ったろ?」

「そっか」


ちょっと残念そうに呟き、よっこらしょと起き上がると、晃生は散らばった紙を何枚か捲って、手にした一枚を玉城に差し出した。


「これは……」


紙に描かれたものを見て、玉城は呻いた。


「思い出したから、ちょっとだけ描いたんだ」


その絵は、肩の辺りまで描かれた若い女の絵だった。同じ画材でありながら、辺りの塗り潰すタッチとはまるで違う、そっと撫でていく内に現れたような絵。

柔らかい質感とは裏腹に、美人だが、髪は後ろに軽く束ねただけで化粧っ気も無く、着飾っていない女の目はどこか冷たく、何か言いたげなのに言わない――そんな表情だった。


「”あの日”の彼女を描いたんだな」

「うん。暑くて……あんまり覚えてないんだけど」


玉城は苦笑いと共に緩く首を振った。

”見て”描かず、あまり覚えていなくてこの精度。

確かにあの日、彼は心の内で――いや、脳と言うべきか。その恐るべき正確性を秘めた脳で、女にシャッターを切っていたのだ。


「最後に女で揉めるのは……『的場晃生』らしいか……」


自嘲気味に呟いたとき、何かを見計らったように襖の向こうからやんわりと女の声が掛かった。


「玉城さん、お茶が入りましたよ」

「あ、はい……ありがとうございます」


反射的に女の絵を裏返して応じると、すうっと襖が開いた。短い白髪を綺麗に整えた婦人がはにかみ、盆を手に立っていた。


「遠くからすみませんねえ……」

「いえ、いいんです……」


平伏するように頭を下げた玉城に、婦人はにこやかに茶を出した。


「晃ちゃん、色々描いてるでしょう。ご覧になった?」

「はい。おかげさまで……此処では筆が進むようですね」


先程の家主に対するよりも慎重に答えた玉城に、婦人は嬉しそうに頷いた。


「やっぱり慣れ親しんだ空気が良いんじゃないかしら。都心はホラ……何かとうるさいし、空気も悪いでしょう?」

「ええ、そうですね……」

「せっかく才能があるんだものねえ。このままなんて勿体ないわ」

「はい」


確と答える玉城の声は硬い。一方の晃生は何も気にした様子は無く、最初にぐりぐりやっていた絵を描き続けた。


「晃ちゃんも休憩したら?」

「うん」


返事はしたものの、彼は婦人に見向きもせず、手も止めなかった。

その様子をじっと眺めて、婦人は声を潜めた。


「玉城さん、ちょっといいかしら?」


――やはり、来たか。

内に呟いた玉城は立ち上がり、「また後でな」と画家の肩を叩いて婦人の後に続いた。彼女はしずしずと廊下を渡り、こじんまりとしたキッチンで振り向いた。


「やっぱり、あのモデルはそうなんでしょう?」

「あのモデルとは」

「とぼけないで下さい。『レディ・ミント』は甘理なんでしょう?」


先ほどまでの愛想笑いも欠いた、責める口調だった。認知能力が低下しているにも関わらず、自らが“やりたいこと”には異様に意識がはっきりしている女は、尚も詰め寄った。


「あの女が、晃ちゃんの邪魔をしてるんじゃないの?」

幸栄ゆきえさん、前にも申し上げた通り、誤解です。彼女は三咲画伯が偶然見つけ、それと知らずに声を掛けただけの話です」

「そんな偶然、有るわけないでしょう!」


婦人が踏み出した揺れで、古びた戸棚のガラスが震えた。


「だって……三咲先生は風景画がご専門じゃないの……なんだって、急に裸婦なんか……あの女がそそのかしたに決まってます」

「滅多な事を仰らないで下さい。いいですか、幸栄さん――画家は本来、それほど器用な生き物じゃないんです。晃生は私の言う事を聞きましたが、普通は勧められて描くようなものじゃない。自身が惹かれたもの、いっそ取り憑かれていることもある……それらを一途に描かずにはいられないんです。彼らがひらめいた時、作品は仕上がるも同然なんです」

「貴方は誰の味方なの?」


拗ねたような問い掛けに、玉城は嘲るような笑みを浮かべない様にするのが精一杯だった。


「私は、創作に本気である芸術家の味方です。晃生と他の画家のプロデュースに差をつけたことはありません」


婦人は失望したと言わんばかりに首を振りながら脇を向いた。


「貴方だって、晃ちゃんに散々稼がせてもらったでしょ? もうちょっと親身になるものじゃないの?」


――親身なんて、あんたに――いや、身内の誰にも言われる筋合いは無い……!


渋面を怒りに変えないのがやっとだった玉城は、苛立ちを抑えんと額に手をやり、溜息を吐いてから付け加えた。


「一応、断っておきますが、三咲画伯は女にだらしない男ではありません。それは甘理さんも同様です。彼らはビジネスパートナーとして上手くやっています」

「……私は、晃ちゃんの味方よ。玉城さんが何もしてくれないなら、もういい。私がやるから……」

「何をですか?」


半ば呆れたように聞き返した玉城に、婦人はもう知らん顔をしている。


「……まさかとは思いますが、三咲画伯の所に脅迫状なんか送っていませんよね?」

「……知りません。何のことだか」

「お願いですから、余計な事はしないで下さい。根拠のない想像や意見で彼らの仕事を妨害しては、こちらが罪に問われます。晃生が指示したと言われる恐れもあるし、後ろ暗いことがあれば、私だって貴女を擁護し切れないかもしれない……絶対にやめて下さい」


婦人はわかったのか怪しい顔でぷいと流しの方を向いてしまった。


「何もして下さらないのなら、お帰りになって」


呼び付けておいての捨てセリフに、玉城もいちいち取り合わない。「絶対に犯罪行為はしないように」と念を押し、晃生の部屋に戻った。彼は同じように絵を描き続けていた。


「……晃生、俺は帰るよ。お前はどうする?」


彼は絵から顔を上げ、つまらなさそうな顔をした。


「真央、もう帰っちゃうの」

「悪いな……忙しくて。帰るなら、送っていくよ」


晃生は襖の方を見た。キッチンの方から、何やらガタガタと音がする。それに対してか、何か思案するように彼はぼんやりしていた。

やがて、透明な水みたいな瞳で首を振った。


「今はいいや」

「そうか。帰りたくなったら連絡してくれ」


そう言いながら、玉城は腰を屈めると、裏返したままだった女の絵を取った。


「これ、持って行ってもいいか? 売らないから」

「うん、真央ならいいよ」

「ありがとう。飯はちゃんと食えよ」


頷いて、ばいばいと手を振る従弟に笑い掛け、玉城は絵を鞄に丁寧に収めて立ち上がった。

帰り際、暗い廊下から玄関先にぬっと出てきたのは家主だった。彼は大きな白髪の熊のように立ち尽くし、何もかも知っている風に頭を下げた。


「迷惑を掛けてすまない。懲りずにまた来てほしい」

「……いえ、お世話になります」


同じ人間に苦労する意味では同志だが、互いに一線置いているのは心得ている。彼らは晃生の父方の祖父母だが、玉城と血縁があるのは母方の祖父母である。“何か”が起きた場合には、立場をたがえるだろう相手に、迷いつつも玉城は言った。


「……出過ぎたことを申し上げるようですが……晃生より、幸栄さんが無茶をしない様、見てあげて下さい」


白髪の老人はどことなく侘しい表情で頷いた。

それはもう、不治の病にでも対するように、どうにもしようがないといった雰囲気だったが、玉城はそれ以上何も言わずに頭を下げ、玄関を出た。


閉じたドアの奥――先程のキッチンで、婦人は座った目で携帯端末の画面を見つめていた。

紹介サイトの羅列には、「探偵事務所」の文字が並んでいた。どこも似通ったキャッチコピーで、如何にも親身な調子で「素行・身辺調査のご相談はぜひこちらに」、「パートナーの浮気を疑ったらまずはご一報を」などと書かれている。

女は辺りを憚るように、密かに電話した。


「……もしもし、あの……素行調査を頼もうと思っているのですが――」


そのすぐ傍の部屋では、不審なやり取りを聴きながら、画家が無言で描いている。

この場で天地がひっくり返ろうと、何も気にすることのない、透明さで。

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