Summer Holiday

水奈川葵

ACT.1 運転する男

 ずっと同じ曲が流れてる。

 どこかで聞いたことがある。題名も、歌っている歌手の名前も知らないが。洋楽だ。最近のじゃない。なんといったか、アメリカの昔の音楽みたいなやつだ。

 あぁ、そんなことどうだっていい。

 問題は僕がどうしてこんな曲をずっと聴くハメになってるのかということだ。


 今、僕は古い国産車を運転している。だけど、この車は僕の車じゃない。誰が好き好んで、こんな古びた国産車なんか買うもんか。たまたまマニュアルの免許を持っていたから良かったものの、今時の奴なら運転もできないだろう。僕だってマニュアルの免許を取ったのは、前に働いていた会社の車がマニュアル車が多いという事情があったからで……あぁ、そんなことどうだっていいんだよ、だから。要は僕は好きでこの車に乗ってるわけじゃない。好きで運転してるわけじゃないんだ。


 どうしてこうなった?

 それは隣の彼女のせいだ。


 毎朝、なな時20分から25分の間に家を出る彼女。

 マンション下の自転車置き場に置いてある白い自転車に乗って、一番近い駅まで約10分。駅の定期自転車置き場のBブロックかDブロックの隅にいつも置いて、なな時54分発Z駅行きの電車に乗る。

 痴漢に気をつけているんだろうか。いつも女性専用車両だ。

 会社最寄りのC駅に着いたら、たいていは南口から出て会社の入っているビルへ直行。

 僕も前まではこのビルの中で働いていたんだけども、無断欠勤、遅刻、早退を続けてたらクビになった。そのときはそれでも良かった。なぜなら、欠勤も遅刻も理由があって、それは彼女をちゃんと見守ってやらないといけなかったからだ。


 そんな彼女の今日の朝は、いつもと少し違って、駅を降りると東口から出た。東口から出る時には出口付近にあるパン屋に寄る。好きなパンはレタスとツナのベーグルサンドと、ポンデケージョとかいう小さな一口サイズのパン。あとは好みで甘いパンをあるものから選んでる。パン屋に寄るときは弁当を作ってない。それは持ち物に小さな弁当を入れる用の手提げ鞄があるかどうかでわかる。今日はその鞄がなかったから、多分東口からパン屋に向かうだろうと思ってたらやっぱりそうだった。


 そこから昼間にビルの地下にある公共のテラスで、昼ご飯にベーグルサンドを食べていた頃は平和だった。いつも通りに穏やかに過ごしていた。彼女は、ほかの女みたいに、キャラキャラとやかましくおしゃべりしながら、ビジネス街をうろつき回ったりしない。いつも一人で、静かだった。三日前に駅前の本屋で買った文庫本を開いて、パンを食べながら、昼休みが終わる時間まで読んでいた。おとなしくて、やさしい気質の人なのだ。


 そう、思っていた。

 今となれば、そんな自分の馬鹿さ加減にあきれるが。


 その日も彼女は定時に退社すると、駅前の本屋に立ち寄っただけで、すぐに帰路についた。夕食を作るときには、最寄りのスーパーで食材を買って帰ることもあったが、今日は家に用意してあるのだろう。ちゃんと自分で料理できる家庭的な子なのだ。


 僕は彼女が無事にマンションまでたどり着けるように見送ってから帰ろうとしていたが、「ちょっと……」と後ろから呼び止められた。そのとき、僕は心臓を掴まれたのかと思うくらい、ドキリとした。そのまま走って逃げなかっただけ、僕は誠実な人間だ。


「なんなの、あなた。どうして私のあとをつけてくるの!?」と、彼女は急に怒鳴ってきた。

 誤解だ、と僕は思った。

 後をつけるなんてことはしていない。ただ、ちゃんと無事に、彼女が家に帰ることができるように、見守っていただけだ。

 そう言いたかったのだが、いざ彼女を目の前にすると、何も言えなくなった。

 だって仕方ない。

 それまで僕がまともに口をきいた女なんて、一緒に暮らしていた祖母と、一緒にビル清掃で働いていた同僚のおばさんくらいだ。彼女と同じように、僕も奥手で人付き合いが苦手だったから、すぐに言葉が出てこなかった。それなのに彼女ときたらひどいことに、

「気持ち悪いからやめてちょうだい」

「今度、私の目の見えるところにいたら、警察に行ってストーカーだって言います」

なんて言ってくる。


 誤解だ!

 なんてことだ。僕はいつの間にかストーカーなんて扱いをされていた!

 違う。断じて違う。そうじゃない。


 話を聞いてほしくて一歩近付いたら、急に彼女が短い悲鳴を上げた。

 僕はびっくりした。立ちすくんでいたら、いきなり男に腕を掴まれた。

「おい! やめろ!!」なんて怒鳴りつけられて、僕はカッとなった。

 遮二無二、男から逃れようとバタバタ手足を動かしてたら、あれ? と思ったときには、体が傾いていた。それから、急にどこかに頭を打ち付けたような痛み。バチンッ! と目の前で火花が爆ぜたように閃いた次の瞬間には真っ暗になった。


 そこから?

 そこからがよくわからない。


 気がつくと、僕は暗闇の小さな空間にいた。

 ひどく暑い。

 明らかにクーラーの効いてない場所だということだけはわかった。

 暑さもこたえたが、それよりも苦痛だったのが、振動だ。まるでサスペンションのきいていない車に乗っているかのような、ひどい揺れ。それにガソリンの臭い。


 ボンヤリする意識の中で、どうやら自分が車に乗っているらしいことはわかった。しかし体をくの字に折り曲げたような状態で、伸ばすこともできず、起き上がることもできない。どう考えても座席ではなかった。


 出してくれ、と声を出すことも出来ない。

 喉が干上がって、カラカラだ。夏の最中に、こんな訳のわからない場所に閉じ込められて、しかもクーラーも効いていない。水を飲むこともできない。確実に熱中症になる。というより、もうなってるだろう。

 僕の意識はまた朦朧としてきて、ゆっくり濁った沼の中に入っていくようだった。


 それでまた目を開いたときが、今度こそおかしかった。

 なにしろ、どこかわからない土の上で起きた。しかも、自分の隣には僕をストーカー扱いした彼女と、勘違いして僕を捕まえようとしてきた男が寝ていた。寝ていた……というか、死んでいた。男は血まみれで、彼女も血まみれになって、男にかぶさるように倒れていた。


 僕は悲鳴を上げたが、喉が乾ききっていたので、まともな声にならず、カエルがひしゃげて潰れたときの音みたいだった。

 土の上をのたうち回るようにして、僕はその場から逃れた。

 必死に上ってから気付いたのは、今まで僕がいたのが穴の中だったということだ。這い上った先にシャベルが二本転がっていたから、どうも土を掘ったらしい。


 そんなことどうでもいい。

 僕は近くにあった車に乗り込んだ。

 何故かライトが点けっぱなしになっていて、光は穴の方を照らしていた。そのせいで穴の中で死んでいたのが、彼女とあの男だとわかったのだ。光がなかったら、真っ暗闇の森の中で、自分の近くで倒れているのが誰かはわからなかっただろう。


 なにせ訳のわからないことだらけだった。

 ともかく僕は逃げたかった。

 この、今の状況から逃げたかったんだ。

 幸いにも車のキーはつけっぱなしだった。僕はすぐにエンジンをかけると、後方へと急発進しようとした。


 そのときだ。

 いきなり穴の中から何かが飛び出したのかと思ったら、フロントガラスに張り付いたのは彼女だった。

 渇ききった喉で、僕は悲鳴を上げたのだろう。たぶん。

 血まみれの真っ赤な顔の彼女が、それこそゾンビさながらにフロントガラスに張り付いて、僕を凝視していた。

 僕は思わずアクセルを踏み、ハンドルを切った。ドスンと木か何かにぶつかって、反動で彼女は宙に投げ出され、近くの木にぶち当たって落ちた。


 僕は怖かった。

 それでも木の根元で力なく倒れる彼女を見て、ハッと我に返ったんだ。

 僕は勇気を振り絞って車を降りると、彼女に近付いた。ゆっくりと近寄っていくと、彼女が小さな声で言った。


「助けて」と。


 僕がどうすべきかなんて、考えるまでもないだろう。

 もちろんすぐに助けた。

 僕はいつも彼女が危険な目に遭わないようにと見守っていたんだから。それなのに彼女に怪我をさせてしまったんだ。

 助けるさ。当然のことだ。

 僕は彼女を助け起こすと、車へと連れて行こうとした。けれど彼女は穴のそばまで来ると立ち止まった。


「この男を埋めてちょうだい」と、彼女は言った。


 僕は戸惑った。彼女が何を言ったのか、一瞬、理解できなかった。

 彼女は再び言った。


「この男を埋めるの。早く」

「こいつはあなたを殺そうとしていたの」

「あなた埋められるところだったのよ」

「あなた、私のこと好きなんでしょう?」

「私を助けてくれないの?」


 矢継ぎ早に言われて、僕はもうすっかり混乱していた。

 やがて彼女はよろよろと歩いて、置き捨てられていたシャベルを手に取ろうとした。けれど手に届く前にガックリ膝をつく。

 僕はあわててシャベルを取ると、積み上がった土を男の上へとかけていった。

 男の全身を土で覆い隠したぐらいで、ピィィと雲雀ひばりの鳴く声がした。


「朝か……」


 僕が一息ついて言うと、途端に彼女の顔が強張った。


「朝? 朝なの?!」


 怒鳴りつけるように尋ねてこられて、僕はコクコクと頷いた。たぶんここは森の中だろうが、ピチピチと鳥の鳴き声が聞こえてくる。


「駄目よ。早く逃げないと」


 彼女はさっきまでへたり込んでいたとは思えない素早さで立ち上がると、車の助手席に乗り込んだ。


「早く! 乗って!」


 かされるまま、僕はシャベルを放り出して、運転席に乗り込む。


「出して! 早く! 早く!!」


 ともかく彼女はこの場から離れたいらしかった。

 僕はエンジンをかけると、ゆっくりとバックしていった。どうしてこんな道に入ろうと思ったのだろうか。一本道だが舗装もされていないし、くねくねと曲がっている。旋回もできないから、バックで進むしかない。


 僕がバックミラーとサイドミラーを交互に見ながら運転している間にも、彼女は何度も「早く!」と繰り返した。

 もし助手席に座ってるのが母親だったりしたら、僕は「うるさい! 黙れ!」と怒鳴りつけていただろう。だが、今そこにいるのは、真っ赤な血に染まった、切羽詰まった形相の鬼女だった。

 僕の心臓は恐怖に潰れそうだった。言う通りにしないと、取って喰われそうだ。


 暑い朝だった。

 昨日からずっと暑い。

 ずっと暑いし、ずっと痒いし、ずっと痛い……。


 そうして今。

 僕はどこだかわからない道を走ってる。

 くねくね曲がる山道を下っている。


 どこに向かえばいいのか、彼女に訊いたけど、返事はない。

 静かだと思ったら、のんびり寝てる。


 あぁ、もう! どういうことなんだ、一体。

 昨日から何が起こってるんだか、訳がわからない!

 ともかくこの音楽を止めてくれ。この無邪気で暢気な音楽がイラつくんだ。それにさっきから……なにか……漏れてるのか?


 ピトン……ピトン……ピトン……ピトン……。


 音がする。

 何の音だ?

 怖い……怖い。

 止めてくれ。

 この音楽も、ピトンピトンも、止まってくれ……

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