パソコン画面を睨みつけ、最後の単語を打ち終え瞬間に椅子にもたれかかる。ようやくできた原稿を見て安堵（あんど）に満ちた溜息が漏れた。

「……ふぅ、終わった」

　閉じかかる目蓋（まぶた）をこじ開けるためエナジードリンクを一気に飲み干す。

　自分の背後に飲み終えたドリンクがどれだけあるかなんて興味はない。

　全部やり切ったという思考が締め切りで壊死しかけた思考回路に仮の褒美を与える必要な処置だ。

「先生ー！！　原稿できましたかー！？　わ、汚ったな！？」

「……うるさいぞ、居部（いべ）」

　乱暴に扉を開けて切羽詰（せっぱつ）まっている担当編集者様が俺の部屋に乱入してくる。

　大声で言う彼女の声は、徹夜の頭には響くな。

「いつも言ってるじゃないですか時間厳守ですよー！？　ギリギリじゃないですかぁ」

「……そんなことを言うならデータ渡さなくてもいいんだが？」

「仕事なんですから、それはきちんとしてくださいっ！！　無職になりますよー有名作家様！」

「……ん」

　だらんと机（つくえ）に突っ伏しながら、右手でスッと居部にメモリースティックを渡す。

　……ここで下手な反論をして本当に一文無しになっても困る。

「ありがとうございますっ、いやー！　先生本当に遅筆だから、担当編集の私は大変ですよー！」

「……貶（けな）してるのか」

　痛む額に手をやりながらやたら皮肉を言う彼女をじとりと睨む。

「軽いジョークじゃないですかジョーク！　なんだぁ、元気じゃないですかー！　それでは、御神渡界刻（おみわたりかいこく）先生の作品今回も売れるよう期待してますので！　では！！」

　ファンタジー小説に出てくるダンジョンの魔窟と評しても違和感のない室内を競走馬の名馬の速度にも似た足捌（あしさば）きで去って行った。

　パタン、と閉じられた音を確認して椅子の背もたれにもたれる。

「はぁ、新作か」

　……まずは、俺のルーティンを熟（こな）そう。

　冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、再度椅子（いす）に座ってから一口飲む。

　目覚めにはふさわしい苦みに頭がすっきりしてくる。

　御神渡界刻とは俺の小説家としてのペンネームだ。徹夜して終えた原稿を尻目に、コーヒーを片手に窓から空を眺めるのが俺の日課だ。夜明けの美しいブルーモーメントを眺（なが）めるのは俺の小説家人生での癒しの一時である。

「……一仕事終えた後のこの風景は、やっぱりいい」

　有名作家にまで上り詰め、この風景が見えるロケーションのいい物件巡りは大変だったが……なんだかんだで今回も乗り切ったのだから良好という物。いつも締め切り前に彼女にも徹夜させているのは悪いと思うが、そこはご愛嬌（あいきょう）という奴だ。

「界刻、もう寝てもいいんじゃないですか？」

　口内に心地のいい苦みが占める優雅（ゆうび）な一時の中、少女の気配を察知した。

　後ろは振り返らず、缶を口から離しながら苛つきを込めて皮肉を投げる。

「……こういう時は楽にさせろ、メアリー・スー」

「ひどいですよ界刻。私はまだ、誰にも描かれていない貴方だけのヒロインなんですからっ」

「間違いじゃないんだからいいだろ、未設定ヒロイン」

「もう！　だったらはやく私を書いてください！！　旦那様っ」

　姿を見せない相棒に文句を言われる。

　はぁ、と小さく溜息を零（こぼ）しつつ意地でも背後は見ない。

「夢遊病にでもかかったか？　怪異様。お前の旦那になった覚えはない」

「ひどいですっ！　唯是透姫（ゆいぜとき）、そう名付けたのは貴方のはずですよ？」

　少女は不満そうに頬を膨（ふく）らませる。わざとその言葉を選んでくる相棒に隠さず不満を口をした。

　俺と並ぶか少し下の高身長でありながら、俺好みの顔でできた美少女の顔面としての黄金比を保たれている……が、その顔面の皮を剥（は）いで生ゴミに捨てたくなるほどの憎悪にはよく襲（おそ）われる。

　老婆の白髪（しらが）よりは若々しく、艶（つや）やかに腰より下まで伸びた白の長髪。洒落（しゃれ）た両横に長いリボンが付いたメイドのホワイトプリムっぽい雰囲気のヘッドドレス。

　青みを帯びた灰色の瞳は、針鼠（はりねずみ）の針と似た視線で俺の内面を見抜かんと虎視眈々（こしたんたん）と狙っている。人型を得ているだけの獣（けもの）のような女なのに他人には可憐な少女にしか映らないのがこいつの怖い所だ。

　薔薇（ばら）の模様が穴になっている特殊なレースが使われたスカートを翻（ひるがえ）し、彼女と契約をしてからつけている南京錠（なんきんじょう）の付いたチョーカーが揺れた。

　全体的にどこぞの絵画で見るどの裸体（らたい）の女よりも肌も服も色白で、ぞっとするくらいに魔（ま）の魅了（みりょう）を秘めた少女の姿を取る怪異に寒気すら覚える。

「もう、界刻は釣れないんですから……まぁ、そこが魅力なんですけど」

「……気色悪い」

「あっ、ひどいです！　私たち、キスだってした仲なのにっ」

「そこに恋慕はない」

　両頬に手を当ててぽっとなんて擬音語が聞こえそうな顔で赤らめる相棒に苛立った声で答える。

　残り少ないコーヒーを再度口にしながら気を晴らす。

「ふふふっ、そんな界刻も好きですよ」

「……勝手に言ってろ」

「勝手に言いましたよ」

　

　本当に面倒なヒロインを爆誕させてしまったな俺は。

　どこまでも貪欲に俺の好みの存在になろうとしている、困った奴だ。

　俺は生涯、二度と誰も愛することはないというのに。

　時計から、七時の音色が響き出す。

「……そろそろ、お時間です。向かいましょうか」

「休みたいんだが」

「ダメです」

「……しかたないな」

　席から立ち、透姫が指を鳴らす。

　突如（とつじょ）として細やかな装飾が施（ほど）された白の扉は開かれ、向こう側から夜空、宇宙の星々の煌（きらめ）きにも似た空間が中で広がっている。

　扉を前に彼女は俺の手を引く。

「では、まいりましょう――――私たちのエデンへ」

　一人の少女と、一人の青年たちは扉の先へと踏み込んだ。