episode7:【何を見てるん?】
日中は気温も上がり、桜をはじめとする植物たちが街を彩り、すっかり春らしくなってきた。だが、夕方から朝方にかけては、まだ肌寒い。
昼間の暖かさをほのかに残した午後5時半。たまには運動でもと、久々にジョギングシューズを履き、家を出た。
田舎なため、街灯はあるものの、全体を照らすほどの立派なものではなく、その場だけを一生懸命、小さな光が照らしている。闇を照らすべきはずの明かりなのに、むしろ街灯の明かりが闇に飲み込まれているように見える。役所を立派にする前にこういうところに税金を充ててほしいものだ。
平日の夕方だというのに、意外と同じように歩いている人や走っている人とすれ違う。中には、毎日歩いたり、走ったりしている人もいるのだろう。頭が下がる。私は【思い立ったら吉日!】タイプの人間だから、あまり継続して何かをやるのは得意ではない。だから、毎日決まったルーティンをこなしている人を心底尊敬しているし、自分にできないことをやっている人は、みんな天才だと考えている。
すれ違う人たちに尊敬の眼差しを送っていたら、信号機のない横断歩道のところに手押し車を押したおばあさんがいた。渡りたいのか……? 幸い、車は来ていない。渡るなら、今がチャンスだ。しかし、おばあさんはそこから動く気配がない。……何をしているのだろう。
おばあさんがいるのは、十字路の北側。私は南側から北上して歩いているため、嫌でもおあばさんの行動は見えてしまう。その十字路は住宅街にあるため、四隅すべてに家が建っている。おばあさんは右上の家の壁に寄りそうようにして手押し車と一緒に立っている。
「……何を見てるん?」
暗くてよくわからなかったが、おばあさんの顔は正面ではなく、右上の家を向いていた。というより、壁に取り付けられている柵の隙間から家の中を覗いているようだった。異様な光景に興味が沸き、ゆっくりと様子を窺いながら、私はおばあさんとの距離を詰めていった。とはいえ、道を挟んで反対側にいるため、横断歩道を渡らない限りはおばあさんと接触することはない。
幸い、おばあさんは私の存在に気づいていない。その場だけしか照らせない街灯もこういう時は役に立つ。
「……………」
ここからでは何を言っているのか聞き取れないが、おばあさんの口元はしっかりと動き、何かを発しているようだった。一体、人の家を柵越しに覗き込みながら、何を言っているのだろう。気になって仕方ない。そもそも、この家の住人とおばあさんとはどのような関係性なのだろう。住人もまさか外でこんなことが起きているなんて、夢にも思わないだろうな。
横断歩道まで距離が近くなってきた。おばあさんは、まだ私の存在に気づいていない。そして、まだ家を覗き込みながら何かを呟いている。もう少し近づければ、少しは声が聞こえるかもしれない。
──だが、そうはいかないのが現実だ。
おばあさんがいる北側から車が走ってきた。闇の中にいた私の姿が浮き彫りとなる。逆光の中、黒い影が叫んだ。
「何を見てるん!?」
明らかに自分に向けて発せられた言葉。しまった。見ていたのがバレた……。だが、おばあさんが追いかけてくることはないだろう。追いかけてきたところで、手押し車を押したおばあさんを振り切る自信はある。昔取った杵柄にはなるが、高校時代の三年間リレーでアンカーを務めていた。何十年も前の話だが、いざとなれば忘れていた何かが目覚めるはずだ。
車は左へと曲がり、辺りには再び闇が戻ってきた。
光が消えたと同時に、おばあさんの姿はなくなっていた。私に見られていたことに気づき、帰ったのか。……おばあさんも毎日あの家を覗いているのだろうか。毎日継続しているといっても、このルーティンは褒められたものではない。
横断歩道を渡り、右折した。先ほどおばあさんが見ていた家の前を通過しながら、「なんで、この家を見ていたのだろう……」と何の気なしに家を見上げた。二階の窓からこちらを見ている50代くらいの男性がいた。この家の住人だ。歩きながら、視線は住人と重なったまま。
そして、その口元が動いた。
「何を見てるん?」
何を見てるん?【完】
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