倭国の王 少女卑弥呼
稲戸
序章
第1話 卑弥呼の王
古代、かつて倭と称されていた時代。
暴虐たる王と、その統治を是としない反乱を端緒にした戦乱は、見る間に倭の全土へと広がった。
混乱に乗じ勃興した周辺諸国の長もまたそれぞれ王と称して日々覇権争いを繰り広げた。
後に言う倭国大乱である。
その時代を中心として、諸国の興亡や群雄割拠の様子など当時見聞された膨大とも言える事象を紀伝体により編纂した書物――それが後の時代の変遷の中で失われることとなった史書、「倭紀」である。
倭紀によれば、倭国大乱を通じて多くの村が焼き尽くされ、無辜なる民の命が飛沫のごとく次々と散っていった。
絶え間なく続く争いに人々は疲弊し、怨嗟と慟哭が世に満ちた。
故郷を失い飢えた者たちが荒廃した地を幽鬼のごとくさまよい、一握りの籾を巡って命を奪い合ったと当時の様子について記している。
その絶望の時代において一人、彗星のごとく世に現れ、輝きを放った英雄がいた。
後に倭紀において「天下ニ比スル者ナシ」と最大級の賛辞でもって評価された、まさにその人物こそ――。
今、ここに存亡の危機に瀕した村があった。
眼前に広がる暴虐の王の軍勢を前に、もはや為す術もない。
当時の村は周囲を堀で囲み、柵を立てるのが一般的な防御法であった。
しかし、多くの村がそうであったように、この村も度重なる戦禍を経るうちに、刀は折れ矢は尽き人を失って、もう戦力と呼べるほどの力は残されていなかった。
村人たちは鉄製の武器防具で身を固めた大軍が突如現れ、まさに大海が小舟を飲み込むかのように次第に村を取り囲む様子を、無力な目でただ呆然と見つめていたのであった。
「ヒコジたちが帰還するぞ。開門、開門ーっ」
物見櫓に立つ見張りから大声で指示が届くと、ぎしぎしと重い音を立てて大きな扉が開かれた。
外界との唯一の接点である正門の前には、村の緊急事態として老若男女含め総勢四十名ほどが集められていた。
いざとなればここで最後の抵抗が行われることになろう。だがそうしたところで徒労に終わるだけであろうことは誰の目にも明らかであった。
村人が生き残る唯一の道があるとするならば、暴虐の王に決して刃向かわず、恭順の意を示すことで、助命の嘆願をすること以外に考えられなかった。
今、村の命運を託して交渉に挑んだヒコジたちが帰還する。一体どのような話となったのか。皆の祈るような視線が、村の入口に集中した。
だが、門が開かれ、よろよろと入ってきた数名の男女の姿を見て、全員の顔が一瞬にして凍りつく。
――ほぼ全員の体に、矢が突き刺さっていた。
傷口を押さえる痛々しい姿が交渉の結果について言わずもがなとばかりに物語っていた。
心配して駆け寄った村人が矢を引き抜くと、さらにそこから血が流れ出し、それぞれが苦悶の表情で痛みを訴えた。
大きすぎた希望はそのまま絶望に転じた。ただならぬ不安と恐怖が否が応にも増大し、追い詰められた村人の間に重苦しい沈黙が広がった。
「……ヒコジ、交渉は駄目だったのか」
臨時で村長を預かった壮年の男が沈痛な面持ちで口を開いた。
「いや、それどころじゃねえ。あいつら俺たちを見ただけで、いきなり矢を……」
ヒコジと呼ばれた同年代の男が、憔悴しきったような顔で吐き捨てるように答えた。その頬はこけ、髭が無精に伸びている。
「問答無用……というわけか」
「ああ、要はそれが奴らの答えってわけだ。暴虐の王に慈悲はない。もう間もなく総攻撃が始まるだろう。そうなったら……終わりだよ」
ひいっと誰からともなく息を呑む声が聞こえた。残虐な兵が雪崩を打って襲いかかり村人を蹂躙する様子を皆は想像し、身を震わせた。
まだいとけない少女がそれを雰囲気で察したのだろう。目にいっぱいの涙を溜めてその場に崩れ落ちた。
「そんな……。みんな……殺されちゃうの? そんなの……嫌だよ。……ねぇ、ヒコジさん」
ヒコジはうっと言葉を詰まらせたが、結局何も答えられなかった。悔しそうにぎりっと奥歯を噛み締めると、目を伏せる。
一人の村人がもう耐えられないとばかりに木槍の柄をがんと地に叩きつけた。
「くそっ。あいつら、こんな辺鄙な村に何の恨みがあるってんだ。俺たちがどうして死ななきゃいけない!」
「……見せしめだ。あの暴虐の王は、勝手に支配を抜けたことを今でも根に持っていたんだろう。逆らえば皆殺しになる、それをここで知らしめるつもりだ」
「ふざけるなよ。勝手に抜けたんじゃねぇ。こっちにだって事情があったんだ」
「ねえ、助けはこないのかな。私たちの王は、必ず守ってくれるって、そう約束してくれたはず……」
中年の女性が一縷の望みとばかりに、涙を拭いながら声を震わせた。
「残念だが、それはないだろう。我らの王はもう駄目らしい。今あちこちから攻められているのがその証左だ。この国も間もなく終わる。王はもう来ねぇんだよ」
「じゃあ、私たちはどうなるの。何か他に方法はないの」
「何言われたって、もう、無理なんだよっ。あの夢ばかり見てるような嘘つきの王を信じた俺たちが馬鹿だったってことだ」
ヒコジがずっと押し込めていた感情を爆発させるように、上ずった声で叫んだ。
「遅いんだよ。何もかも。……俺だって、死にたくねぇ。助かる方法があるんだったら、とっくに……そうしてる。命乞いだってな。だけど、もう、どうにもならないんだ。……俺たちは、もう、誰も生き残れない」
万策は既に尽きた。糸が切れたようにヒコジの頭が力なく落ちたのを見ると、村人たちもまた生気を失って悄然としたままその場にへたり込んだ。せめて死ぬときは一緒に。
誰もが発する言葉を失い黙する中で、ただ女性たちが顔を覆い、すすり泣く声だけが静かに響いた。
……そのときだった。
あああっと物見櫓から悲鳴にも似た大声が発せられた。
ついに敵軍勢が攻め寄せてきたのだろう。いよいよ迫りくる死を村の誰もが予感し、動揺が走る。
ヒコジが傷ついた体とは思えぬ俊敏さで物見櫓の梯子を駆け登った。だが、そこでヒコジが目にしたものは。
敵軍勢最後方のさらに奥。砂埃を舞い上げながら単騎で一直線に駆けてくる小さな影があった。
馬の上下の動きに合わせて黒く長い髪が揺れる。どうやらまだ若い女性のようだ。
白地の服に巻き付けた長く赤い腰布が風に棚引いているのが遠目にもよく見えた。
相当の距離があるため、顔までは判別できなかったが、ヒコジはそれが誰であるかを瞬時に特定できた。心当たりのある人物など一人しか存在しない。
「あれは、卑弥呼の……総大将? どうしてこんな所に?」
おそらく同じことを考えた見張りの男が信じられないものを見るような目つきで呆然と呟いた。
ヒコジが血相を変えて軽く首を振る。
「これは夢か? 王は駄目になったはずじゃ……って、おい待てよ」
ヒコジの呟きが終わる間もなく、女性が身を前に傾けて早駆けの体勢に入った。臆することなくそのまま敵陣の只中へと一人で突入する。
「無理だ。無理ですよ。あんな大軍相手に一人で突っ込んだら、死んでしまいます」
「おいおい、正気か。いや、無茶だ……おい、やめろ」
女性が巧みな馬術で、虚をつかれた形となった軍勢の間を縫うように疾走し、一気に前線まで距離を詰めた。だが、それを手をこまねいてじっと見ているような暴虐の王の軍勢ではない。
わらわらと敵兵が女性を取り囲むように動き出した。たとえ無理にそこを通り抜けたとしても、さらに最前線には防護柵が組まれている。
突破なんてできるわけがない。もう見ちゃいられねぇ。やめろ、やめるんだ。
「何やってんだ、馬っ鹿やろぉ。来るんじゃねえ!」
ヒコジは無意識のうちに物見櫓から身を乗り出して、ありったけの声で叫んでいた。
「わかんねぇのかよっ。あんたは王なんだ。たった一人の、希望なんだ。あんたはこんなくだらねぇ殺し合いのない世の中を作るって、本気でそんな馬鹿みてぇな夢を信じてるんだろ。だったらよっ」
……もう喉が潰れたって構いやしねえ。頼む。この声よ、届けっ!
「俺たちなんかのために死ぬんじゃねぇ。もういい。俺たちを見捨てて帰れよ、帰りやがれっ!」
必死で訴えるヒコジの双眸にはいつしか涙が溢れていた。
死ぬな。助かってくれ。
だがヒコジの願いと裏腹に、馬はさらに速度を上げ、敵兵の真ん中へと吸い込まれていった。
「卑弥呼の王が来た。何があっても食い止めろ。絶対に通すなよ!」
「前線、盾だ。急げ。前に出るぞ」
敵兵が卑弥呼の王の行く手を阻もうと、口々に叫びながら、次第にその距離を詰めてきた。
「私は、絶対に諦めたりしないっ!」
――包囲網が完成する前に突破するんだ。急げ。
女性が、より陣形の薄い方へ馬首を向けようとするが、もう既に前方には隙間なく敵兵の隊列が組まれ、その陣容はさらに厚みを増そうとしていた。
「私はもう二度と、見捨てたりしない!」
もう、このまま正面を突破するしかない。大丈夫。どんな困難も、私は乗り越えてみせる。
もうあんな思いはしないと決めた。約束したんだ、私は絶対に、みんなを守るって。
「信じてるから。一緒に、行くよっ」
卑弥呼の王が祈るように手綱を握り締めると、目にも止まらぬほどの勢いで敵兵の正面へ向かっていった。
絶対に通さぬと鬼気迫る表情でこれを迎え撃つ敵兵。覚悟の両者がまさにぶつかり合うその一瞬、馬身に向けて数限りない槍の雨が浴びせかけられた。
だが、それらの槍は全てむなしく宙を突いた。
敵軍の兵は皆、そのままたたらを踏むように次々とその場に倒れ込んだ。
なぜだ、王の姿が、消えた。
――否。消えたのではない。
いたのは、上。
見ろ、王が、空を飛んでいる。
呆然と見上げる兵たちの視界に映ったものは、激しい勢いで自分たちの頭上を通り過ぎていく大きな馬体であった。
口を開けて立ちすくむ兵を、盾を、最後の柵を、馬があっという間に越えていく。
そして、その向こう側に
――今、ずんと重量感を伴う音を立てて人馬が着地した。
あえなく通り抜けを許した兵たちは皆、言葉を失ってその場に力なく倒れ込んだ、と倭紀は伝える。
「はは、やった。やりやがった」
ヒコジがひりついた笑いを浮かべながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
隣にいた見張りの男が、物見櫓の下に不安げな表情で集う村人に向けて、これ以上ないほどの喜色を浮かべて快哉を叫んだ。
「みんなっ。ヒメ(日女)様が、俺たちの王が、生きていたぞ。今、そこにっ。本当に俺たちを助けに来てくれたんだっ」
直後、おおおおおという大地が割れんばかりの声が両軍から上がった。一方には落胆の、一方には歓喜の感情を伴って。
卑弥呼の王が、もう遮るもののなくなった平野を、悠然と駆ける。
その様子を見て、ヒコジがはっと我に返ったように、目を見開いた。
「おい、何やってんだ。今すぐ開門っ、急げ。早く迎え入れるんだよ。俺たちの、王をっ」
……どうしてこんな時代に生まれてしまったのだろう。
名もなき村の、一介の少女が震える手を前方に伸ばした。
ただ虚空を眺め続けたうつろな瞳から、とめどなく涙が溢れ出す。
……どうしてみんな奪い合うの。
どうしてみんな傷つけ殺し合うの?
……そんなの、悲しいよ。
戦乱が、全てを奪っていく。
ほんのささやかな幸せも。夢も。笑顔も。
全てが崩れていく。夢のように消え去ろうとしていく。
悔しい。だが何を恨めばいいのだろう。
誰にこの気持ちをぶつければいいのだろう。
生まれた時代か? 暴虐な王か?
目の前の大切な者を守れない弱い自分か?
自分に何ができるのだろう。どうすればいいのだろう。
……そうだ。私たちの国を作ろう。
もう誰も傷つけ合うことのない、優しい国を、作ろう。
取り戻すんだ。みんなが。愛しい家族を。生きる希望を。あたたかい笑顔を。
……もう、こんな戦乱なんていらない。
終わらせよう。私たちが作った国、卑弥呼国の手で!
――少女が作った卑弥呼は、小さな国だった。だがそこには優しい心があった。
収穫の日には皆と笑顔で肩を抱き合って喜び、悲嘆にくれる者がいれば、その手を握って一緒に泣いた。
不毛な戦乱のなかで、王の流す涙が、優しい笑顔が、その不屈の固い信念が、絶望にあった人々の心を少しずつ変えていった。
数多の苦難を乗り越え成長した卑弥呼国の下には、やがて諸将が集い、一筋の光として暗黒の世を照らした。
そして王は学んだ。孫呉の兵法を自ら体得し、軍を機敏に率いた。その様子は「鬼道」の如しと後の世に評されるほどであった。
やがて、卑弥呼の王は悲願であった倭のほぼ全土を平定し、長く続いた倭国大乱を終結へと導いた。
悲惨な暗黒の地に、平和と安寧をもたらしたのである。
当時の人々に「王の中の王」とまで称された不出世の英雄は、その後、併合した邪馬台国の女王として即位し、名をヒメ(日女)から国名であった卑弥呼に改めた。
人々は感謝と畏敬の念を込めて、心優しく偉大な王、卑弥呼と邪馬台国の名を決して忘れることなく語り継いだ。
倭紀とは、一人の名もなき少女が、やがて女王として倭を統一するまでの困難と栄光、そしてその経験した数多くの戦いを後世に残そうとして記録されたものと言うこともできよう。
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