第41話 志水陽平は選んだ
葛見神社の階段は長い。こんなひどい雨の日には特にそう感じる。
手すりをつかんだおれと泉は、慎重に一段ずつ歩を進めていく。葵のところへたどり着く前に滑って落ちただなんて間の抜けた結末にはしたくない。
二人とも無言だった。吹きつける風の音だけがやけに大きく、降り続ける雨はおれたちの体温を少しずつ奪っていこうとする。次第に時間の感覚も失われていった。
それでも残り十段程度、ようやく長い階段の終わりを迎えたというのに、どういうわけか後ろの泉がぴたりと足を止めてしまった。
「大丈夫か!」
てっきりどこか怪我でもしたのかと思わず大声を出してしまう。
しかし泉は大きく首を横に振った。
「ここまででいい。後は陽ちゃんが一人で行って」
おれに言葉を挟む間を与えず、手すりから離れた彼女が上を指差した。
「葵ちゃんの邪魔をする気はないよ。わたしは二人をいちばん近くで見守りたい、ただそれだけだから」
すらりと伸びた指の先にいたのは考えるまでもない。葵だ。常盤くんが言っていた通り、やはり上にいたのだ。
双子の姉に向かって泉は胸元で小さく手を振った。
「ほら陽ちゃん、早く行ってあげて。葵ちゃんが待ってる」
濡れた金髪を耳へとかけながらおれを促してきた。
わかった、とだけ彼女に告げてまた階段を上がりはじめる。
「お母さんが美味しいごはんを作って待ってるってちゃんと伝えてね。みんなでうちに帰って食べようね!」
背を向けて歩きだしているおれへ、祈りのような泉の言葉は確かに届いていた。
だけど今度は返事をしなかった。
とうとう最後の段を上り終える。
すぐ先に葵が立っていたのだが、豪雨の中でぼうっと佇んでいるだけのような、これまでおれが見たことのないくらい生気の抜けた表情をしていた。
叫びたくなる衝動をどうにか抑えてあくまで平静を装う。
「よお」
まるで学校の廊下で出くわしたみたいな挨拶だが、それでいいんだ。
「──ようへい」
その呼び方にはおれたちが幼かった頃を思い出させる懐かしい響きで満ちていた。
同時に、ぼんやりとして焦点の定まっていなかった彼女の目が、一気に力を取り戻していくのがわかった。
目が覚めたばかりのような葵が言う。
「水が滴りまくってもいい男とまではいかないね、陽平では」
ああ、いつもの葵だ。こうやって毒づかれているとほっとする。
「まあ何だ、散々な天気だよな」
「そう? 雨、わたしは好きなんだけど」
わずかに空を見上げた彼女だったが、すぐにおれへと視線を戻してきた。
「で、あんたはこんなところまで何しに来たのよ」
「そりゃ迷子のおまえを連れ戻しにさ」
負けじとおれも葵を見つめ返す。
だが彼女はそれには答えず、まったく別の話を切りだした。
「猫がね、いなくなったんだ。陽平、覚えてないかな。入学式の後に〈オルタンシア〉で食事をしたじゃない。あのときにわたしがかまっていた野良猫」
黙ったままで耳を傾けているおれに、葵は「勝手にパトって呼んでたんだけど」と続ける。たしか白黒の猫だったと記憶しているが、まさかパトカーから名前をつけたんじゃあるまいな。
「わりと人懐っこい子だったのに、最近は全然見かけなくなってたのよ。ほら猫ってさ、自分の死期を悟ったら姿を消すっていうじゃない?」
なるほど、そうきたか。
「はっはっは、バカめ! それは間違った知識だ!」
葵の誤りを指摘できる機会なんてなかなかあるものではない。ここぞとばかりにおれは勝ち誇ってやった。
「動物はな、生きることを諦めたりなんかしないのさ。どこかに行ってなかなか帰ってこられなくなったのかもしれないし、かわいそうだけど事故に遭ったのかもしれない。でもやつらは案外しぶといんだぜ? ひっそりと死ぬためだけに身を隠したりなんかはしねえんだよ」
おれからの反論がよほど堪えたのか、拗ねたように葵は口を尖らせてしまった。
「ムカつくわ……特にその顔」
「おまえねえ、今までどれだけ同じことをおれにしてきたと思ってんだ」
「さあ、覚えてない。だってわたし、ところどころ記憶がなくなっていってるから」
うってかわって淡々と、こともなげに彼女が言う。
「以前からたまにそういうことがあったんだけど、昨日の夜からかな、とくにひどくなってる。いくつもの思い出が曖昧になってしまって、手が届きそうで届かないの。さっき常盤くんが教えてくれたよ。〈かみさま病〉の人たちはみんな最後にそうなっていくんだって。もう死が近いんだってさ」
「あの人は……」
絶句するしかなかった。
「容赦ないよねほんと。でも、そのくらいはっきり言ってくれた方がわたしも楽だよ。おかげで気持ちが穏やかになったしさ」
強がりといった感じでもなく、いたって自然に葵は笑う。
雨の中、絵になっているその姿に見惚れてつい油断していた。
「ねえ陽平、あんた泉のこと好きなの?」
「んがっ」
あまりに直球な質問に、不意を突かれたおれは思わずのけぞってしまう。
「何だよ急に。そんなの答えられるかってんだ」
「ふーん」
その声音からはまったく納得していないのがよく伝わってくる。
だけど怒っているというわけでももちろんない。
「これから先、あんたの隣で笑っているのが泉なら、まあいいかなと思ってさ」
彼女の言葉に溢れていたのは、優しさと愛情と諦めだった。
いろいろな感情の波に襲われて返事が喉に詰まってしまったおれをよそに、葵はすぐいつもの調子に戻って畳みかけてきた。
「一応言っておくけど、あの生意気な子は脈なしだからね。あんたのことなんかまるで眼中になさそうだったし。調子に乗って勘違いしないように」
生意気な子……ああ、まどかのことか。釘を刺されるまでもなく、それはない。
誰であれ、おれはおまえ以外を選びはしない。
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