第三十二章

早朝、ブルートパーズのメンバーやツアークルーが帰国した。メンバーが家族やガールフレンドと久しぶりに再会する中をトニーはジェシカの姿を探したがトニーの胸に飛び込んでくるはずのジェシカの姿はなかった。

──…やっぱり、何か元気がないのが理由で来てくれないのかな…。

そう思いながらも何処かに居るかもしれないと諦められずジェシカの姿を探すトニーに気付いたマリアが声をかけた。

「夕べ、みんなで駅に迎えにいきましょうねってジェシカに電話したのだけと…ピアノの練習をしたいというのよ…帰ってくるのは早朝なのだから行きましょうって言ったのだけど…」

「ピアノの練習…」トニーはおうむ返しに呟いた。

──それだけじゃないと思うけど…。

「リサイタルが大好評だったでしょう。あのあとで更に意識が高くなってしまったのかもしれないわね」

「…そうですか」トニーはポツリと答えた。

トニー以外の、みんなそれぞれが大切な人と再会を果たして帰っていった。ロバートが送ると言ってくれたけどロバートにとって遠回りになるので断って一人残ったトニーはため息をつき、タクシーに乗ると自分の家に向かった。家に到着して荷物をほどき、長いワールドツアーの為に冷蔵庫は電源を抜き中身は空っぽだったので食材を買いに外に出た。

ピアノの練習が終わったらジェシカは会いに来てくれるだろうか?今日は定休日ではないけど演奏が終わってから連絡がくるかもしれない。玉ねぎを沢山買っておこう。

その頃、ジェシカはピアノの練習を終えて自分の部屋の窓から空を見上げた。トニーに会いたくてたまらない。今朝、帰ってきたのに…帰ってくるって解っていたのに私は出迎えに行かなかった。間違いだったわ…こんなに会いたいのに。そうよ、行きたかったけど。だけど…。

ママのことを思い出して私はトニーに、どんな顔して会えばいいの?…でも、でも会いたい!どんな顔して、なんて関係ないわ。トニーに会いたいのよ。今は、それだけ。私の命は明日までなんだもの。誕生日だって一緒にお祝いする約束だもの。トニーと一緒に居られる最後の時間を無駄に出来ない。行かなくちゃ。

ジェシカは部屋を飛び出しトニーの家に向かった。

その頃、トニーは近所のスーパーで食材を大量に買い込んでいた。

「あらまぁ帰ってきたのね!おかえり。明日は息子と一緒に観に行くのよ。楽しみにしてるからね」レジ係の中年女性が釣銭を渡し朗らかにトニーに話しかけた。

「ありがとうございます」トニーは笑顔で応えた。

両手にスーパーの袋を持って店を出たトニーは走ってきたジェシカとぶつかりかけた。

「うわ!危ない!」

「ごめんなさい」ジェシカも慌てて止まってトニーを見上げた。

「トニー…」

ジェシカは息を切らしている。

「ジェシカ、良かった。ぶつからなくて」

ジェシカは無言でトニーの胸に飛び込んで抱きしめた。

トニーは荷物を持つ両手をそっと手離し、地面に置いてジェシカを抱きしめ返した。まだ息を切らしているジェシカに顔を近づけ唇にキスをした。

「そんなにハァハァ言ってると俺、ムラムラして、この場で即ベッドに行きたくなっちゃうよ。ただいまジェシカ」トニーは笑顔を向けた。ジェシカは、まだ息を整えている。自分の部屋から、ずっと走ってきたのだ。

「俺の家に来てくれる途中だったの?」ジェシカはトニーに抱きついたまま息を弾ませながら大きく何回も頷いた。

「オニオンスープ作るよ。一緒に飲もう。行こう」トニーは、そっとジェシカを離すと荷物を拾い上げた。ジェシカは頷きトニーが持つ袋の片方の持ち手を一緒に持って歩きだした。

部屋に戻ってトニーは食材を仕舞ってからジェシカに顔を向けた。

「お茶飲もうか?先にオニオンスープ作る?腹減ってない?」トニーが静かに話しかけた。部屋に入ってから、いやスーパーの前で、ぶつかりかけ、トニーの名前を呼んでからジェシカは喋らなかった。今はキッチンでトニーの前で俯いたまま立ちすくんでいる。

「ジェシカ?」

トニーは、そっと一歩だけジェシカに歩み寄った。確かに目の前にジェシカは居るのに。なんだか、それ以上近づいたらジェシカの姿は一瞬で消えてしまいそうなくらい儚げに見えた。

不意にジェシカは顔を上げると勢いよくトニーに駆け寄り抱きついた。

「トニー…トニー!」

トニーはジェシカをギュッと抱きしめた。

「うん?」

「ごめんなさい、出迎えに行かなくて。ごめんなさい!でもでも本当は本当にトニーに凄く会いたかったの…本当よ」ジェシカは涙声でトニーの胸に顔を埋めた。

「何も怒ってないよ。俺も凄く会いたかった。駅でジェシカの姿がなくて寂しかったけどね。なんか凄い難しい曲を練習したいからってマリアさんから聞いたよ」

ジェシカはトニーに抱きついたまま、すすり泣いている。

「ね、ジェシカ。顔見せて。ずっと会いたかったんだよ。そんなに泣かないで。俺、ぜんぜん怒ってないし。会えて凄く嬉しいんだから」

トニーはジェシカの髪を撫でながら囁いた。ジェシカが、ゆっくりと顔を上げトニーはジェシカの涙を指先で、そっと拭い唇にキスをして抱きしめた。

「私だって、トニーに会いたかったわ。トニーがワールドツアーに行く為に列車に乗って離れた瞬間から、もう寂しくて凄く会いたくて会いたくてたまらなかったわ…列車が見えなくなっても線路を暫く見ていたわ…」ジェシカが再びトニーの胸に顔を埋めながら言った。

「…嬉しいよジェシカ。俺も会いたくて会いたくてたまらなかった」

二人はしばらく無言で抱きしめ合っていた。

「ベッドに行こうか」トニーが髪を撫でながら囁くとジェシカはトニーに囁いた。。

「誕生日プレゼント…本当に私で、いいの?」

トニーは笑顔になってジェシカの唇にキスをしてを抱き上げた。

「素晴らしいリサイタルのチケットも、もらって、そのうえ、そのピアニストを抱けるなんて最高のプレゼントだ」

「でも私、プロのピアニストじゃ…」トニーは言いかけたジェシカの唇をキスで塞いだ。

「立派なピアニストだと思うよ」

ジェシカはトニーの言葉が嬉しくて涙で目を潤ませ彼の首に腕を回してキスを返した。


ベッドで久しぶりに愛し合った後ジェシカはトニーにピッタリとくっついて離れようとしなかった。

「今日、レストランで演奏する日だよね?後で送っていくよ」

そういうトニーにジェシカはかぶりを振った。

「最近、あまりレストランで演奏させてもらっていないの。ほとんど練習だけしているの」ジェシカはポツリと答えた。

「そうなんだ。ジェシカ…元気ないよね…何かあった?」

トニーはジェシカの髪を、くるくると指先に巻いてほどいてと繰り返しながら訊いてみた。何か…何かが、いつものジェシカと違う。

「…何もないわ。ごめんなさい心配かけて」ジェシカはトニーの目を見ないで答えた。

何もない感じじゃない…。だけど今は、あまり追求しないでおこう。少し時間を置いたら話してくれるかもしれないし。トニーは思った。

「そうだ、ちょっと待ってて」

トニーは起き上がりバスローブを着ると寝室を出ていった。

トニーは大きなスーツケースを押しながら寝室に戻ってきた。

「お土産だよ」

「そのスーツケースを買ってきてくれたの?凄く大きいのね、ありがとう…でも、何に使えばいいの?」

素直過ぎるジェシカの反応にトニーは思わず笑いだした。

「イヤ、そうじゃなくて、この中に入っているんだ。このスーツケースも良かったらプレゼントするよ。今度、一緒に旅行に行こう」そう言いながらスーツケースを開いた。

トニーは、ゆっくりとひとつひとつ、何処の国の土産なのか説明しながらジェシカに渡した。

ジェシカは受け取る毎に包みを開いては喜んだり感動した。

「この香り、どうかな?俺はジェシカに似合うと思ったけど」それは、とても爽やかな柑橘系の香りの香水だった。

「凄く、いい匂いね。私、好きよ、この香り…ありがとう」

「良かった」

トニーはスーツケースから取り出した小さな包みをジェシカからは中身が見えないように自分で開けると

「ジェシカ、目を閉じて」と言い、トニーに言われてジェシカは素直に目を閉じた。それはワールドツアーで行った国の限定生産のチョコレートだった。

トニーは箱からチョコレートを取り出すと「口、開けて」と言ってチョコレートをジェシカの口に入れた。

「目、開けていいよ」

ジェシカは、ゆっくりとチョコレートを食べて、目を見開いた。

「おいしい!」トニーはジェシカの反応が嬉しくて笑顔になった。ジェシカはトニーが手にした箱からチョコレートを取り出しトニーの口に入れた。

「うん、うまい!」二人は笑い合った。

「良かった…!ジェシカやっと笑った」

ジェシカはトニーを見つめた。

「心配かけて、ごめんなさい…」

──こんなに沢山のお土産を買ってきてくれて…私を心配してくれて…

トニーはジェシカを抱きしめると訊いた。

「ジェシカ、俺が居ない間に何か、あったの?なんか…何かが違うんだ…うまく言えないけどなんにもないって言ってたけど…なにかあったなら話して欲しい」

ジェシカが自分から話してくれたら、と一度は思ったものの、今まで見たことのないジェシカの様子に心配で黙っていられなくなった。

「…その、実は俺のこと嫌いになった、とか?」トニーは不安げな様子で訊いた。

ジェシカはトニーを抱きしめ返すと、そっとトニーをベッドに押し倒した。

「そんなこと、あるわけないじゃない。嫌いな人と、こんなことしないわ」

ジェシカは答えた。

──ママのことは、とても言えない、言いたくない…でも…あのことは自分で言わなくちゃ…

ジェシカはベッドでトニーを抱きしめると口を開いた。

「あのね…実はトニーがワールドツアーに出掛けた、その日の午後にね…」

トニーは黙ってジェシカの話を聞いた。

──よりによって俺が出掛けた日に…そんなことが…神様にお願いしたのに。もう、どうしても止められないのか?

トニーはジェシカを抱きしめ返した。

「ごめん…ごめんね傍に居られなくて…駆けつけるとか俺言っておきながら」

トニーの声が、抱きしめる腕が震えている。トニーの目に涙が光った。

「トニーは何も悪くないわ。出掛けたばかりなのに言えないもの。きっと世界中の誰でも言うことできないわ。タイミングがあまりにも悪かったのよ」

ジェシカはトニーの涙を指先で、そっと拭うと睫毛を伏せて囁くように言った。

トニーは力強くジェシカを抱きしめた。

「だから、それがまた起きたらと、不安でレストランで弾かないんだね?」

そう訊くトニーにジェシカは無言で頷き、

「本当はリサイタルも凄く不安だったけど…またとないお話だから引き受けさせて頂いたの…何も起こらなくて良かったわ…でも、また起きたらって、もしかしてピアノを弾いている時にって思いながらピアノに向かうのが…怖いの」呟くように言った。

「そうだったんだね…辛かったよね」トニーはジェシカの唇や鼻先や頬にキスをした。

──このまま、この先ジェシカがどうなっても俺は離れない!一緒に居て守るんだ。二度と離れるものか。


トニーは帰国する前日、外国でのツアー最後の公演が終わった後にロバートに自分の決意を話していた。今回のワールドツアーでのライヴ回数を重ねていく度にジェシカと離ればなれになる日数が経っていく毎にジェシカを支えたい、守りたい思いは強くなる一方だった。

「ロバート、後で話があるんだ。部屋に行っていい?」

ライヴが終了した後、ホテルでロバートが泊まっている部屋に訪ねて行く時間を約束してトニーは時間通りに訪ねて行った。

ロバートはシャワーを浴びてナイトガウンを着てソファに座って寛いでいて、訪ねてきたトニーに椅子を勧めた。

「話って?」

ロバートはグラスに注いだスコッチを一口飲んでトニーを見つめた。

「…このワールドツアーが終わったらブルートパーズを抜けたいんだ」

トニーはロバートの目を真っ直ぐ見て言った。

ロバートはスコッチを飲み干し、2杯めを注いだ。

「理由を話してくれるか?」

トニーはジェシカが吸血鬼になってしまうかもしれないという普通に聞いたら、とても信じてもらえない部分を伏せ彼女の体調があまり良くないからということにして(実際、体調不良を起こしているし)出来るだけ傍に居られるようにしたいと話した。何か他の仕事をしながら。

ロバートは黙ってトニーの話を聞いていた。

「そうだったのか…理由は解った。トニーの気持ちを最優先にして欲しい。と言っても実は、このワールドツアーが終わったら、他のメンバーからも休みたいとか抜けたいという話があるんだ」

ロバートは立ち上がると冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してトニーに渡した。

「えっ?そうなの?」

トニーもスコッチを飲みたかったが素直にオレンジジュースを受け取った。ロバートは2杯めのスコッチを飲み干し3杯めを注ぎながら話を始めた。

「帰って落ち着いてからミーティングしようと思っているけど。まず、俺。初めての子供が生まれるから他の仕事をしながらマリアと子育てしたいんだ。それからスティーブはワールドツアーが終わったら結婚するからバタバタするだろうし。アレンも十回目にしてプロポーズをOKしてもらって結婚するし。ジェイミーはワールドツアーで学校を休ませてしまったから彼の親御さんを納得させるには学校に復学してもらわないと…」

「ブルートパーズ解散するの?」

ロバートはスコッチを一口飲むと話を続けた。

「う──ん…解散、活動休止…どちらとも言えないけどな。結婚して落ち着いてから、どうしたいかとか、話し合いしないとだし、ジェイミーも大学に行くだろうから簡単には活動出来ないと思う。話は少し違うけど、外国では、なんで仲悪いのに、そんなにいい音楽作れるの?ってバンドが解散しても二、三十年経ってから再結成した場合もある。俺達は、仲が悪いとは俺は思っていないけどな。皆それぞれの人生があるし。この先、どうなるかは解らないけど…時々でも皆が集まって音楽を作って活動出来たら…と俺は思っている」

未来って、どうなるか誰にも解らないもんな…トニーはオレンジジュースの缶を開けると飲んだ。

そんなトニーを見つめロバートは口を開いた。

「だけど、もし将来ブルートパーズが再結成したら…トニーに声をかけてもいいか?都合がついたら一時的でも構わないから。トニーに歌ってもらえたら嬉しいんだ」

「ありがとう、ロバート…そう言ってもらえて俺、スッゲー嬉しい…うん、その時に都合が合えば是非。俺、ブルートパーズに入って歌って…初めて歌いきった達成感があったんだ。歌うことが好きだったけどライヴで歌う度に楽しくて楽しくて。そうか、こんなに楽しいことなんだ!って心から思えた。ブルートパーズでワールドツアーを経験できて本当に幸せで楽しかったし嬉しかったよ」トニーは目を輝かせながらロバートに言うとロバートは手を差し出してトニーと握手した。

ロバートはさらに握手したままの手を引っ張りトニーを抱き寄せると髪をワシャワシャと撫で、

「俺も楽しかった。ブルートパーズで活動していて一番充実していた。トニーがブルートパーズに入ってくれたからこそのワールドツアーだったんだ。まぁあと1日、地元でのライヴが残ってはいるけど頑張ろうな」と言った。

トニーはロバートの言葉に抱擁で感謝を表した。


トニーはジェイミーが通っている学校の声楽科に編入出来たらと思ってジェイミーにも相談していた。アイドル時代は学校に通うような時間的な余裕は一切なくて読み書きが出来るだけだったので不安はあるが学校に通って働いてジェシカを支えながら傍に居たかった。


「トニー、苦しいわ…お願い、少し力抜いて」力強く抱きしめていたのでジェシカが身じろぎしながら言った。

「ごめん…」トニーは力を緩めてジェシカの髪を撫でた。

明日、ワールドツアーの最終日、ジェシカにライヴを観てもらって…その後、プロポーズしよう。買っておいたペアリングを渡して。少し早いけど誕生日プレゼントのネックレスも一緒に。

トニーはジェシカの髪を撫でながら唇にキスをするとジェシカの目を真っ直ぐに見ながら囁いた。

「ジェシカ、大好きだ…愛している。俺、こんな気持ちになったのは生まれて初めてなんだ。この先、ジェシカが体調不良になったりしても俺、傍に居て支えたいんだ。俺に何も出来ないとしても一緒に居れば何か出来ることがあると思うんだ」

ジェシカは初めて愛していると言われて一瞬戸惑うも潤んだ青い目をトニーに見据え、トニーの唇にキスを返し、

「私もよ…トニー、愛しているわ…その気持ち、とても嬉しいわ」

と、囁いた。今現在の気持ちは嘘偽りなくトニーを愛している。たぶん、死んでも私はトニーを愛しているだろう。二人は唇を重ね合わせ愛し合った。


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