第5話 夏休み前③

 日が沈みかける頃に、立花はやって来た。合流してすぐ普段より熱が入った練習風景を見て意外そうにぱちくりと瞬きをした。

「今日はどうしたの……?」

 普段の快活さが嘘のように恐る恐る、彼女はこちらに近づいてきて訪ねた。あまりに過剰な反応に、こちらが恥ずかしくなって逆に尋ねてしまった。

「そ、そんなに変か」

 確かに、今までやる気があるようには見えなかっただろうけれど、それでも真面目に手伝っているつもりだったのでショックだった。立花ははっと顔を上げると、弁解するように手を振った。

「いや……、利き手。使ってるの久々に見たから」

 そして台本に書き込みをしていた僕の手へと視線を落した。彼女が何を言いたいのかを察して、僕は言葉を詰まらせた。まさかそこまで細かく見ているとは思っていなかった。

 何となく気恥ずかしくて、僕は視線を逸らしながら言い訳をした。

「べ、別に怪我したから使ってなかったわけじゃない。野球以外ではあまり必要性を感じなかったってだけで。どっち使ってもそんなに変わりないし、祖母ちゃんもみっともないから右を使えって煩いしさ!」

 嘘だった。肩を壊してからは意固地になって、利き手を使っていなかった。昔から勘が鋭い立花は、他人の嘘をすぐに見抜く。あからさまな誤魔化しに、僕は彼女に揶揄われると身構えた。

「そっか」

しかし、僕の予想に反して立花が口にしたのはそれだけだった。緊張の解けた、安堵した顔に居心地が悪くなる。

宝条がきょろきょろと僕と立花の顔を見比べていた。困惑した様子で、事態が呑み込めず混乱しているのが分かった。

自らの恥を説明しなくてはいけないことに顔が熱くなりながら、僕は自分の左手を右手で指さした。

「サウスポーなんだ。野球始めたのもそれがきっかけ。元々結城がしていて、見学に行ったらさ、左利きならピッチャーに向いてるって言われて」

「え、あ、本当だ。あれ? でも……」

 納得しかけた宝条だったが、すぐ新たに疑問符を浮かべた。僕は居たたまれなさに穴でも掘って埋まりたい気持ちを押さえて、ペンを右に持ち替えた。そして、書いている途中だった文章を書き切った。

「え、え、ええ?」

 益々混乱した様子で僕の顔と手へと視線を動かす宝条に、立花が腹を抱えて笑っていた。

「……右も使うんだ。不便なことも多いから。今になったら両利きって言った方が正確なのかもな。もう僕の話は良いだろう!」

 強引に話を打ち切る。これ以上、彼女の前で恥をかくのは耐えがたい。怪我したことにいじけて、わざと利き手じゃない方で生活していたことも、……練習に熱中してそんなくだらない意地を忘れていたことも、なんだかとても間抜けに思えた。

「ふふふ、仕方ないね~。宝条ちゃん、練習に戻ろっか」

「は、はい」

 立花は僕の態度に露骨にニヤニヤしながら、宝条の背中を押して演技の指導へと移った。

 やっぱり、後で揶揄われることにはなりそうで、僕はがっくしと肩を落とした。

 その後の練習は、いつもよりもスムーズに進んだ。宝条が頑張ったからだろう。最近躓いていた箇所の演技も、目に見えて良くなっていた。案外、彼女には演技の才能があるのかもしれない。

「うん! すごく良くなってる。前より胸を張れてるし、声も出てる。心境の変化があったのかな?」

 立花に褒められて宝条は照れくさそうにしていた。なぜか目が合って、宝条は急いで台本で顔を隠していた。

「東とは大違いだね」

 立花がにやけながらこちらを振り返る。宝条の相手役の台詞を呼んでいた僕の、棒読みの演技をいじっているようだった。図星な分、うっと言葉が詰まる。

「わ、悪かったな。下手で。でも、僕が舞台に上がるわけじゃないんだから構わないだろ」

「まあね~。昔から嘘が下手だもんね」

 幼稚園からの幼馴染である立花は、カラカラと笑いながら宝条へと向き直った。今日はやけに突っかかってくる。長年の付き合いから、今の彼女が上機嫌なことが分かる。

 ため息を吐きながら、また無意識に左手で字を書いていた事に気付いた。一回でもうっかり使ってしまうと、意地を通すのも難しい。

それに、立花にはよっぽど心配させてしまっていたようだ。この様子だと結城も気にしているかもしれない。自分で勝手にやっていた事に他人を巻き込んでいたことに申し訳なさで気が落ち込んでくる。もう彼らの前で意地を通すのは止めよう。右手に持ち替えようとした自分を自省する。

 違和感なく動く左手は、もう投げられないことを忘れかけさせる。だから使うのが嫌だった。元々、左と同じぐらい右手も使えたから、他の人たちと同じ手で生活するのに苦は感じなかった。

 このまま、『普通の人』になればいい。祖母もそれを望んでいる。

「東~、今日はもうおしまいにしよう!」

 立花が僕へと声をかけた。気付けば二人はもう帰り支度を始めていた。ぼんやりと座っていた僕は、はっと顔をあげる。暗く感情が傾きかけていたからか、咄嗟に返事をすることが出来なかった。

「どうしたの? 寝てた?」

「いや、なんでも。終わりだな。分かった」

 首を傾けて問いかける立花から視線を逸らして、急いで立ち上がる。どうにも今日は気が抜けてしまっていけない。頭を振って気を引き締める。

 家では気を緩めないようにしないと。

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