第14話 It'll Be Okay

 三、四時間目の体育が終わって教室に戻り、スマホの通知欄をスクロールしていると、ふと、その中に紛れたLINEのメッセージに指を止めた。

 

『学食で昼飯食おうや』

 

 村山からだった。僕は土の匂いが残る体操服を脱ぎながら、机に置きっぱなしのスマホの画面をじっと見つめた。

 こういうフランクなやり取りを求められているとき、たまに思う。村山は僕とどういう関係のつもりなんだろう、と。


 立場で言えば夏香の元彼氏と現彼氏なのだが、時々その微妙かつ気まずい事実を忘れてしまうほど、村山は僕をほかの友人たちと同じように扱う。

 いいことなのか、僕が察してわきまえるべきことなのか、よく分かっていない。

 

 かつては協力関係にあったとはいえ、夏香の記憶が戻ってからもう十日も経つのだ。

 

 汗を拭いて着替え、少し遅れて食堂に向かう。

 券売機の列に並びながら座席を目で探していると、長テーブルの端の席に座っている村山が見えた。ブレザーを向かいの椅子の背もたれにかけてキープしている。

 スマホをいじっていて、こちらには気づいていない。


 僕はチキン南蛮丼を買うと、トレーを持って彼の元へ向かった。

 村山はスマホでTikTokを眺めていて、似合うなあ、と思った。

 

「よう、お疲れ」

 

 僕は後ろから声をかけた。

 村山は半分頭を真後ろに倒すように僕を見て「うぃーす」と言った。長い前髪が乱れたが、何をしてもイケメンは絵になる。

 

「なあなあ、見てこれキモくね」と、そのまま村山は僕に見ていた動画を向ける。

 僕は「うわ、何それやば」と笑いながら彼の向かいの席に座った。


 椅子にかかっていたブレザーを彼に返すとき、僕は気づいた。村山の前に置かれたトレイと皿には、もう何も食事が残っていなかった。

 ご飯粒ひとつ残さず綺麗に食べられた皿を見ていると、村山が僕の考えに気づいた。

 

「お前来んの遅いって。全部食っちまった」

「いや、こっちはさっきまで体育だったんですけど」

 

 というか、人を誘っておいて先に食べ始めて完食するっておもしろすぎないか。そう訝しみながら丼にスプーンを刺す。

 村山がどんどん縦にスクロールしていくのを見て、いろいろと心配になってきた。

 

「ここで動画見たらギガ減らね?」

「いやー、ちょっと今中毒気味でさ」村山は笑いながらスマホを振った。

「どちらかというと村山、動画作ってる側だと思ってた」

「それめっちゃ言われるんだけど、実は見る専なんだよなあ」

 

 真顔でスマホに何かを入力しながら、村山はつづけた。


「夏香の女子トイレの大喧嘩事件、あっただろ。あれの動画撮ってた奴がネットに上げてないか巡回してた時があってさ。その時にいろいろ見ててそのままハマった」

 

 紙パックのジュースをストローで飲みながら、なんでもないふうに答える。

 僕はタルタルソースを唐揚げに盛る手を止めた。

 

 そういえば、と僕は思う。あの動画は撮った生徒のスマホからは削除されたはずだけど、そうなる前に出回る可能性だってあったのだ。

 そこまで考えが及ばなかった自分を知り、八つ当たりのように、大きな唐揚げをスプーンでふたつに割った。ベージュ色の鶏肉の断面に、でろりとソースがかかった。

 

 自分では、と僕は弁護する。自分では、いろいろ考えて動いているつもりだった。

 だけど、見えないところで村山もたくさんのことを考えてくれていた。僕が思いつかないような対策を、村山はいつもスマホで検索してくれていた。


 いつもこうだ。「彼女」に一番近い場所にいたはずの僕が馬鹿すぎて、全力疾走の途中で見落としていたたくさんのものを周りの人が拾ってくれて、必死に並走しながら僕のズボンのポケットにねじ込んでくれていた。

 そして、そのことに気づかなかった。

 

 叫びそうになった。それをやり過ごすために、唐揚げとご飯とキャベツの千切りを一気に口の中に放り込む。

 僕の焦りに気づいているのかいないのか、村山は呑気に「なあこれ本誌派から一生ワンピースのネタバレ動画回ってくるんだけど、キーワードブロック機能的なのないの」とぼやいている。

 

 かなわないなあ、と思った。

 だけど、辛くはない。悔しいが、なぜか晴々とした気分だ。

 

「おう村山」「よっす」「食うの早」「おお、またあとでな」

 

 通りがかりの知らない男子生徒が何人か、村山の背中を叩いて去っていく。正面で彼と話している僕の存在が気になるのか、訝しげにちらりと横目で見られながら。

 村山に友達が多いことはわかっていたが、そうだとしても僕のような人間と一緒にいることは、かなり珍しいに違いない。

 

 その立場に甘えて優越感に浸ることができないくらいには冷静だった。

 

「今更なんだけどさ」

 

 僕が話しかけると、村山がスマホから顔をあげた。

 

「なんで村山、俺とそんな絡んでくれんの? 俺、夏香の元彼なんだけど?」

 

 ストレートに尋ねると、村山は「え?」と目を丸くした。心底驚いているようだった。

 

「いや、逆になんでだよ。立浪のこと友達だと思ってたの俺だけ?」

「嘘だろどういう性格してんだよ!?」思わず声をはりあげた。

「どうもこうも、俺が一方的にそう思ってただけだったら今すぐただちに一刻も早く友達やめますけどぉ」

 

 拗ねたように言う村山。このふざけた物言いとクールな見た目のギャップが、男女問わず人気の理由のひとつなのだろう。

 それは、誰彼構わず友達にしたがる、とは別のはずだ。

 

 でも、おそらく本心なのだろう。そして、そう思えるくらいには、僕は彼のことを既によく知っていた。

 ということは、僕の立場は友達と同等なのだろうか。そんなものなのだろうか。

 

「鷹揚にもほどってもんが……」

 

 あきれながらそう伝えた。

 だが、村山は不機嫌そうに片目を細める。

 

「別に鷹揚とかじゃねえし。余裕ないし。普通にムカついたりするし。敵作りたくないだけだし」

 

 村山がスマホの画面を切った。

 椅子に背を預けてため息をつき、空っぽになった丼に目を落として、彼はぽつりと言葉を転がした。

 

「正直、夏香の記憶があのまま戻らなかったら」

 

 細い糸のような頼りない声が、テーブルひとつぶんの距離を超えて僕だけに届けられる。

 

「夏香は立浪のところに行っちまうんじゃないかって、ずっと不安だった」

 

 学食の騒ぎ声で、彼の言葉を取りこぼしてしまわないように。

 

「ずっと、ずっと……本当は、ずっと」

 

 僕は彼の下瞼に落ちるまつ毛の影を見ながら、じっと息を殺してその声に耳を傾けた。

 

「だから、ぜんぜん、余裕なんてない。みんなが言うような、そんなんじゃないんだ、俺は」

 

 言えずに溜め込んでいた熱を、テーブルの上にごろごろと捨て置いてゆく。

 

 今まで言わなかったのは、耐えさせてしまった、ということだろうか。

 

 ざわめきの隙間から拾い上げる彼の声は、細く、ちいさかった。だけど、僕はそれを指先に絡めて、つかまえて、離したくなかった。

 ここで離したら、彼がこの言葉を手渡せる相手がもう誰もいなくなる、と思った。

 

 病院で人目もはばからず泣き叫んでいた村山の姿を思い出す。

 

 耐えさせてしまったのは、僕だ。

 

「だけど、やっぱ思うんだ。もしそうなったとして、記憶をなくした夏香は悪くないし、もちろん立浪が悪いってわけでもない。立浪にあって俺にはないものがあったってことなんだって。ずっと立浪が夏香のために頑張ってたのを見てたし、俺のこともいつも気にかけてくれるし、卑屈な性格だから他人のいいところもよく見えてるし。そういうところが夏香だけじゃなくて、色んな人に好かれるんだってのがわかる。だから夏香がまた立浪の元にいたいって思ったとき、俺はなんとかして諦めて、夏香の判断を受け入れないといけないって思って、覚悟を決めようとしたのに、できなくて」

 

 突然。 

 彼の感情が静かに、だけど本流の強さを持って流れ込んでくる。


 これまで彼が耐えてきたものが、冗談のようにたくさん、僕の肋骨のあたりに注がれる。

 今まで誰も、付き合いの長い賢一でさえ、そんなふうに僕について語ることはなかったから、痒く、重く、辛い。

 

「立浪は、お前が思っている以上に、いい奴なんだよ」

 

 そんなこと、と言おうとして、やめた。

 本心だということは、もうわかっている。

 

「夏香の記憶が戻って、俺のことを思い出してくれたってわかったとき、もちろんほっとしたんだけど、なんか、夏香の病室に入ろうとしない立浪を見て」

 

 村山は机を見つめたまま、微動だにしないまま、限界まで目を細めた。

 

「……ちょっとしんどかった」

 

 ひりひりとした痛み。

 

 胸の内側を焼かれるその痛みに、僕は無意識に胃のあたりを手で押さえた。

 

 かっこよくて、性格もよくて、みんなに人気の村山が、僕と同じ痛みを共有していたなんて、実感が湧いてこない。

 

 僕が黙ったままでいると、村山がようやく顔を上げた。彼はきっと、僕が何を考えているかなんてわかりきっているのかもしれない。

 彼は机に頬杖をついて、困ったように笑った。

 

「でも、記憶喪失の夏香がお前といる時と、今の夏香、あんまり変わらないからさ。中学の時も、あの子は今と同じように笑ってたんだなって。だからさ」

 

 そうして、複雑そうに、だけど嬉しそうに、笑いかけてくれた。

 

「夏香の元彼が、立浪でよかった」

 

 顎に当てた手の指の隙間で、形のいい彼の唇が弧を描く。 

 はっきりと言葉を受け止めて、そして、鼻と目の間が急に痛んだ。

 

 いつだって、この人は嘘をつかない、まっすぐに思ったことを相手に伝えるんだ──それを思い出して、僕は否定できなかった。

 

 癖のように転がり出てきていた言葉が、今は腹の中でつっかえつづけている。

 

 以前の僕なら、褒められることに慣れず、反射的に否定していただろう。何言ってんだ、そんなわけないだろ、と。

 だけど今は、夏香を間に挟んだぶん、何も言えなくなってしまった。

 

 僕が前を向けないままでいるのは、僕の手を取ってくれた「彼女」への裏切りだと気づいた。

 

 それを教えられたこと自体が、村山の優しさだとわかる。

 

 だから、肋骨の内側がいつも痺れる。

 

「俺こそ」

 

 素直に伝えた。彼のようになりたいと思って。

 

「夏香が村山と出会えて、よかったって思うよ」

 

 それも、紛れもない本心だった。

 今の彼に伝えることは、何も恐れることじゃないという確信が持てた。

 

 村山は一瞬、ふわりと両の目を見開いた。

 だがすぐに、楽しそうに細められる。目尻に皺を作って。

 

「うん」

 

 少年のように笑う、僕の友達。

 彼が、夏香が愛した、村山禎雪という魅力的な人だ。

 

 僕は同じように、村山に笑いかけた。

 ようやく、彼に向かって心からの笑顔を向けることができた気がする。

 ぎこちなかった頃に比べれば、僕は彼に自分について知られることを恐れていない。

 

 不思議な心地だった。だけど、悪いものでは決してない。

 

 村山はほのぼのしてしまった空気感にむず痒くなったのか、わざとおちゃらけたように目を閉じてため息をつく。

 

「ほんとよかったよ。もし夏香の元彼が、YouTubeで食っていくって豪語する不良崩れとか、二次元の女しか愛して来れなかったオタクとか、政治と陰謀論の話しかできない引きこもりだったりしたら、意地でも夏香を奪い返そうとしてたな」

「TikTokで何見てきたんだよ、村山……」

 

 あきれてそうぼやくと、村山が楽しそうに笑った。

 怒ったり、寂しさを隠したり、迷ったりしていた姿をよく見ていたから、今の村山のほうがずっといい、と思った。

 

 夏香に似て変な奴、と思った矢先、村山の後ろで小柄な女子が立ち止まった。

 

「え、なんで立浪がいるの?」

 

 その声を聞いて、ぱっと顔をあげた。

 両手にトレイとスマホを持った夏香が、理解し難い状況を前に困惑した顔で僕と村山を見比べていた。

 

 反射的に、椅子が音を鳴らすほど体が跳ねた。

 嫌悪感ではなく混乱の目を向けられて、慣れないその夏香の目線にひるんだ。

 

 村山は全く気にせず「おー、待ってた」と言って、僕にしたように頭を傾けて手を上げる。

 

 僕と村山の席の隣は、もう既に埋まっている。

 僕は何か考えるよりも先に両手が丼の乗ったトレイを掴み、椅子から立ち上がろうとした。

 

「じゃあ、俺移動するから……」

「あー、いいのいいの、俺昼練行くからどくわ」

 

 村山がスマホをズボンのポケットに入れながら、僕を制して立ち上がった。

 夏香と僕はほぼ同時に「はっ?」と声をあげる。

 村山は「まあまあまあ」と言いながら、自分が座っていた席に夏香の肩を押さえて座らせ、トレイを代わりにテーブルに置いてやる。

 

「ちょっと待ってユキ、昼練あるならなんで呼んだの」

「なんか夏香、立浪に言いたいことあるって言ってただろ。俺がいたら話せないこともあるだろうし」

「いや、あれは話す前提のことじゃなくて、言えたらいいなーぐらいの感じで」

「じゃあいいじゃん、今その機会ってことで。ちゃんと言わないと後悔するだろ、色々と」

 

 ぽんぽんと夏香の肩を叩き、彼氏が彼女に囁きかける時専用の声で村山が言う。

 夏香はぽかんとして、状況を飲み込みそこねて、なおも「でも」と詰め寄る。

 

 そうか、と僕はようやく理解した。

 村山が先に食事を済ませてたのはそのためか。

 

「お前、飯食おうってLINEしてきたくせに……」僕は精一杯彼を睨みつけた。

「一緒に食おうとは言ってねえもん、ただ学食でって話で」

「日本語遊びすんなし」

「まあほら、な、聞いてやれよ。俺のためにもなると思ってさ」

 

 そう言いながら、村山は僕の背中を思いっきり叩いた。二度も。「じゃあガチで遅れるから」と言って、夏香の静止を聞かずに学食を去っていった。

 僕は腰を浮かせ、本気で止めようとしたけれど、なんだか言葉がどれもこれも嘘くさくなる気がして、やめた。

 

 夏香が不思議そうに村山の背中を見つめ、僕を見て、そしてまた、村山を見る。

 

 今カノを元カレと一緒に置き去りにするってどういう神経だ、と思ったけれど、聞く耳を持たなそうな相手は学食のドアを閉めて、僕たちの前から姿を消してしまった。



   ・ ・ ・



 ほかの生徒の喧騒が急に煩わしい。気まずさを消すためか、僕と夏香は長いこと、村山を吸い込んだ正面入口をふたりで見つめていた。

 それさえも気まずくて、僕はぽかんと開いた馬鹿な口を閉じられないまま、ゆっくりと椅子に座りなおした。

 

 それを待っていたように夏香も姿勢を正し、ちらりと僕を見て、だがすぐにトレイの上に置かれたスプーンを手に取った。彼女が食べようとしているのは、学食名物のコロッケカレーだった。

 綺麗な所作でそれをすくいながら、「なんか」と彼女が言った。

 

「変な感じなんだけど。立浪、いつの間にユキと仲良くなったの?」

「いや……」

 

 話しかけられたのは病院ぶりだった。

 夏香はどうもこの事実だけは捨て置けないのだとばかり、口をもぐもぐさせながら眉をしかめて僕を見ている。先刻と同様、嫌悪感などではなく、疑問でいっぱいの表情で。

 その目元はしっかりとメイクが施されていて、ここ数ヶ月の夏香よりずっと、大人っぽく見えた。

 

 自分の彼氏と元彼が親しくしているなんて、女子にとってはあまり気持ちのいいものではないのかも知れない。

 僕が逆の立場でもなんだか嫌だ。

 

 僕は夏香がどこまで知っているのか、まだわかっていなかった。だから、踏み込みどころに迷った。

 

「あの、とりあえず」僕はうまく夏香の顔が見れないまま答えた。「村山と俺は協力関係にあったんだよ、この二ヶ月ちょい」

「二ヶ月……」

「意識がなかった日数もふくめたら、ざっくりそれぐらいの期間、記憶がなかったことになるんだけど。な……」

 

 僕はまた、夏香、と言いそうになって、死ぬ気で飲みこんだ。

 嘔吐を耐えるようなこの感覚も、ずいぶん久しぶりだった。

 

「片岡がどこまでこの二ヶ月のことを知らされてるのか、正直わかんないから、何から説明すればいいのか」

「いや、あの、別にそこまでガッツリ追及したいわけじゃないんだけどね」

 

 夏香は右手にスプーンを持ったまま、左手で目元を押さえた。困りきったようすで、頭を振ってため息をつく。

 

「なんか、階段から落ちた時に消えた私の記憶が、ちょうどここ三年分で」

「うん、合ってる」

「だから、三年前の私とほぼ同じになっちゃって」

「うん」

「私と立浪が付き合ってた時のことまでしか覚えてなかったっていう……」

 

 とうとう両手で頭を抱えた夏香。綺麗な編み込みにしたハーフアップが崩れそうになる。

 伝え聞いた話だけでも、自分が何をしたのかをあらかた想像できるらしい。羞恥か屈辱か、何かに耐えかねているようだった。


 僕はほとんど反射的に、ぼそっと「なんかごめん」とつぶやいた。

 

「なんで立浪が謝るの」

「いや、なんとなく」

「別に非難してるわけじゃなくて、あの、むしろ謝るのはこっちで」

 

 夏香はカレーに前髪がつきそうなほど深く、ぺこりと頭をさげた。

 

「色々お世話になりましたごめんなさい」

「え……」

 

 まさかそう来るとは思っていなかった僕は面食らい、ほとんど中身を食べ尽くした丼にカランとスプーンを落としてしまった。

 

 夏香はカレーを食べながら、うんざりしたように「うちの親がね」と話を切り出した。

 

「お世話になったんだからちゃんとお礼言いなさいって、いろいろ聞かせられたの。別れた相手なのに面倒見てくれて、勉強も見てくれて、励ましてくれて。そもそも私がユキのこと覚えてないから立浪とべったりで、二ヶ月間ずっと一緒にいて気にしてくれたんだって」

 

 それで謝るなんて、本当に真面目だ。

 彼女はもう一度、湿っぽい息を鼻から吐いた。

 

「私、記憶ないくせに学校に来ようとしたんだってね。授業だって全然追いつかないのに、頑張って勉強して、それを立浪とか瞳ちゃんとかが手伝ってくれたって」

「ああ、うん、まあ」自分のやったことを思い出して、なんだかむず痒い気持ちになった。「頑張ってたよ、片岡。だから、その流れで成り行きというか、片岡絡みで村山と手を組まざるを得なくなったというか。俺たちふたりだけじゃなくて、賢一と瞳もそうなんだけど。事情を知ってる仲間同士でお互いに声掛けしあってたんだよ」

「ああ、そういえば、そのメンバーでグルチャあったな……」

「抜けてもいいよ、記憶が戻ったならもう使うこともないだろうし」

 

 傷の舐め合い、とはわからないように気をつけて言葉を選んだ。

 頑張っていたアピールをしたくなかったのと、村山がどこまで夏香に弱みを見せているか、わからなかったからだ。

 

 夏香はスプーンでゆっくりとカレールーを集めながら、消え入りそうなほど小さな声で「そっか」とつぶやく。

 その夏香の態度でわかった。おそらく、村山は何も話してない。自分が迷っていたこと、焦っていたこと、不安で仕方なかったことを。

 

 ふと、夏香は思い出したように人差し指を立てる。

 

「あと、バレンタインのチョコ。バケツにいっぱい入ってるやつ。冷蔵庫にあって、立浪がくれたんだってね。ありがとう。まだ開けてないけど」

 

 そこまで言われて僕は気が付いた。

 僕が「彼女」のために書いた手紙を、紙袋の中に入れっぱなしだったことに。

 

『ハッピーバレンタイン。早く体調が戻りますように。少しでも長く一緒にいられますように。俺も夏香に釣り合うよう、もうちょっと頑張ります』

 

 あれは今の夏香が読んでいいものではない気がする。

 冷や汗をかき、「手紙は」とたずねた。

 

「読んだ」

「捨ててくださいガチで」今度は僕が頭を抱える番だ。

「いや、だって、私へって書いてあったし。記憶喪失の私に宛てて書いたものだろうなって思ったから。私は私でも違う私だけど」

 

 八つ当たりのように、スプーン大盛りに残りのごはんとカレーをすべてすくうと、がぶりと一口で食べた夏香。

 だらだらと汗を垂らしそうになる僕を前に、夏香はいっぱいになった口を動かしながら、無言で皿を見つめていた。

 寂しそうに、悲しそうに、つらそうに──細められた目は、僕を見ていない。

 

 見えないその瞳の奥に溜めこまれた感情の体積を、僕ははかれない。

 

 夏香は静かに、空になった皿の上にスプーンを置く。

 

「実感した」

 

 夏香の声は、かすかに震えていた。

 

「本当に私は、この二ヶ月間、ずっと立浪と一緒だったんだなって……恋人みたいに」

 

 意外なのか、不本意なのか、不思議で仕方ないのか。

 半分伏せられた瞼が、アイシャドウのラメできらりと光る。

 

「私のこと、馬鹿らしいと思わない?」

 

 夏香が自嘲気味に笑いながらそう言った。こちらの魂がナイフで削られてしまいそうな声だった。

 うつむいたまま、僕に表情を見せないまま、流れる水のように弱音を吐きはじめた。

 

「記憶喪失だからって、自分から振った元彼に縋って、ずっと避けてたくせに仲良くして、都合よすぎだよね。よりによって付き合ってた頃まで記憶が消えるなんて、立場を利用してくださいと言わんばかりで……」

 

 それは、女子トイレでの事件で、「彼女」が別の女子生徒たちから罵倒されていた内容と、ほぼ同じだった。

 あのとき、泣きながら女子生徒たちを殴った「彼女」を思い出して、頬骨のあたりがツンと痛くなる。

 

「最近のユキ、私のこと過保護なぐらい気にするから、ユキのことだってきっと粗末に扱ってただろうなって思って。だって、記憶がない私、ユキのことを完全に忘れてたわけじゃん? ユキはずっと、気にすんなとか、そんなことなかったよとか言ってくれるけど、絶対嘘だってわかる。私が元彼を頼りにするのを、いい気分で眺めてるはずないじゃん」

 

 村山さん、とか、村山くん、と呼んでいた「彼女」を思い出す。

 そんなふうに呼ばれて、いつも柔らかな笑顔を浮かべる村山が、本心ではどんなことを考えていたのか。そして今、どんな気持ちで記憶が戻った夏香に寄り添っているのか。

 

「別れた元カノが都合よく寄ってくるなんて、立浪のことだって散々困らせたと思うし、立場的に迷惑かけたと思う。普段の私たちって関わりがないから、それで周りからもあれこれ言われただろうし。元カノの存在が邪魔に思うことだってあったはずだけど、立浪って優しいから、私が何か言っても断れなかったんだろうって」

 

「ストップ」

 

 僕は思わず、夏香の手を掴んだ。ほとんど無意識だった。

 

 夏香ははっと顔をあげた。

 その目には綺麗な涙がたまっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。

 

 他人の彼女の手を掴むなんて。

 一瞬、そんな空気の読めない倫理観が頭をかすめたが、いたたまれず、僕はまっすぐに夏香の目を見た。

 

「それ以上、自分のことを悪く言わないで」

 

 掴んだ手に力を込める。

 

 じっと夏香の瞳を見つめた。聞いていてつらくて、眉をひそめて、唇を引き結んだ。

 夏香の瞳は震えたまま、自分で流した血と同じ色をにじませている。

 

 ひとつだけ、誤解していたことがあった。夏香は別に、この数ヶ月のことを何もかもどうでもいいと思っていたわけじゃなく、同じように悩んでいたんだ。

 

 自分は記憶喪失だったという事実を理解したあと、それを納得させることが難しくて、映画仕込みの無限の想像力のためにこの十日間、苦しみ続けていたんだ。

 それを先に察した村上が、この場を作ってくれたのだ。

 

「俺も、村山も、みんな、片岡が笑ってくれるようにってやったことだから」

 

 君をまた好きになってしまったから、なんて、言えないけれど。

 

「絶対に後悔しないで欲しい」

 

 夏香がまた、前を向いて笑顔で歩けるように。

 

 言葉選びが下手糞で、言いたいことの一割も伝わっていない気がしたけど、伝えるしかなかった。

 大丈夫だから、何も心配しなくていい、後悔しなくていい、君はうまくやっていた、と。

 

 目に溜まった涙がこぼれるのを、夏香は必死に耐えていた。落ちないように目を閉じて、上を向いた。

 

 それでも、右眼の涙がこぼれそうになった。

 僕は、何も考えず──本当に何も考えないまま、手を伸ばしてそれを二度、親指で拭った。

 伸びる瞼。ふに、と少し触れた夏香の皮膚の、柔らかい感触。

 

 僕を見る夏香の目が、驚きに見開いていた。

 涙はもう、そこにはない。

 

 その代わり、目元につけていたアイシャドウが、僕の親指の腹ですっかり拭われてしまった。

 

 素肌に戻った右目元は、そこだけ、たった一か所だけ──中学生の時の「彼女」のような目をしていた。

 

 指先にびりりと雷が走った。

 雪の中、中学の校庭で、僕をまっすぐに見てくる瞳。涙を浮かべた素顔の瞳。

 思い出して、突き刺さって、背筋に雪の塊を突っ込まれたような心地がした。

 

 この瞳の奥に、今、誰が。

 

 僕は親指についたアイシャドウの粉を服の端で拭き、慌てて席を立った。

 とにかく夏香の目の前から立ち去らないと。また縋ってしまう。また、君に──

 

「ちょっと待って」

 

 夏香が立ち上がる音がした。

 食堂から早足に去ろうとする僕の肩を、強い力で彼女が掴んだ。


 

「待って、彰!」


 

 足元に写真が一枚、ひらりと落ちる音がした。

 声にならない声が漏れた。

 ゆっくりと振り返ると、二ヶ月前と変わらない高さから、夏香が僕を睨みつけていた。片目だけ、すっぴんの夏香のまま。

 

 僕の肩をしっかりと掴んで、上目遣いでため息をつく。

 

「トレイ」

「え?」

「食べ終わった食器、ちゃんと戻しなよ」

 

 あ、という雑音が喉から漏れて、夏香の手から解放された。

 彼女のさらに背後を見ると、ふたりが食べ終えた食器とトレイがテーブルに残ったままだった。ついでにスマホも置きっぱなしだった。

 

 僕は肩を落としてUターンし、スマホをズボンのポケットにしまうと、ふたりぶんのトレイを両手で回収した。

 

 彰。

 そう呼ばれたのは一ヶ月ぶりだ。

 

 トレイを返却口にかえし、洗い物をしているおばちゃんに「ごちそうさまっした」と声をかけた。

 そのまま同じ出口から食堂を出たとき、僕はしどろもどろになりながら夏香にたずねた。

 

「さっき、彰って呼ばれたような」

 

 うえっ、と夏香が叫んだ。どうやら無意識だったらしい。

 食堂の外の広い廊下で立ったまま、夏香がわかりやすくげんなりした。

 

「いや、もう、いいよ。名字で呼ぶのめんどくなってきた」

「何何何、どういうこと」

「あの、だから……」夏香はばつが悪そうに目をそらし、両手を掻き抱いた。「下の名前で呼ぶと、付き合ってた頃の色んなのを思い出してわーってなるから。それが嫌で名字呼びにしようとしたんだけど、慣れなすぎて、なんか、意識的にしないと無理っていうか」

 

 まごつきながら言う夏香に、僕は「えええ」と変な声をぶつけてしまった。

 食堂の隣にある保健室から出てきた下級生が、訝しげな目線をこちらに送る。

 

「やりにくいならわざわざ変えなくても、前のとおりでいいのに」

「だからわーってなるって言ってるじゃん。そもそも私の下の名前を呼び捨てにする男子がユキしかいないし」

「俺はてっきり、俺たちが付き合ってたことが高校でバレないようにって、それで片岡って呼ばせられてるのかと」

「それも込みなんだけど、別れた人を下の名前で呼ぶ自分もキモいっていうか」

 

 頭を軽く横に振る夏香。

 女の恋は上書き保存式、という瞳の言葉が急に信憑性を増す。女子は特別扱いする異性を分散させたくないということなのか。

 

 僕たちは生徒たちを避けるように窓際に寄って、窓枠にもたれかかりながら話した。

 

「色んな、っていうのは」

「色んなだよ」夏香は僕のほうを見ないまま、床を見つめてこたえた。「私たち、ものすごい喧嘩別れだったし、彰のやったことが最悪だったと今でも思うし」

「まあね」

 

 自分でも驚くほど、すんなり肯定できた。夏香もその時ばかりは、顔をあげて僕のほうを見た。

 きっと、あっさり話を進められるとは思っていなかったのだろう。僕もそう思うから、唇を引き結んで彼女を見つめかえす。

 

 雪の日の中学校で「彼女」にこの話をしたとき、大粒の涙を流しながら話を聞いてくれていた。

 その時に比べれば、ある程度現実を飲み込んだであろう大人の彼女を相手に話すほうが、お互いに感情の負担が少なくて楽だ。

 

 喧嘩別れ。

 あれだけのことが起きて、今ではたった四文字で表せてしまえるのかと思えてしまう。

 

 夏香は洋画の主人公のように肩をすくめて、「終わり悪ければすべて悪しとまでは言わないけど」と言った。

 

「あの日のことはあんまり思い出したくないっていうか、ラストが最悪すぎて、それまでいい感じの話だったのに全部台無しになる映画みたいだったなって」

 

 言葉尻が少しずつ細くなって、夏香の声がしぼんでゆく。

 映画選びに失敗して、だけどそれなりによかったところを見つけてきて、レビューサイトにも星一をつけるなんてことは、夏香なら滅多にないのに。

 

「ラストで全部台無し、かあ。確かにあるな、そんな映画」

 

 僕が天井を見上げながらぼやくと、少したって夏香が「ね」と呟いた。

 

 うまく言葉にできない。

 

 思い出のように語られる過去の脚本は、赤ペンだらけで、いつだって僕のことを脅迫し、いたずらに叱り、頭に向かってボールを投げ、時には慌てて耳を塞ぎに来て、甘い言葉で道を変えるよう誘惑してきたけれど。

 

 それだけじゃないと思いたい。

  

 たまに、空を覆うほど大きな寂しさに怯える僕のかたわらに立って、肩を優しく叩いてくれたりしたはずだ。

 

 僕が願っていた彼女の笑顔が、三年たって、まだ続いているのだと思いたくて。

 

「夏香は」

 

 僕は天井から彼女に目線を落として、たずねた。

 

「中学の時、俺と一緒にいて、ちゃんとしあわせだった?」

 

 夏香も、僕のことを見上げてくれた。

 

 もしかしたら、ずっと、それが知りたかったのかも知れない。

 

 失ったものがせめて、自分のそばにいてよかったものだと思いたいがために。

 いないほうがよかったと思われていないか、確かめるために。


 食堂から出てくる生徒の喧騒の中、夏香は僕を無表情で見上げ、そして、不思議で仕方ないというふうに首を傾げた。

 幼い仕草だったが、僕の言葉の真意を深く探ろうとする大人っぽさを孕んでいた。

 

「それは……」

 

 言い終わる前に、つう、と頬を伝った、一筋の涙。

 

 僕の指でアイシャドウが拭われた、素顔の右目だけから。

 

 はっと息をのんだ。

 同時に夏香も「えっ」と動揺し、右目から流れる涙を慌てて制服の裾で拭いた。そのせいで余計にメイクが落ちる。

 ラメでキラキラ輝く左目とは違う、すっぴんの右目から、次々に涙が溢れてくる。

 

「何これ、待ってごめん、なんか変」

 

 夏香は本気で困惑しているようだった。声も普通だった。

 眉を顰めながら「これってやばくない?」と言って僕を見上げたそのとき、メイクで美しく整えられた左目と、涙が勝手に溢れてくる素肌の右目が、同時に僕の前にさらされた。

 

 まるで冗談のようだった。

 

 三年前の──いや、ひょっとしたら二ヶ月前かも知れない「彼女」によく似た目元から、透明な雫がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 

 どうして、と思う。

 

 制服の端をぎゅっと掴んだ。そうでなければ夏香を抱きしめてしまいそうだった。

 奥歯が震えて、何かを言おうとしてひらかれた口は、「彼女」には伝わらないだろうと思って、静かに閉じられた。

 

 伝わらない、ということは、向こうから伝えられることもない、という意味でもある。

 

 きっと、この涙が今のすべだ。

 夏香にとっても、「彼女」にとっても。

 

 僕は抱きしめそうになるのを、泣きそうになるのを、叫びそうになるのを堪えて、その涙を指で手早く拭いてやった。

 夏香は驚いていたけれど、嫌がらなかった。

 

 耐えられなくなって、僕は歯を食いしばってうつむいた。

 鈍い音を鳴らす奥歯が、ひどく痛んだ。

 

「……ちゃんと、しあわせだった?」

 

 もう一度たずねた。

 彼女の顔は直視できない。見てしまったら最後、もう「彼女」を忘れることはできないと思ったからだ。

 

 目をぎゅっと瞑ったとき。

 

「うん」

 

 桜の花びらのように、言葉が舞い降りた。

 

 詰まりそうになった鼻をすすりながら、ゆっくりと顔を上げると、夏香が──もう涙を流す必要のなくなった夏香が、呆れたように微笑んで僕を見下ろしていた。



  

「そりゃそうだよ」

 


 

 ちゃんと。

 ────ちゃんと。

 

 僕が大切にしたかった女の子が、笑ってくれていた。

 僕のそばからいなくなっても、笑ってくれていた。

 

 両目を細めて笑う、大好きだった女の子。

 彼女はみっともない猫背で泣きそうになっている僕を見て、ははっと笑った。

 

 笑われて、なんだか僕も笑ってしまった。

 最後まで耐えきれた涙は、笑い声と一緒に飲み込んだ。

 

「そっか」

 

 僕がそう言うと、彼女も笑って「うん」と言った。

 

 もう二度と僕には向けられないと思っていた笑顔だった。

 

 明日から、その笑顔は違う人に向けられる。

 だけど、それでよかった。

 

 教室で、廊下で、自分の部屋で、公園で、雪の降りしきる中で──いつも不安そうにしていたり、泣いたり、迷ったりしていた頃に比べれば、ずっといい。

 

 もう泣かなくてもいいのなら、よかった。

 それだけで、僕が大事に守ってきた時間は無駄じゃなくなる。

 

 僕が彼女を愛したことに、揺るぎない意味がある。

 

 安心してどこかに仕舞いこんでおける。

 いつか取り出した時に、笑って懐かしむことができる。

 

 僕は笑いながらちゃんと背を伸ばして、まっすぐ立った。垂れかけた鼻水を啜ったとき、夏香が僕の頭の上に手を伸ばして、優しく微笑んだ。

 

「久しぶりにちゃんと見たけど」

 

 見上げる彼女の目は、以前と変わらず、透き通って美しい。

 

「背が伸びたね。前に比べて」

 

 変わらない美しさと、変わってしまう美しさ。

 

 それでも、フィルムに残された甘い日々が、また僕たちの背中を蹴飛ばしてくれるから。

 

 だから、笑って思い出せる。

 

「一年の時に、急に伸びたんだよ」

 

 僕は肩をすくめて、ごまかすように笑いかけた。



   ・ ・ ・



「私、記憶喪失の間、彰と映画ばっかり見てたんじゃない?」

 

 食堂のある別館から本校舎へ伸びる渡り廊下の真ん中で、夏香が言った。グラウンドで遊んでいる生徒を眺めながら、僕は彼女の隣で塀に手をついて「まあね」と言った。

 三月直前の風は冷たかったが、空気は徐々に春の優しさを孕んでいた。

 

「そのへんは中学の時から変わらないし」

「なつかしいなあ。何も知らなかった彰がどんどん映画を見て、どんどん詳しくなっていくのが面白かった。初めて一緒に『タイタニック』のリバイバルに行ってから、急に価値観変わったよね」

 

 僕と同じように塀の上で両腕を組んで、思い出を語る夏香。

 グラウンドを見ているその表情は穏やかだったが、瞳はどこにあるとも知れない真っ白な一枚の紙を探しているようだった。

 

「彰って、今も映画見てる?」

「そりゃあ」僕はため息と一緒に、半分愚痴めいて話した。「某映画オタクさんの彼氏だったもんで」

「あれから大人になったし、好みも変わったんじゃない?」

「どうだろうね」僕は夏香が意識を取り戻すまでの間、手当たり次第に映画を見ていたことを思い出した。「昔からヒューマンドラマと宇宙ものの映画が好きなのは変わらないよ。ああでも、ちょっと古めの名作を漁るようになったな。『アルマゲドン』とか。最近も『ローマの休日』見返した。好きだったよな、あの映画」

「あれね! 好きどころか永久殿堂入りだよ」

 

 夏の空の下でカラフルな水風船が割れるような笑顔。彼女の表情を透かして、映画の名シーンが浮かぶ。

 ローマの街を歩いているだけで、男性の心を次から次へと奪ってゆく無邪気なアン王女に、夏香はよく似ていた。

 考えてみれば、今の夏香の編み込みハーフアップは、髪を床屋で短く切る前の王女の髪型にも似ている気がする。

 

「よく一緒に公園とか空き教室とかで映画見てたよな、タブレットで」

「やったやった。今思うと、冬以外とはいえよくやったよね、私たち。『ローマの休日』もそうだけど、二日かけて『スラムドッグ・ミリオネア』とか、あと『グリーン・ブック』とかも公園で見たよね。マニアックなとこだと『ミッション・トゥ・マーズ』とか、『バタフライ・エフェクト』とか……」

 

 えっ、と声が出そうになった。

 『バタフライ・エフェクト』?

 

 タイトルを頭の中で復唱して、今度は本当に「えっ」と声に出してしまった。

 夏香が僕の方を見て、「どしたの?」とビー玉が転がるような声でたずねた。

 

 忘れるはずがない。『バタフライ・エフェクト』は一ヶ月前、学校に行くのをやめてしまった記憶喪失の夏香と一緒に見た映画だ。

 配信がなく、ブルーレイやDVDは高額取引されている、だけど名作と語り継がれるあの映画。

 

 見たいと夏香が言っていた。だけどそれは、見たことがない、ということだ。

 

「え、あれ、今……」

 

 夏香は自分の言葉を疑うように、口元にそっと指先を当てた。

 

「私、それ見たっけ? あれ? 見たような見てないような」

「夏香……」

「いや、見てるな。ちゃんと内容覚えてるもん。でも、なんでだろ、確かあれってレンタルも配信もないし、DVDも高すぎて買えないから、どうやって見ようか悩んでたのに。いつどこで見たっけ……?」

 

 目線をあちこちに泳がせながら、何度も何度も首をかしげながら、夏香が悩んでいた。

 頭の狭い隅に追いやられた、粉々に砕けた透明な記憶を、どうにかして振り出すように。

 

 彼女が目をぱちぱちと瞬かせるたびに、右目の瞼がちいさくきらりと主張する。

 

 どこかに。

 いつか僕が忘れてしまっても、夏香の記憶のどこかにいるはずなんだ。

 

「それは」

 

 僕は意を決して伝えた。「年明け前に、俺と夏香で一緒に見たんだよ。記憶喪失だった君と」

 

 いて欲しいと、心底願っていた。

 

 夏香がまっすぐに僕を見た。戸惑い、疑問でいっぱいだった表情が、僕の言葉で濾過されてゆく。

 彼女は一瞬、傷ついたような目をした。それを見て、僕も一瞬、後悔した。

 だけど、数秒かけて自然と納得がいったのか、夏香はつるりと目線をグラウンドに向けた。遊んでいる生徒をじっと見つめる表情は落ち着いている。

 

 苦しいわけでも、悩ましいわけでもなく、腑に落ちただけのようだった。

 

 春の寛大さを孕んだ風に目を細めながら、夏香は「そっか」と呟いた。

 僕たちの後ろを走り去った生徒たちの騒ぎ声にかき消されそうな声だった。

 

「そのときの私も、ちゃんと私だったんだね」

 

 グラウンドからドッジボールをしている生徒の笑い声が飛んできて、校舎から吹奏楽部の昼練の演奏が聞こえる。

 昼休みの音の中で、夏香の声だけがつよく、倒れてしまいそうなほど強い力で、僕の心臓を押した。

 

 僕と「彼女」だけの思い出だと思っていた。僕が忘れたら永遠に消えてしまうと思っていた。

 

 だけど、そうじゃなかった。

 「彼女」はいつだって────夏香だった。

 

 納得したように空を見上げた夏香の顔をのぞきこむ。

 不安はなかった。なくなってしまった。

 晴れ晴れとした気持ちをあらわすように、彼女の口の端がくっと上がっていた。

 

 野球場から金属音が聞こえてきた。それが消えるころ、夏香は大きく伸びをした。

 首だけで振り返り、連絡通路を駆けてゆく下級生を見ながら、「もらったチョコ、私が食べてもいいのかな」と言った。

 

「え、なんでだよ。映画見ながら食いなよ」

「うん、まさに映画のお供って感じだった。ありがとう」

 夏香はスマホで時間を確認した。「まだ封開けてないんだよね。楽しみで」

「早く食べないと、賞味期限的なのがあるだろ」

「そうなんだけどね。バケツの柄がかわいいから、とりあえずストーリーに上げてからにする。何が入ってるのかなって考えるのも、わくわくして楽しいし」

 

 へへ、と笑う姿は昔と変わらない。

 化粧をしても、髪を染めても、制服が変わっても、彼氏が変わっても、夏香は夏香だ。

 僕たちを魅了してやまない、この学校の人気者だ。

 

「ほら、『人生はチョコレートの箱』っていうじゃない」

 

 スマホをブレザーのポケットに入れながら、夏香が後ろに数歩、ステップを踏んで言った。

 僕はその言葉を知っていた。とても楽しい言葉だと思った。

 

「『開けるまで中身はわからない』だよね?」

 

 合言葉のようにそう言い合って、見つめ合って、僕たちは笑い合った。

 

 僕と君が描いた白紙の未来は今も白紙のままだし、なんなら真っ黒に染められてしまったかも知れない。

 だけど、それならば、次のページをめくればいいだけだ。あるいは、新しいノートを開けばいいだけだ。

 

 そこではまた真っ白な紙が、僕たちの最初の一文字を待っている。

 何度でも、何度でも、綴ればいい。

 

「じゃあ、私、道場のほうに行ってくるから」

「昼練の見学?」

「そうそう。ユキ、県大会控えてるし、最近増やしてるっぽいんだよね」

「じゃあ、よろしく言っといて。あと、片目の化粧取っちゃったから」

「え、あ、ごめん、さっき拭いてもらった時か。後で直すから気にしないで!」

 

 夏香はそう言いながら、渡り廊下の端にある階段へ向かった。

 渡り廊下を曲がる時、上にいる僕を振りあおいで、空に抜けるような声で叫んだ。

 

「またね!」

 

 一度は、さようなら。

 

 ちかちかと目がくらみそうな笑顔は、すぐに階下に吸い込まれていった。

 その光に、反射するプリズムに、めまいを起こしそうになる。

 僕は立ちくらみで倒れてしまう前に、夏香とは逆方向、上階への階段をあがり、自分の教室を目指して歩いた。

 

 さようなら、に続きがあったなんて、僕は知らなかった。

 

 足元に散らばって道を塞いでいた写真が、僕の走る道を空けるように、ふわりと舞った。

 

 風に乗って、雪のように、窓の外から空へと飛んでゆく。

 ばさり、ばさりと、鳥が翼を広げて飛び去るような音を立てて。

 

 それを見上げることもなく、僕は昼下がりの日差しがさしこむ廊下を、まっすぐ歩いた。



   ・ ・ ・



 きっとすぐには忘れられない。だけど、いつかは忘れてしまうだろう。

 

 大切に、大切に守りつづけてきた記憶の破片。

 

 あの何気ない日々。夏香との日々。映画館で告白をした。OKをもらった。一緒に映画を見た。キスをした。並木道を歩いた。買い物に出かけた。DVDを交換した。ケーキを作った。マリオカートをした。初詣に行った。バレンタインのチョコをもらった。空き地で話をした。肉まんを食べた。また一緒のクラスになれたと喜んだ。勉強会をした。動物園に行った。そしてまた、映画を見た。

 初めての恋を前にして、手さぐりながらも夏香を大事にしたいとひたすらに願っていた。

 

 ずっと一緒にいるんだと露ほども疑わず、寄り添って過ごした。

 ふたり一緒に大きな白いシーツで包まれていたような、しあわせで優しい時間。

 大切なあたたかさ。忘れられない思い出。

 美しい思い出ばかりじゃなかったけど、ひとつひとつが大切だった。

 

 もうそんな日々は戻ってこない。

 これからは一緒に笑うことも、泣くことも、手を繋ぐことも、抱きあうことも永遠に、ない。

 だけど夏香はしあわせだったと答えてくれた。笑って受け入れられるくらいには、僕のしてきたことに意味があったのだとわかった。

 

 夏香がしあわせの意味をくれた。

 今度は僕がそれをあげたかった。

 だけど、もうできなくなった。それでもいいんだと思った。

 

 夢は、終わる。

 

 地面がどこにあったのか忘れるぐらい、僕らは空の高い場所にいた。

 そこから落ちたらこなごなにくだけて、破片まみれになって、高い場所にいたことすら忘れられてしまうのだと思っていた。

 

 だけど、かつていた空の美しさを覚えているから。

 その空には、無数の写真が残ってるから。

 

 どんなに時間が経っても忘れないから。

 

 君もきっと、時々は思い出して、なつかしんでくれるだろうから。

 

 だから、じゅうぶんなんだ。



 

 五時間目の授業が終わってすぐ、僕はスマホを出し、ケースと本体の間に挟んでいたプリクラをはずした。去年の年末、記憶喪失の夏香と、賢一と、瞳と、僕で撮ったものだ。

 少しケースにくっついて禿げてしまったそれを折りたたむ。六時間目までの短い休み時間に、四組と五組の間、階段を上がった正面の壁にあるダストシュートをひらいた。

 そして、薄い思い出の写真をためらいなく捨てた。

 

 真っ暗な底を目指すプリクラは、ひらひらと蝶のように不規則に踊りながら落ちていった。

 一瞬、今手を伸ばせば、と思ってしまった。

 だが、蝶に触れようとして手を伸ばし、撃たれて死んでしまう『西部戦線異常なし』を思い出して、僕は両手の指を握りこんだ。

 

 画面をひらき、LINEで「片岡夏香」を探した。いちばん新しいやりとりは、夏香が倒れたという母親からの通話だった。

 その前の行は「うん、また映画行こう」という夏香のメッセージと、僕の「お大事に!」というスタンプで終わっていた。

 

 設定画面を開き、「データの削除」を選んで、一番下にある赤字の「メッセージとトークデータをすべて削除」をタップした。

 

「すべてのメッセージとトークデータを削除しますか?

 キャンセル/削除」

 

 削除、を親指の腹でタップしたとき、その文字は僕の指に強くくいこんだ。

 

 まるで死にゆく瞬間に抵抗する意識のように。

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