(2)

 晴れた日でも野原内外の気配の差ってのはあるんだが、雨の今日は極端だった。野原の外から見ると、静かに雨に打たれている野原に過ぎない。もともと少ない生物の気配がもっと少なくなるから、文字通り雨音以外聞こえないしんとした野原になる。それ以上でもそれ以下でもないんだ。

 しかし一歩牧柵の内側に踏み込むと気配は一変する。静かな野原という形容詞は変わらないが、中と外とが切り離されているようなどうにも奇妙な別所感に襲われる。実際、見晴らしがいいはずの野原からの眺望が、雨だけでなくて他のものでも遮断されているかのようにぼやけてしまう。土砂降りになっているとか、霧やもやに包まれているとかならわかるが、今の降り方はそういうたぐいのものじゃない。それなのに、雨以外のものに視界を狭められているように感じられる。まるで、自分が半透明の筒にすっぽり格納されているみたいな。


「ミセタクナイ……か」


 足早に一周して、牧柵の外に出た。ロープを潜り抜けて外に出た途端に現実感が戻り、牧柵の中が見慣れた景色に戻る。


「親父や穂坂さんも、雨の日に野原に入ったことはなかったんじゃないかな」


 考えてみればごく当たり前のことだ。俺たちが野原で楽しもうと考えるのは晴れた日だけ。こんな雨降りに野原に来ようなんて決して考えないよ。それはこの辺りに住んでいる人にとっても同じだろう。だから野原に踏み入った時の強い違和感は、俺が初めて体験したんじゃないだろうか。


 これまでの経緯でなんとなく思ったこと。この野原には不変を徹底しようとする意思がある。それは神仏のようにどっしりした大きな存在に基づいているのではなく、もっと人臭い。

 好天時の野原には永遠に野原であろうとする強い思いが注ぎ込まれていて、だからこそ変わらない姿に『見える』。外部からの人の目を意識しているとも言える。

 その分、人が入り込むことのない雨の日には警戒心が緩むのかもな。どうせこんな日に野原に入り込むやつはいないし、中を鵜の目鷹の目でチェックされることもない。そんな思い込みみたいなものがあって、俺みたいにあえて入り込むと慌てて目隠しをする……とか。現時点ではなんの根拠もない、単なる思いつきにしか過ぎないが。


 雨によって張り詰めていた心が緩むのは、俺らも同じようなものかもしれない。雨は体温を奪うし、濡れることによる不快感がずっとつきまとう。不快感の中で手足を動かすと集中力が途切れやすくなるし、滑ったり転んだりの危険も伴う。無理に身体を動かさずに休息を取りなさい……雨音がやる気の角を丸め、無意識に行動を強く制限するんだろう。

 じゃあ、その分頭が冴えるかというと、そうは行かない。雨のノイズは単調で切れ間がないからな。思考を組み立てるのもある種の行動に近いから、ノイズに埋もれていると集中できない。逆にぼーっと心を緩めて、感情や思考の切れっ端を雨だれと一緒に散らかす方がずっと楽だ。

 俺みたいな鈍は、そういう緩みが確保されていないと心身が保たない。今日は無理して出て来ずに、家でぐうたらしていた方がよかったかもな。まあいい。作業の予定もないし、草木の伸び具合を確認すればいいだけ。さっさと済ませて帰ろう。相変わらず奇妙な気配を漂わせている野原をぐるりと見回し、車に戻ろうとしてふと違和感を覚えた。


「人影?」


 野原の緩斜面で姿が一部削られているものの、取っ付きからかなり遠いところに黒っぽい人影が見える。気配ではなく、確かに見える。さっき見回った時には人なんざ誰もいなかったが……。

 こんな雨降りに散歩に出る物好きはいないだろう。ここの住人だけでなく、外部の人だってわざわざ雨天を選んで野原に近づくとは思えない。誰だ? 背筋がざわざわする。


 真っ先に確認したのは、そいつが牧柵の外にいるのか中にいるのか、だ。野原の中に入り込まれるのは本当にまずい。好天だから散歩してみたとかならともかく、こんな雨の日に中をうろうろされたらここらの住民にどんな噂を流されるかわかったもんじゃない。もちろん、やっとこさ都市伝説に格下げされた神隠しの再現なんざ絶対に御免こうむる。

 目を凝らして確認すると、雨で視界がぼやけていたものの牧柵が手前に見えている。そいつがいるのは『外』だ。ほっとしたものの決して歓迎できる事態ではない。牧柵の上にまで輪郭が突き出しているので、立っているんだろう。傘はさしていないようだ。煙雨でぼやけてどっちを向いているのか確認できず、男か女かも判別できない。


「濡れ鼠、か」


 一応、注意と退去勧告をしておこう。野原の中だけでなく、その周囲も含めてうちの敷地だからな。

 遠目だとそいつの様子がよくわからないので、ゆっくり距離を詰めながらディテールを確かめることにした。遠目に黒っぽく見えた人影は、そろそろと近づく間に色を取り戻すと思ったんだが、ずっと薄黒いままだ。

 視界を濁らせていた雨の膜が薄れると同時に、得体の知れない人影が徐々に実体に置き換わる。俺は鈍い頭痛とともに、そいつの全貌を捉えた。


「おいおい、浮浪者かよ。勘弁してくれ」

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