【Side K】文豪が見た画工の世界
かつて、僕はこんなにも苦い顔をしたことがあっただろうか。普段とは違う表情筋を使っている僕の身体を残して、平屋を飛び出した。後ろから戸惑う声が聞こえたが善は急げと、僕は上野公園に来ていた。
上野公園は葉織の通う美校の隣にあった。日常の中で起きた不可思議な現象ならば、その原因も日常に潜んでいるのではと考えて足を運んだが、「平和で何より」と呟く以外出来ない程に、上野公園は親子連れの微笑ましい声に溢れている。紅葉狩りの時期は人が多くて困ると葉織は零していたが、人こそいれどそれぞれが穏やかな時間を過ごしていた。生垣から、ねうねうと声がして振り向くとこちらにも親子連れの三毛猫がいた。
「秋生まれとは珍しい」
おいでおいでと指を差し出すと、子猫はおぼつかない足取りで僕に近づいた。親もなうなうと鳴くだけで子猫を
「美しいね、お前たちは」
只の野良猫のはずだった。家の周りにもいるような猫だったが、繊細な毛並みと嫋やかな骨格は正に芸術的だった。もしも言葉で表現するのならば「小奇麗な三毛猫」程度で済むはずなのに、僕の眼はその細部を捕らえようとする。茶と白と黒の三毛だと思っていたが、色は曖昧に混ざり、黄な白、赤な茶、灰の黒、と名称の無い色が頭を巡った。
「はは、これが画工の世界か」
僕よりも余程曖昧で、色に溢れた世界だった。子猫の喉を数度撫でて立ち上がる。
「すまないね、今日は持ち合わせが無いのだよ。また出会えたら」
惜しむ子猫にそう告げて、公園の奥に進んでいく。色付いた木が増えてくると、写生をしている書生を見掛けた。
ふと、葉織と出会ったのを思い出した。桜が舞っていた春、上野公園で書生が一人桜を熱心に描いていた。油絵を嗜むという事は美校の生徒だろうと思い、不躾ながらも後ろから画布を覗き込んだ。幾重にも重ねられた絵の具が、春風に踊る花弁の立体感を表していて、今にも春の香りがしそうな作品であった。彼の見ている桜はこんなにも美しいのかと感嘆し、声を掛けたのだった。あの時の不審者を見る目を、僕は生涯忘れないだろう。
一人懐かしい記憶に微笑みながら歩いていると、不忍池に出た。息を呑んだ、言葉を失った。紅葉が水面に映り、何層にも紅が広がっている。この池はこんなにも美しかっただろうか。感情を表現しようと言葉を探すも、あるのは形容出来ない心の揺らぎだった。遊歩道にいる人達が一瞬で視界から消え、眼前に広がる秋の景色に圧倒される。頭に浮かぶ言葉が陳腐に感じられた。高鳴る胸の感覚に懐かしさを感じた。
「虚をつかれたのか? 君、さては田舎の出だな」
茫然と飲まれるように見つめていると、後ろから画学生らしい青年に声を掛けられた。葉織より一つか二つ年長だろう。
「上野は春こそ取り上げられるが、息を呑むのは秋だね。君も美校の人間なら一度は描いてみるといいよ」
「そうだね。そうするよ」
いつもならば丁度いいと、この画学生と腰を下ろして延々と感じた美を語っていただろう。だが、胸に燻る火を言葉にするのには不可能に感じた。
男と別れ、一人で茶屋に入った。緑茶を啜りながら、漫然と紅葉を眺めていた。注文した団子が運ばれてきて、不意に俗世に戻された気分になった。
「お前はこちらへ来たり、あちらへ行ったりと忙しかったのだね」
葉織は僕の話を聞かないことが多い。正確には聞いていないことが多い。殊、写生中に話し掛けた時は覚えてすらいない。やれやれと思っていたが、どうやら葉織は意識を完全に被写体に持っていかれていたのだろう。一度、心を惹かれればそこだけがアーク灯にでも照らされたように明るく際立つ。繊細に細部を見る眼を持ちながら、それが最も引き立つような俯瞰的構図を見つけられる。
「まるで毎日、懸想でもしているようだ」
茶屋の隣に侘しく立っている茶に色落ちた葉でさえ、葉織の世界では煌いて見える。木枯らしに吹かれても、木にしがみ付いている姿は僕からしたら些か不愉快だが、彼の眼を通せばそれでさえ芸術の一部分に成り替わる。紅葉に恋い焦がれ、猫に恋い焦がれ、桜に恋い焦がれ、その一瞬を切り取り、永遠に残す術を持っている男。若さだからこその新鮮さではない。彼の世界は、僕とは正反対に曖昧模糊とした常識にとらわれない世界だった。急須が視界の端に入った。店の娘が茶を注いでいるらしい。
「固くなってしまいます」と団子を見て苦笑いする娘に、会釈をした。
「嗚呼、でも団子の味は同じかな」
甘味をあまり好まない葉織だが、甘辛い団子は受け付けたようだ。美味い物は美味い。美しい物は美しい。たとえ、見え方は違っても本質は同じだ。
「さて、そろそろ戻らないと葉織が困ってしまうかな」
細い身体を天に伸ばして、帰路に着く。空に浮かぶ星たちは平生より広く、明るく下界を照らしていた。いつもならば星になぞらえた神話でもを思い出すのに、今日はその輝きだけに心が奪われていた。
「何て美しいんだろうね」
――お前はこれをどう感じ、どう表現するのだろうか。
長く生きれば知識は付く。しかし、知識は胸の高鳴りと高揚を奪ってしまった。新月の空は、東亰の灯りでは届かない程に高く澄んでいた。
平屋の門に辿り着くと、案の定困った顔をした僕が立っていた。その手には本が握られている。
「遅いですよ、鴻紀さん」
「そう怒るな。ほら、夕餉にしよう」
肩を組もうとするも、身長が足りなくて上手くいかない。
「何笑っているんですか......」
「いいや、きっとこれから伸びるだろうからね。心配するんじゃあない」
「はあ。つまり、俺は喧嘩売られているんでしょうか?」
身長だけでなく、絵の技術も評価もきっと、彼の未来は今宵の空みたく明るいだろう。何故なら、彼の写す世界はこんなにも美しい物で溢れているのだから。将来の画壇で革命を起こすであろう青年の支えが出来れば、年功者として幸いだ。
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