第8話 妹、朔夜襲来 1

 いろいろ身体が痛い。


 鬼のスキルを理解しても、身体がついていかないのであれば意味がない。

 僕は全身筋肉痛で呻きつつも受験勉強に手をつける。少しでも時間が出来たらやっておくべきだと思うからだ。このまま澄香もろとも死ぬかもしれないのにと思わなくはないが、この危機を無事脱することができたら勉強しなかったことを後悔するに違いないからである。


「真田くん、買ってきたぞ」


「ありがとうございます」

 ふすまが開いて両手に荷物を持った大沢さんが現れ、僕にコンビニ袋を渡してくれた。


 中身はスプレー式の鎮痛消炎剤だ。あとはサポーターの類いだ。そのうち、関節がやられる可能性を想定してである。大林さんのところの必要経費で落として貰えるのがありがたい。まとめて買うとなると結構な出費だ。


「あとこっちもね」


 残る片手の紙袋には安全靴とサポーターつきのモトクロス用指切りグローブが入っていた。これも僕のリクエストだ。


「何に使うの?」


 澄香が紙袋をのぞき込んだ。


「もし殴る蹴るの事態になったとき、自分の身体が壊れるのは間違いないので、そうならないためのプロテクター」


「なんかすごいことになってるんだね?」


「もう僕、人間じゃないですよ……」


 さっそくスプレー消炎剤を使い、自分の脚や手に吹きかける。冷感タイプなのでひんやりするし筋肉痛が和らいでくるのが分かる。ありがたい。


「背中、スプレーしてあげようか」


 大沢さんが言うと、澄香が僕からスプレーを取り上げた。


「私がやります」


「おお。お嬢、積極的!」


 大沢さんが茶化す中、僕はTシャツを脱いだ。


「お、意外とがっしり――お嬢、照れてる?」


「照れてません!」


 僕の背中に超大量にスプレーが吹きかけられる。


「――もう、大丈夫」


「そう? もういい?」


「目をつぶってよくスプレーできるね」


「そうだったんだ」


 振り返ると澄香は真っ赤になってまだ目を閉じていた。


「ありがとう」


 そして澄香が目を開け、更に真っ赤になって脱兎の如く逃げていった。


 彼女が照れているのが、伝わってきた。


「Tシャツは着ておくべきでしたね」


「本当に男慣れしていないんだな」


「男の子はそういうの好きでしょ?」


「否定しません……」


 かわいいとしか思えない。


 僕はTシャツを着て、再び勉強に戻ろうとするとスマホに連絡があった。


「誰ですか? 彼女ですか?」


「いませんよ彼女なんて」


「知ってます」


 下調べは済んでいたらしい。


「妹です」


 大沢さんが少し間を置いて言った。


「まあ、知らない家に兄が泊まりがけで行っているとなれば心配するわな」


「妹さんが来るんですか?」


 澄香が戻ってきて強い口調できいた。


「なぜ来ると?」


「いや、なんとなく……」


 実際、スマホを開けてみると、妹からの連絡はこちらに向かっているというものだった。そういえば今日は終業式だった。終わってひと段落したからこっちに向かっているのだろう。この家は我が家から自転車で来られる距離である。スポーツ万能の朔夜なら余裕で来るだろう。


 ものの10分ほどで2回目の連絡があり、家の前に着いたことが分かった。


 迎えに外に出ると敷地の入り口に自転車にまたがったままの朔夜の姿が見えた。西高の制服を着ている。着替える間も惜しんだのだろうか。それとも学校から直接こっちにきたのか。だとすると結構な距離がある。


「お兄! 無事か?」


 朔夜は自転車を停めて、僕の方に小走りで駆け寄ってきた。


「うん――無事」


 ついさっき、鬼のスキルを試すまでは元気だった。


「嘘。辛そうだよ!」


「気分は良かったんだ。これは筋肉痛」


「筋肉痛だ?! 体調悪いのに何をしたんだ!」


「話せば長くなるんだけど、まずは暑いから中に入ろう」


「本当に大丈夫なの?」


 いつものことながらうるさい妹である。


 居間まで朔夜を通すと座卓に澄香と大沢さんが座っていて妹を立って出迎えた。


「あ、画像の第一女子の美女!」


「澄香さん、かつら被ってないのにお前、よくわかったな」


「こんな美女、そうそういるわけないでしょ」


「納得」


「大林澄香です。お兄さんをお借りしています」


 そして彼女はうやうやしく頭を下げた。


「長い間は貸さないから。申し遅れました。真田朔夜です」


「お手伝いの大沢です」


 大沢さんも丁寧にお辞儀をした。自分が無礼に思えてきたのか、朔夜はばつが悪そうな顔をして僕を見た。


「ハーレムか。お兄はハーレムを作る気なんだな?」


「そんなわけないだろう。ああ、身体が痛い。座るわ」


 僕は座布団の上にあぐらをかいた。


「お兄、本当に大丈夫なの?」


「うん。澄香さんと一緒にいると不思議に身体が楽なんだよ。父さんから聞いているだろ? 骨髄移植の相手なんだ。何故か体調が連動してる」


「ホラーだ。いや、超常現象だ。ありえない」


「その原因を調べるのに一緒にいて貰っているんです」


 ナイスアシストです、大沢さん。


「たとえそんな理由があったとしても、ここで不便ない? 家にいた方が休めない? 受験勉強もしなきゃだし、これまで通りあたしが面倒見るよ」


「ブラコンか……面倒な」


 大沢さんが呟いたが、それを聞き逃す朔夜ではなかった。


「ブラコンで何が悪いですか!?」


「いや――そうでもない。ブラコンなら」


 含みがある言い方で大沢さんは返答した。


「真田さんがいてくれると私の身体が楽になるんです。いて貰わないと生活に支障を来すくらいで……」


 澄香はお願いするような口調で朔夜に言った。


「僕の方も体調が良くなるんだ」


「だからといってこんな美女との同居をあたしの目が黒いうちは許すわけにはいかない」


「じゃあどうすると?」


「あたしがここに泊まればいい!」


 ここまで朔夜がブラコンだとは僕は思ってもみなかった。


「お前――そこまでしなくても」


「お兄が心配なんだよ。これまで死にかけみたいな半病人だったくせに」


 それを言われると弱い。


「何かやましいことがなければあたしがここに泊まっても問題ないはずだ」


 やましいことがあるんだ、これが、とは言えない。


 ヒトガタや僕の鬼のスキルを見たら朔夜がどう思うのか想像もできない。


「朔夜、お前……失礼だからせめて通いにしなさい」


 困ってそう言うと朔夜は瞳に涙をいっぱい貯めて僕を見た。


「お兄はあたしが迷惑なのか……?」


「いや、そうじゃなくって……」


「お兄、意地悪だ~~!」


 そして脱兎の如く家から飛び出すと、自転車を全力で漕いで去って行った。


「すごい台風娘……」


 大沢さんは呆然としていた。澄香がびっくりして聞いた。


「咲夜さん、お兄さんのこと、大好きなんですね」


「いや、ここまでではなかったんですが――いや、小さい頃はそうだったかな。でも、骨髄移植の後から急に昔の感じに戻りましたね。高校受験で忙しかったから離れただけだったのかな。心配性なんですよ」


「それにあんまり似てない。けど仕草は似てるかしら。兄妹って感じがします」


「よく言われます」


「かわいいですよ。かなり」


「もてるんですよ。あんなお転婆でも。群がる男どもをバッタバッタとなぎ倒してます。中学のときはよく紹介しろとクラスメイトに詰め寄られたものです」


 我が妹ながら、朔夜はかわいい。肩口で揃えられたストレートの髪はつややかできれいだし、スポーツをやっている割には色白だし、目も大きく、ぱっちりして睫毛も長い。ちょっと日本人離れした顔だ。ハーフか何かに間違えられることもある。欠点を挙げるとすれば未だにジュニアのスポブラで十分だということくらいだろうか。


「紹介したら、咲夜さん、怒っていたでしょう?」


 大沢さんがぽつりと言った。


「ええ。どうして分かるんですか?」


「分かりますとも。けど、今日のところはとりあえず撃退できたわけだ」


 大沢さんはキッチンに戻っていく。


「撃退って――朔夜は熊やイノシシじゃないですよ」


「でも、決めないとならないですね。この不思議なイベントが私たちに降りかかっているっていうことを知らせるか、隠し通すか」


 澄香は悩ましい顔をする。実際、悩ましい。


「なるようにしますか。妹も鬼継の血を引いているのなら、可能性はあるわけですから」


 僕は勉強に戻ることにした。


「――え、不安ですか?」


 澄香から伝わってくるのは、理由のわからない不安感だった。


「そうですね。不安です」


 そして澄香は居間に戻り、座卓でヒトガタをまた作り始めた。彼女はどれだけヒトガタを量産する気なのだろうか。確かに紙だから雨に濡れたらダメになるだろうし、何体まで動かせるか試してみたいのだろう。僕の身体の負担が変わらない限りは自由に試して貰おうと思う。


 2時間ほど勉強して、終わりにすると身体がもう楽になっていることに気づいた。消炎スプレーのお陰だけではこうはならない。鬼の力が筋肉の再生にも一役買っていると考えるのが妥当だろうか。


 日がまだ長い時期なので、外は明るい。だが、気温が下がっているようなので再び掃き出し窓を開けて、風を通す。暑いが、扇風機があれば大丈夫くらいだ。


 澄香はキッチンにいるようだった。そういえば夕食は作ってくれると言っていた。


 僕は安全靴を試したくなって、真新しい安全靴を履き、夕焼けが鮮やかな空を見上げながら、庭に出る。


 そして日記の世界で鬼継さんがやっていたような歩法を試し、脱力と全力を繰り返して瞬時に前に進み、最後に大地を蹴ってその力をらせん状に拳まで伝えた。


 また、パン、と破裂音がしただけでなく、破砕音までした。しかも今度は庭に敷いてある大きな敷石の1枚を蹴りの後ろ脚で粉々に砕いてしまったようだった。


「――やば……」


 そして再び、筋繊維が断裂する痛みが全身を襲った。


 安全靴は靴底も丈夫だ。靴は大丈夫でも、僕自身はまだまだダメそうだ。

 その場にうずくまると声がした。


「お兄……」


 僕の目の前に朔夜が呆然として立ち尽くしていた。


 自転車の前かごに荷物を満載し、荷台にも大きな段ボール箱をくくりつけ、朔夜はここ、旧大林邸にリターンしてきていたのだ。


 どう言い逃れよう。


 僕はそう考えたが、名案が浮かぶはずもなかった。


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