第2話 李先生

 大学の講義は退屈なものだった。東條は飛び抜けて良い成績とはいかずとも、それなりに勉強して単位は落とさず、真ん中より上の位置はキープしていた。授業以外の時間は週に三日ほど家庭教師のアルバイトに行き(初めは登録制の会社から派遣されていたが、生徒の親からの評判が良く、時給四千円ほどで五軒の家庭と個人契約を結ぶことができた。特に金に困っているというわけでもなかったので、彼にはこれで十分だった)、その他の時間はもっぱら趣味の読書に充てていた。こうして、いささか刺激の伴わない大学生活を送っていたが、彼は唯一ゼミの時間は好きだった。東大では通常授業の他に一年次からゼミ活動が開かれ、生徒達は学びたい分野を選び、その担当教授に師事する。東條の入ったゼミは男子七人、女子五人というメンバーで、担当教授は国際政治学を専門としている中国人の李という男だった。東條は初めて李の顔を見た時、顔の彫りが深く、あまり中国人らしくないなと感じた。様々な部族が混じる中国のため、李はどこかの部族との混血なのではないかと東條は推測していた。

 李は変わった人間の巣窟と言える東大の中でも、特に変人で名が通っている教授であった。彼の趣味はいわゆるコスプレであり、しかも、その対象は世界中の国の民族衣装だった。ゼミの初めての授業の際に、李はスライドショーに写して自宅のコレクションの写真を生徒達に見せた。二十畳程の部屋一帯に掛けられた民族衣装の数々は圧巻だった。李はその中から毎日違う衣装を選んで大学に着てくるのだ。キャンパス内で彼を見つけるのは間違いなく他の誰よりも容易だった。 

そんな李であるが、元々は中国、甘粛省の農村で生まれ育ち、二十九歳の時に日本にやってきたそうだ。李は一度、授業の最中に自身の壮絶な生い立ちについて話したことがあった。彼は一九七五年生まれ。その時代の中国というのは、毛沢東の実権が幕を下ろし、鄧小平の指導の元、新たに改革解放経済 が打ち出されている頃であった。毛沢東の時代にあった人民公社 は解体され、農村部では人民公社時代に禁止、制限されていた農村交易や個人による商業、サービス業などの経営が政府によって認可された。李の話によれば、彼は物心ついたころより両親がおらず、幼い頃からそういった郷鎮企業 に雇われて生活に必要な賃金を稼いでいたそうだ。そのため、日々の労働に追われ、李はしかるべき年齢になってもまともな教育を受けることができなかった。しかし、彼は時折、突出した頭脳を見せて周囲の大人達を驚かせることがあった。ある日、大人達が融資の件で、利息がどれほどに膨らむかということについて、紙とペンを持ち頭を悩ませていたことがあった。そこに通りがかった李は、誰にも教わってないにも関わらず、複利計算 を暗算で行って数十年後の利息額まで即答した。その話を伝え聞いた企業の雇い主である趙寧(ちょう ねい)は、その件から李に眠るダイヤモンドの才能を見抜いた。翌日から、趙は李を毎日事務所に呼んで、仕事を与えるという体裁で、彼に読み書き、算数、社会知識等の勉強を教えた。そして李が帰る頃には一日分の賃金を手渡すのだった。彼がやるはずだった実際の作業はいうと、趙は李に勉強を教える傍ら、もしくは、李が帰った後で一人行うのだった。李はそうした趙の行動には当然気付いていたので、ある時、趙がいつものように一日分の賃金を手渡そうとするのを拒んだ。そして、申し訳ないからこういうことはもう終わりにしてほしいと趙に申し出た。すると趙は、李の目線まで屈み、彼の目を真っ直ぐ見てこう言った。

「君が勉強することはお金を払う価値があることなんだ。今の君は世の中を知らないからそれに気付かない。君がもし、そこらにいる農村の子供達と同じならば、私は君を一日中土地に追いやって朝から晩まで作業をさせるだろう。しかし、君は生まれながらにして特別なんだ」

その言葉は李の中で現在に至るまで心に深く残り続けており、それが後に彼を学者の道に進ませるきっかけとなった。

李にとって新しい知識を得るのは大変おもしろく、就寝時以外は食事中も、トイレでも、常に趙から借りた本を片手に持ち(寝ながら開いた状態の本を持っていたこともしばしばあった)、知識の習得に励んだ。李は数学や物理学において特に非凡な才能を見せていた。しかし、彼自身は世界史や地理の勉強をするのが一番好きだった。生まれてこの方、農村とそこに住む人々しか知らない彼にとって、西洋の美しい建造物や荘厳なイスラーム建築、それに様々な文化を背景とした食事や民族衣装の写真を見ることは何より心をおどらせた。彼は、今すぐにでも農村を離れ世界中を旅してみたいと思った。ある時、いつものように趙の授業を受けている際、李はそのことをポロッと口にしてしまった。丹念に指導している趙としてはいい気分はしないだろうと、李は言った後で自分の発言を後悔した。しかし、趙は意外にも怒ったり苛立ったりしている様子はなく、無言のまま腕を組み、何かを考え込んでいた。そして、しばらくして口を開いた。

「君なら……そうだな、海外の大学の特別推薦枠を取れるかもしれない。今君が海外に渡ったところで、職はないし生活していくことはできないが、授業料、その他を全面的にカバーする奨学金制度を設けているような大学もある。そこでしっかり学んで、自分の力で金を稼げるようになれば、君の言うように色々な国を回ることも可能だろう」

李は趙の言葉に対する興奮を隠しきれなかったが、それでも謙虚に反論した。

「趙さん、僕は小学校にも行ったことがないんですよ。それがいきなり大学だなんて……」

 しかし、趙にとって李の懸念事項は全く問題のないことだった。

「今更、君がそういう教育を受けたって時間の無駄だ。いや、大抵の大学だって君にとっては何の得にもならない。とは言え、君の生い立ちを理解してくれるような教育機関はきっとそう多くはない。才能のある人間を受け入れる柔軟性があるところ……。どうせなら、より高いレベルがいい。そう、MITとか」

 李は頬を赤らめた。趙は普段、李のことを滅多に褒めなかった。それは、周りの人間のレベルを知らない李を慢心させたくないという趙の計らいだった。しかし、内心では誰よりも李のことを高く評価していたのである。実は、趙もかつてはアメリカの大学へ留学し、博士課程まで進んだ人物であった。しかし、文化大革命 の影響で強制的に帰国せざるを得なくなり、国の行く末と自らに降りかかるかもしれない危険を鑑みた彼は学問の世界から遠ざかることとなった。そういう過去もあって、趙は多くのことを知り、それを李に伝えることができたのだ。趙は学生時代の知り合いを伝って、MITに「見てもらいたい少年がいる」という旨の手紙を出した。趙の頼みともあり、李は特別に実力を測る試験を取り計らってもらえることとなった。その後、李は寝食の時間を惜しみ一日二十時間にも及ぶ猛烈な努力の末、僅か十三歳にして見事、同大学の特別推薦枠を手に入れた。

大学では、当時まだ発展途上であった人工知能の研究に取り組み、ディープラーニング技術 の開発に大きく貢献、人工知能(AI)技術を大幅に進歩させた。誰もが李を「天才」と称賛した。そんな将来を嘱望された彼だったが、二十代後半に差し掛かり転機が訪れる。それは、二〇〇一年のアメリカ同時多発テロに起因するイラク戦争 の勃発であった。彼はその時、自分の居住するアメリカという国の傲慢な外交的ムーブメントや、無能さを極める国連に対して激しい憤りと嫌悪感を覚えた。そして、政治家による誤った判断がされるのを防ぐためにはどうすれば良いかを思索し、国際政治学という学問に興味を抱いた。それと同時に、小さな頃、自分は世界の様々な国のことについて勉強するのが好きだったことも思い出した。その後、李はそれまでに築き上げた経歴を全て捨て、社会学について一から勉強を始めた。李が工学の世界から姿を消したことを惜しまない人間はいなかった。しかし、彼の意志は固かった。李は、以前より住んでみたいと思っていた日本を留学先に選び、再び勉学に励んだ。そして、博士課程を経て、同大学教授に着任した。

 こうして李は東大教授として、現在東條の前に立っている。李は東條が人生で出会った人間の中でも比類なく賢く優秀な人物であったが、それを鼻に掛けているような感じは一切なく、ゼミの時間が余れば生徒全員を大富豪大会に巻き込み、勝敗に本気で一喜一憂するような砕けた一面もあった。とは言え、一旦講義に入れば、彼の眼差しは真剣そのものだった。東條は彼の鋭い視点や話のおもしろさに、他の教授にはない魅力を感じ、毎回惹かれていた。

この日の授業は、ウイグル人差別について議論するという内容だった。新疆ウイグル自治区は中国北西部に位置し、ウイグル人と呼ばれる民族が居住している。ウイグル人はトルコ系の民族で、主にイスラーム教を信仰する。中国は人口の九割が漢民族であるが、残り一割はウイグル人のような少数民族であり、独立運動などが発生するのを阻止するため、中国政府による虐殺や拷問、強制労働といった凄惨な民族弾圧がされている疑惑があった。

「ひどい! なんでそんな理不尽がまかり通っているんですか?」

 李の話を聞いて、一人の女子生徒が机を叩き、声を上げた。他のメンバーも今日の話は深刻で、教室内は重苦しい雰囲気となっていた。李は答えた。

「国を持たないからです。主権 を持たない、これ以上に酷いことはそうそうありません。人間は集団において常に弱者の存在を求めていますからね。だから昔から、人は戦争をしてでも命懸けで祖国を守ろうとするのです」

李はこの後もウイグル人差別について自身の知見を熱弁した。この日は特に、彼の情熱のこもった授業だった。

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