第7話 Blowin' In The Wind

 六時間目の科学は理科室に移動することになった。教科書類をかかえて廊下に流れてゆく人ごみのなか、僕は夏香なつかをつかまえて「行こう」と声をかけた。

 少し元気がない夏香の笑顔を見て、理由をたずねた。

 

「なんでもない。勉強しすぎで疲れただけ」

 

 嫌味かそれ。僕がぼやくと夏香はいつもどおり笑って廊下をかけてゆく。

 

 同時に、三度目の胡乱な事件が勃発する。

 

 走っていた夏香が急に立ち止まった。女子トイレのほうを見ている。

 僕が何事かと声をかける前に、トイレから複数の女子たちの会話が聴こえてきた。

 

「ああそうか、それで先生に呼び出されてたんだ」

「だと思うよ、てか確実にそうだって。いくら頭いいって言っても、記憶ないんじゃテストとか無理あるしさ」

「だからって高一の問題でテストって、状況が状況っつってもさすがにやばくね? 普通にムカつくし」

「え、でも夏香、うちらと一緒に教室でテスト受けてたよ? もしかしてあれ、カモフラージュなのかな」

「カモフラージュ?」

「つまりさ、うちらが文句言わないように先生が配慮して、テストを形だけ受けさして、あとで高一のテスト受けて、そっちをメインにしてたとか」

「うっわ、やっば。それウザすぎ。どんだけ贔屓されてんの、夏香」

「違う!!」

 

 僕の制止をきかずに、夏香は女子トイレに飛びこんでいった。鏡の前で噂話に華を咲かせていた四人の女子たちが、いっせいにこちらを向いて硬直する。

 僕はさすがに女子トイレに入る勇気はなく、外から「やめとけって」と言ったが無駄だった。

 まさかの本人登場に女子たちも呆然としている。

 

「違うの、それは撤回されたの」夏香は必死に叫んだ。「確かに先生からそのことについて提案されたよ。でもただの提案だったし、不公平だから、私があとからやめてもらったの」

「でも、えっこはほとんど確定っぽい感じで職員室で話してたって言ってるじゃん。やめたなんて話、聞いてないよ」

「そりゃ誰にも言ってないもん。試験をどうするかって、全部みんなに報告することじゃないでしょ?」

「何こいつ、キモいんだけど」

「どっちにしても、提案されたのは合ってるんじゃん。自分が贔屓されてるってわかってんの? ダルいって」

 

 大袈裟にため息をつかれる。言葉を失って立ちすくむ夏香に、僕は何も言葉をかけられなかった。

 こうなることは多少なりとも予測できていたはずなのに、いざその場に接して何も言葉が出てこない。

 夏香は確かに、人の見えないところで、見えないように学力に合わせて配慮されていたのだ。

 

 だが、その配慮を贔屓と捉えられてしまうのか。夏香が授業に追いつこうと毎日補習を受けていることは、みんなが知っているはずなのに。

 

 僕が何か言おうと口をひらいた瞬間。

 

「私だって、好きで記憶喪失になったわけじゃない!」

 

 夏香が叫んだ。

 大股ひらいて、髪を乱して、目の端に涙をためて、隠してきたものを一気に放出するように。

 

「どうしてなの、私、頑張ってるのに。みんなのこと大好きで、前の私もみんなのことが大好きだったはずだから、早く元どおり接してもらえるようにってしてるのに、そのみんなを差し置いて贔屓されたいなんて一度も思ったことない! テストの内容はみんなと同じだし、みんなとフェアでテストが受けられるように、教科書借りて一生懸命勉強したのに。絶対成績が落ちること分かっててあえてそうしたんだから!」

 

「そんなこと言ったって」女子の中で一番気が強そうな子が反論する。「疑いが晴れるわけないじゃん! 証拠になってねえし。第一、実際本当に優遇されすぎなんだよ、夏香は。試験のこともそうだけど、そもそも中学の授業内容を先生に教えてもらって復習できてるのに、贔屓されてないなんて意味分かんないんですけど。そんなんだったら私だって記憶喪失になりたいし!」

「もうよせ、落ちつけ、それ以上言ったら」


 割りこもうとすると、女子たちの獣のような視線で一蹴されてしまった。

 夏香の小さなうしろ姿がかわいそうで、震えている肩がいたたまれなくて、けれど僕は、余計なことを言ってしまう恐怖に、何も言えなかった。

 

 こんな事態になって、何も出来ないなんて。

 

 夏香は反論の言葉を整えて再び叫んだ。

 悲しみを溜めていた言葉から、怒りの音が強くなる。

 

「つまり、私はテストで優遇されたくて記憶喪失になったってこと? 馬鹿すぎない!? 中学生の私でもそんなの馬鹿らしいって分かるのに、高校生のみんなが本気でそれ信じてるの?」

「馬鹿って」単語ひとつに過剰反応した彼女たちの言葉をさえぎって、夏香は叫びつづけた。

「それと、確かに私は高二だけど、実際、三年間の記憶が何もないの! 授業内容ももちろん、全部忘れてるの。私は望んでそんな状況に自分を追いこんだんじゃない、早く記憶を戻したくてしょうがないの!」

「だったらさっさと病院行けよ! こんなところで授業とか受けてる暇があったら、入院でも手術でもなんでもして治してもらえばいいじゃん! それをやらないってことは、やっぱ記憶がないメリットに甘えてるってことでしょ!?」

「なくした記憶をなぞれば治るかもってお医者さんに言われてるからここに戻ってきたんじゃんか、私はまだその途中なの。頑張ってる途中なの!」

「頑張ってまーす配慮してくださーいでまかりとおるんだったら誰も苦労しないよ、記憶がないからってなんでもしていいわけじゃないんだからね! 立浪のことも、ユキくんのことも!」

 

 さすがに止めに入ろうと女子トイレに一歩踏み出した僕を、夏香がおしとどめた。

 名前を呼ぼうとすると、夏香が低い声で呟いた。

 

「……それがどうしたの」

 

 魂を撃ち抜く、真っ黒で、血だまりのような言葉だった。

 

 黒くねばついた吐息がその場の空気を凍りつかせる。

 ぽろり、ぽろりと体温が床にころがり落ちてゆく。

 その場所さえ冷えてゆく。

 僕のいる位置から夏香の表情は見えないけれど、それがどれほどの形相か、僕は容易に想像できた。

 想像できるぶん、背筋を金属質なもので撫でられる。

 

 夏香が、本気で怒った。

 その怖さは二年前から、この場にいる誰よりも僕が一番知っている。

 

「私はあきらが好き。それの何がおかしいっていうの」

 

 歯をくいしばって顔をあげた夏香に、女子たちが息をのんで身を引きかけた。僕と夏香の顔を交互に見る。

 女子トイレの周辺にはすでに大勢の野次馬が集まっていて、もの珍しそうに事態を見物したり、動画を撮ったりしている。

 夏香は彼らに見むきもしない。僕にすら、見むきもしない。

 

 ちいさな、無意味ではない悲鳴が、響く。

 声が空をぬけて、宇宙へ飛んでゆく。

 

「だろうね」

 

 顔から血の気がうせていたひとりの女子が、ひきつった笑顔を浮かべた。

 打開策を見つけた笑みだった。

 

「だって、立浪と夏香、中学んときにつきあってたんでしょ? んで、理由は知らないけど、別れたんだって? あんたらと同中の子に聞いた。何があったか知らないけどさ、あんたにとって立浪はもう元カレじゃん。忘れたなんて理由で、ユキくんをほったらかしにしていいと思ってんの」

 

「よせ」と僕は彼女を止めようとしたが、女子たちはさらにヒートアップしていった。

 

「うちらにとってユキくんがどんだけ手が届かない存在か、あっさり彼女にしてもらえたあんたには分からないだろうね。美人ってだけで勝手にフィルターかかるんだし」「それ以上言うな、夏香はそんな」「ユキくんとつきあうことになったって聞いたとき、こんな可愛い子じゃしかたないって思ったよ。それが恵まれた立場だってこと、自覚してんの? 努力して手に入れた顔でもないくせに」「もうやめてやれ、でないと」「みんなの憧れのユキくんを彼氏にしてる身分の女が、記憶がないからってそのユキくんをあっさりポイして、元カレと一緒にいてもいいって思ってんの? 何様誰様?」「違う、俺は」「元カレにすがっといたら、学校に復帰しても大丈夫かーぐらいの気持ちでいたんじゃないの。記憶ないって言えばみんなに頭よしよししてもらえるかなーって思ってたんじゃないの」「そんなわけ」「お前さあ、それで許されると思ってんの。ひとりで勝手に事故っといて勝手に記憶なくして、それで周りの人間巻きこんで」「それ以上言ったら殴るぞ」「記憶喪失ってのも、実は演技なんじゃね? かわいそうな立場にいれば無下にする人を自動的に悪役にできるから楽じゃん?」「てめえ、いい加減にしろ!」

 

「性悪! 偽善者! 性格ブス! 腹黒女! ユキくんも立浪もこんなのに騙されて馬鹿だろ! 階段から落ちてそのまま死んでたらよかった!!」



 

 僕が胸倉をつかむ前に、彼女の頬に夏香の拳が飛んだ。

 村山がシャーペンを折った時のような音がした。

 

 強烈なデジャ・ヴュが僕の顔面を切り裂いていった。古いフィルムが、ケースをやぶって光の中にさらされゆく。

 フィルムの中の画像は、半透明のまま消えず、僕の目の前で泣いている。

 

 好き勝手にしゃべっていた女子は、鈍い音を立てて斜め後ろに倒れこんだ。他の女子たちや野次馬が悲鳴をあげる。

 倒れた女子は口の中を切ったらしく、唇から血をだらりと流した。それを拭いた手についた血を見て、彼女は徐々に顔を歪ませ、甲高い声をちいさくあげて泣いた。

 周りの女子たちがしゃがんで声をかけるが、唾液と一緒に流れる血がなおも制服を染めてゆく。

 

 夏香は殴った手をぎゅっとにぎりしめ、その場に膝をつき、ゆっくりと座りこんだ。そして、泣いた。

 廊下にも響くほど大きな声で、子供のように泣いた。唇を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼして、顔を真っ赤にして。

 すると殴られた女子を抱きかかえた別の女子が「泣いて被害者アピールすんなクソゴミが!」と涙声で叫んだ。

 

 誰も動かなかった。僕も、一歩も動けなかった。夏香の肩を抱いてやればよかったと後悔した。

 だけど僕は、頬を殴られた女子が丸くなって泣いているのを見て、自分の右手を強くにぎりこんだ。

 何をすれば正解なのか、僕は二年前から分からないままでいた。

 だから僕は呼吸を止めたかった。ここでもまた傍観者の行動なんだと、逃げだしてしまいたかった。

 

 目の前にばらばらと降ってくる鋭利な断片が、僕の瞳をざくり、ざくりと切りながら落ちてゆく。

 傷口から血があふれて、首筋から鎖骨までどろりと流れ落ちる。

 

 夏香の声を聞いた先生が飛んできて間に入った。野次馬を帰らせ、へたりこんで泣いている夏香と女子たちを引きはがした。

 僕も夏香から離された。そうされてよかったと今は思う。

 

 夏香に殴られた女子は、鼻水と涙で顔面をぐちゃぐちゃに汚しながら叫んだ。

 

「きっしょ、きしょいって、頭やばすぎ、死ねよ、犯罪者すぎだろ、マジ無理なんだけど、こんなんが生きてていいわけない、すぐ消えろすぐ死ね今すぐ死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね早く死ね今日死ねよ邪魔!!」

 

 叫びながら、先生たちに連行されていった。夏香も同様だった。

 集まっていた野次馬たちは「夏香かわいそう」「殴られて当然だろ」「ただのひがみすぎる」と小さな声で話していた。

 女子たちの言うことは、正しかったのだ。

 

 夏香はそれ以来、学校に来なくなった。

 

 彼女が学校に復帰していたのは、たった十三日間だけだった。



   ・ ・ ・



 僕の目の前に落ちてきたフィルムの写真は、二年前のものだった。

 

 中学三年に進級してすぐ、夏香に新しい友達ができた。和久井美優わくいみうという、物静かで本を読むのが好きな子だった。

 制服もほとんどいじらない、長いポニーテールが目印の、真面目でとても素直な女の子。夏香も同様に真面目だから、僕が和久井と親しくなるにも抵抗がなかった。

 

 新しいクラスで僕と夏香が最初に見たのは、和久井が女子からプリントをわざと落とされたり、触れるまいと大げさによけたり、目の前で教室のドアを閉められたりといった、小学生かと思うほど幼稚ないじめの光景だった。

 目に見えるいじめだけでなく、LINEの裏グループに悪口や証拠のない噂話を流されるといった嫌がらせも受けていた。

 彼女は一瞥して分かるいじめられっ子で、クラスでひときわ浮いていた。彼女は親しい友達とクラスが離れたのか、誰とも話さず、つるまず、いつもひとりで本を読んでいた。

 

 和久井は中学一年の時に上級生の彼氏がいて、それが同年代の女子たちの反感を買ったらしい。彼女がおとなしい文学少女に見えたことも余計に油を注いだのだろう。

 女子たちからねたまれ、いびられ、「十二歳で非処女」とののしられていた。

 その彼氏とは二年生の前半で別れてしまったらしいが、彼女を女子たちが露骨に見下す風潮は、三年生になってもつづいていた。

 

「それ、春休みに映画化してたやつだよね? 映画のほうは見たけど、原作って小説だったんだね!」

 

 夏香はそう言って、教室の隅で目立ないように本を読んでいる和久井にアクセスした。

 そのとき彼女が読んでいたのは、春休みに夏香と僕が一緒に見た「イニシエーション・ラブ」の、原作の文庫本だった。

 

「う、うん……逆に私、映画は知らないんだけど……」

 

 最初に聞いた和久井の声は、小さく、だが綿のように優しく、肌の表面をころころと撫でていく高い声だった。

 痛んでいないさらさらの黒髪が、日に焼けていない肌の表面をつるりと滑る。

 リスや鹿を思わせる大きな目が、困惑と驚きとかすかな喜びをたたえて、僕と夏香を交互に見ている。

 

「そうなんだ! 私は映画からだけど、最後のどんでん返しが最高だったね! あ、もし映画オリジナル展開だったらネタバレだわーごめん!」

「ううん、原作もそんな感じ」元気な夏香につられて、和久井の頬が緊張を解いてほころんだ。「よかったら読んでみる? 私もまだ途中だから、終わってからになるけど」

「ほんと? 私普段小説って読まないんだけど、映画見たから読みやすいかなあ」

 

 夏香と和久井は笑顔で本を貸す約束を交わした。読んだ後、原作と映画では違う結末であることに夏香は心底驚き、朝、教室に入るなり僕に挨拶もせず和久井の席に突撃して感想を並べ立てた。

 大声で話すところを見たことがない和久井は、その時ばかりは、少しだけ大きめの声で夏香と楽しそうに話し、嬉しそうに笑っていた。

 

 そこから少しずつ会話が広がり、映画と読書という全く違う趣味を持ちながら、映画化された小説などの共通点も見つかったらしい。

 夏香は毎日、ひとりでいる和久井と一緒に弁当を食べていた。僕と賢一けんいちもくわわって四人で食べたこともあった。

 夏香は和久井を「みーちゃん」と呼び、和久井は夏香を「夏香ちゃん」と呼んでいた。

 

 いじめられてる子かわいそう、一緒にいてあげよう、という正義心ではなく、夏香は単純に彼女と友達になりたいと思ったのだろう。


 明るくて元気で、美しい外見が目立つ夏香が、和久井のように静かな子と仲良くするとは思わなかったのか、夏香の本来の友人たちの半分近くが彼女と距離をおいた。

 夏香を嫌いになったわけではなく、むしろ派手ないじめっ子グループの女子から目をつけられやしないかと思っての、保身を第一にした行動だったのだろう。

 

 和久井はそれを何度も心配していたが、夏香は「まあ、学年も変わったし、人間関係も変わるもんだしさ」と笑っていた。

 

 その気丈さが逆に、和久井をいびっている生徒たちの反感を買ったのだろう。夏香もいじめの主犯の女子からは無視されるようになったが、もとより彼女たちと一切かかわることがなかった夏香は気にもとめていないようだった。

 

 やがていじめはエスカレートしていった。

 受験の年だというのに、和久井の靴箱や机にゴミを入れられたり、移動教室の時に後ろから押されて倒れたり、LINEの裏グループには夏香と一緒に悪口を書き連ねられたり。


 他の女子たちも話しかけることを許されず、結果として和久井と夏香は孤立した。

 直接夏香を狙うのではなく和久井をターゲットにするのは、気丈な夏香からの本気の反撃を恐れている、かつ、大人しい和久井のほうがその心配はないと思われているからだろう。

 

 一年の頃から嫌がらせを受けることに慣れてしまったようで「大丈夫」と連呼する和久井を、それでも夏香はかばっていた。

 

「みーちゃんはいい子なんだよ。優しいし頭いいし、かわいいじゃん。どうしてみんなが彼氏いるとかつまらないことでいじめてんのか、分かんないし。嫉妬してるんならそう言えばまだ素直でいいのに、自分から悪くあろうとする自覚なくて正義主張してるとかって、ありえない」

 

 そう怒る夏香に、和久井はいつもくっついていた。僕と賢一もくわわって、四人一緒にいることが多くなった。

 他の友達は僕らと和久井が仲がいいことを不思議がったが、それでも僕らは仲良しだった。


 夏香が言うように、和久井は優しくて品があり、読書家だからか様々なことに詳しいがそこに嫌味もない。

 いつも僕たちを気遣ってくれる子だった。授業で分からなかったところは丁寧に教えてくれた。夏香と一緒に映画を見に行くこともあった。

 僕が風邪で休むとプリントを家に持ってきて、差し入れまでくれた。

 

 とても嫌われるような子に見えなかった。だが、むしろそれこそが同性の反感を買うのだとわかった時には、女性不信に陥りそうになった。

 

 夏香は徹底して、自分への逆風を無視することを選んだ。

 反応せず、泣かず、やりかえさず、言いかえさず、虫が耳元をかすめただけかのようにふるまった。

 和久井にもそういられるよう話していたから、和久井もやがて、いじめを気にするよりも夏香と日々を過ごす楽しさを選んだ。


 僕たちと一緒にいる時の和久井は、いじめられているなんて思わせないほど笑顔がきらめいていた。

 元々の標的だった和久井に夏香という騎士がついたことで、加害者の女子たちの刃は虚空を斬るようになった。

 

 それが夏香の流儀だったのだろう。

 反応しなければやがて飽きられるとわかっていたのかも知れない。


 LINEの裏グループやネットに何が書かれているのか気にならないのか、とたずねたとき、夏香は「気にならなくはないけど、私が見なかったらあいつらが書いてることからは一切ダメージ受けないから。誰もいない空中に向かってずっとギャーギャー言わせてればいいんだよ。本人が疲れるだけだから」と、けろっとした顔でこたえていた。

 

 高校生になった今は、その姿勢が強さなのだとわかる。

 だが、中学生だった僕には、やがてその夏香の態度がもどかしく感じられるようになった。やまない嫌がらせに業を煮やしていたのだ。

 

 もっと怒ってもいいのに、言いかえしてもいいのに、しかるべき手段でやりかえせばいいのに。

 和久井に手を出すとどうなるか、分からせてやればいいのに。

 

 そう思っていた僕は、くだらない嫌がらせに落ちこむことなく、笑顔で手を取り合って前に進む夏香と和久井を、少しだけ、まどろっこしいと思っていた。

 それは僕の大きな欠点のひとつだった。

 

 その年の二学期の事件は、夏香と和久井の心に一生消えない傷を残してしまった。

 

 僕は和久井をいじめている主犯格の女子たちが、「明日の朝」「和久井の机」などと話しているのを女子トイレの前で聞いた。

 さすがに中に入ることはしなかったが、ただならぬ予感がして、翌朝、僕は早起きをして学校に向かった。

 

 今思えばそれが一番の失点だったのだ。

 僕があそこまで怒り狂わなければ、いじめが過熱しても和久井を最後まで守るぐらいの余裕を見せていれば、例えいじめられていても夏香のそばで笑えている和久井の幸せを尊重していれば──僕らの平和はここまで転落しなかったはずだ。


 だけど、十四歳だった僕にとって、あの時の自分の行動がもっとも正しく、疑いようがなく、糾弾されるいわれなどないと信じていた判断だったのだ。

 

 それくらい、僕は幼かった。

 

 僕たちの絆なんてそのていどだったのだ、と言われれば、僕は胸をはって反論できる。──それは違う、と。

 

 そうでなければ、夏香が僕を全力で殴ったりしなかった。

 

 だから僕はいつも、記憶の中でだけ、夏香の暴力で自分を殺しつづけている。



   ・ ・ ・


 

 まさに腫れものに触るような扱いだった。あるいはまだ血が流れつづけている傷口のような。数日経ってもそれは変わらない。

 

 モーゼの十戒のごとく、僕のまわりの人々が半径三メートル以内に入るまいと、見えない垣根を作っているのはなんだろう。

 元々仲のいい男友達は変わらない態度で接してくれるが、主に女子たちを中心に伝言ゲーム方式で噂が膨れあがっているのか、事実も脚色もごちゃ混ぜになって広がっている。


 内容は大方予想できるが、確かめるためにたずねるほど仲のいい女子がひとみしかいない。だが、その伝言ゲームの渦中にいたらしい彼女は今、透明なビニール越しに関わっているように僕と距離を置いている。

 話せばかえしてはくれるが、話しかけられることがない。そんな中、彼女に聞くのははばかられた。

 

 誤解をとくために「あのう、今出まわってる動画のことなんですが」なんて言ってまわる勇気はない。

 ほとんど話したことがない女子たちの、聞きたいことがあるけど聞く雰囲気じゃないしとりあえず空気読んどこう、みたいなノリが居心地悪い。

 

 賢一は昨日、女子トイレでの事件のあと、僕の頭をプーマのペンケースでひっぱたいた。布越しに定規が当たって痛い。

 

「おっまえなあ」普段穏やかなだけに半分キレた賢一は怖い。「どうするか考えとけよって俺、先に釘さしといただろうが。なんとなくこうなること予測できてたんだから。一番しんどいのは夏香なんだぞ、お前じゃなくて。お前じゃなくて!」

「わーかってる、二回も言うな」僕はひっぱたかれた頭をさすりながら弁明する。「今回は俺も反省してますって。こっちこそ悔しいし」

 

 夏香はあの事件以降、学校に来ていない。

 

 夏香に殴られた女子生徒は歯茎を切り、夏香は先生たちに引き離されたすぐあとに早退してしまった。

 親同士で一触即発の話し合いがあったそうだが、トイレでの一部始終を別の生徒が撮影した動画により、力関係が逆転した。夏香との激しい言い争い、馬鹿にしたような畳みかけと暴言、そして殴られ、地面に伏して双方泣き叫び、捨て台詞を吐きながら去っていく。

 特に最後、罵倒を繰り返す女子生徒の姿を見て、彼女たちの親は蒼白になった。


「ひどいことを言われたからって殴らなくても」という女子生徒の親に対し、夏香の父は「殴らなかったらそのままずっと言いつづけていたでしょうね」と睨みかえしたそうだ。

 学校社会の倫理が通用しなくなるほど、動画に撮られた女子生徒たちの言葉は威力があった。

 

 同じタイミングでその動画が生徒内に出回り、身内内で一時的に炎上した。まるで何百回と画面録画され切り取られ、YouTubeで何年も出回りつづける有名な炎上動画のようだった。

 赤の他人の動画でもバズるのに、同じ学校から出たのだから食いつかないわけがない。気軽に悪を成敗できる動画の材料にされるということは、イコール女子生徒にとって自分の存在意義の否定に近い。

 それだけ本物の動画の影響力と破壊力は、それを避けながら生きていくには強すぎる。

 

 結果として女子生徒側が率先して謝罪し、撮影した生徒と話し合って元動画はスマホとクラウドから削除されたが、一度残ってしまったマイナスイメージは消えない。

 一部の仲のいい友達をのぞいて、彼女も学校内で孤立してしまい、以前まであった覇気も紅茶に入れた砂糖のように溶けて消えてしまった。

 

 動画がもたらした弊害は、相手側がトイレで吐き捨てた言葉からの連想ゲームで、僕や夏香側にも湧いて出てきた。

 切り抜き動画でもなんでもないのに、あの場のあの言葉だけで多くのストーリーが更地に生えてくる。雨後の毒キノコは突拍子も脈絡もオチもない。

 

 いわく、僕の知っている限り、夏香が村山を簡単にポイして元カレの僕を繋ぎの彼氏にしてるだの、夏香の別れ文句が「私みたいな美人の彼氏ならもっとイケメンでなきゃ嫌なの」だの、泣いて愛を語る村山を殴り飛ばしただの、夏香をフィクションにありがちな悪役キャラクターにしたてあげるための設定数多だ。


 どうしたらそんな悪役女子みたいな設定がたくさん思い浮かぶんだ。みんなアニメの見すぎ、漫画の読みすぎだと、僕は話を聞くたびに頭を抱えている。噂の中には例のテスト優遇疑惑も含まれていて手に負えない。

 

 結局誤解がとけたのは普段からよくつるむ友達だけだった。

 名前も知らない他の生徒は、今どき漫画でも聞かない非現実的な噂を鵜呑みにし、当人の僕や村山をほったらかして好き勝手に話を展開していた。

 

 学校で一二を争う美女である夏香が、同じく有名な王子様の村山と離れたことはこの悪質な噂とともに広まった。

 夏香を性悪女として吊るし上げたがる女子たちとは別で、村山が最大の敵だった男子たちの間でも下品な形で話が盛り上がっている。


 今なら、今の夏香なら、村山が近くにいない今なら、あの顔の立浪でもいけたなら、自分でもいけるかも知れない、慰めてあげたら懐かれるかも知れない、寄り添ってあげればヤれるかも知れない──そんなところだ。


 夏香がいないとはいえ学校はすっかり危険区域になってしまった。

 さいわい、名前を伏せていてもすぐに夏香のこととわかるポストを賢一が見つけていたので、僕は彼女にLINEのIDを非公開にし、僕、賢一、瞳、村山にだけ教えるようLINEで伝えた。

 付け焼刃な緊急措置だ。

 

 それでも記憶喪失事件以降、事態が悪化を極めていることは変わらない。

 

 どうしてこんなことに、と机につっぷして頭をかかえる僕の前に、パックのコーヒーをすすっている賢一が座った。

 

「やっぱさ」僕は彼にすがるように、ぽつりとつぶやく。「俺って、夏香のこと、守ってやれねえのかな」

「そんなこと言ってるうちは無理だな」

 

 あっさりかわされて言葉につまる。

 賢一は「腹筋ねえし生っちろい肌してるし背も普通丈だし、振っても空振るか凡打だし、ルフィやゾロじゃなくてウソップだし」と追いうちをかけた。ぐさぐさと矢がつきささる。

 

 若干のふざけたノリを混ぜる賢一が、いつもと変わらなくて助かる。

 尾ひれも背びれもついた伝言ゲームの内容よりも、僕から直接聞いた話や、夏香からLINEで知らされたことを優先して信用してくれているからだ。

 

「いや、物理的に守るにしたって、今回にしたって」

「分かってる。だから言ってんだよ、なんで夏香の前に立って女子たちに対抗しなかったのかって。中学の時みたいにグーじゃなくて、言葉でな」

 

 その言葉に肩を震わせた。

 一瞬だけ思い出した、指の関節に受けた衝撃。人のぬくもりを潰す感触。

 

 あれと同じ感触を、女子たちが食らったのだろうか。

 だとしたら、僕と同じように、一生忘れられない熱として彼女たちに残るのだろうか。

 

「まあ、男が口で女に勝つとは思えないけど。あんだけ弁の立つ夏香だって人間なんだから、精神的にくればやられるし、泣きたくもなるだろうし。そのとき代わりに戦ってやるのがお前の役割だろ、本来」

 

 おっしゃるとおりで。僕は浅くため息をついた。

 

 事件から土日を超えて一週間が経ち、教室は普段の空気感を取り戻しつつあった。

 が、ここ三週間、ずっと夏香がこの場所にいたからか、違和感が拭えない。

 明るく、楽しそうで、僕に話しかけてくれる夏香がいない。


 以前の教室に戻ったはずなのに、より強く、寂寥感に似た何かが僕の隣にずっといる。

 夏香と仲の良かった女子たちでさえ、日が経つごと、最初から記憶喪失の夏香など来ていなかったかのようにふるまい、慣れ、夏香が知らないだろう話題で楽しそうに笑っている。

 

 学校に戻りたい。みんなと早く仲良くなりたい。

 そう言っていた夏香の言葉は教室の床に溶けて消え、染みにもならなかった。

 

 僕の馬鹿さ具合が悲しくもよく出た結果だった。夏香が学校に来なくなったことを考えれば、唾を吐かれる覚悟で女子たちと対峙していればよかったはずなのに。

 あの罵倒が夏香じゃなく、僕に向けられていれば、少しは夏香のダメージが減ったはずなのに。


 ああでも、もしそうなったら、夏香はきっと烈火のごとく怒ってくれるだろうな。結局、僕をどかしてでも殴りに行っただろうな。

 そんな後悔ばかりが僕の身体に根をはやす。縦横無尽に這って、神経ごとからめとる。

 

「ほんと情けないよなあ、お前」内省している途中に空からさらに矢がふってくる。「夏香がボロクソに言われてるのに反論できないなんて。彰、意外と小心者なんだな」

「俺、なんも変われてねえなあ。あの九月からなんも。夏香は強いままなのに」

「ガチでそう」

 

 一拍おいて賢一はつづけた。「彰、もしお前があの日の言い訳を伝えたいがために夏香に未練を持ちつづけているんだとしたら、もうそれは執着だ。そんなことしても、変わらないものは変わらないままだぞ。お前然り、夏香然り、和久井然り。認めることも必要だと思う」

 

 彼の目に軽く圧迫され、息を吸いこみづらくなる。

 賢一は頬杖をついてリラックスしているように見えて、目がそれ以上の多くを語っていた。

 

 夏香が僕を殴った痛み。熱。記憶。振り払っても忘れられないのに、執着するなだなんて。

 

 一度たりとも僕を裏切らないたったひとりの親友を前にして、僕は顔を伏せた。その頭を、賢一がコーヒーのパックの角で何度もこづいた。

 

「そう落ちこむなって」彼が笑う。「前も言ったけど、俺はお前を理解してやりたいよ。でも、俺に理解されるために行動するな。馬鹿で嘘つけないのが取り柄だろ。そういうの、俺がわかってるぐらいなんだから、たぶん夏香もわかってるよ」

 

 顔をあげると賢一はいなくて、彼が飲み残したコーヒーのパックが机の上に置かれていた。

 パッケージの表面に浮いた水の粒が、まわりのちいさな粒をまきこみながら、少しずつ重たくなってたどたどしく落ちてゆく。机にキスをし、広がってゆく。

 

 夏香がいなくなってからあまり話しかけてくれなくなった瞳が、僕のふたつ前の机の間をぬけていった。

 連絡通路での短い会話と、一緒にとったプリクラを思い出す。短いスカートを挑発ぎみにひらつかせて、瞳は僕の前からいなくなった。

 

 馬鹿なのは前からか、と思いながら僕はコーヒーのパックに浮いた水滴をじっと眺めていた。

 ほかの水滴を巻き込むことができなかった粒が、たったひとりでパッケージの表面を滑ろうとして、途中で力尽きていた。



   ・ ・ ・


 

 その日の晩、僕はずいぶん久しぶりに二年前の夢を見た。

 

 落書きだらけの和久井の机。僕は女の子たちの胸倉をつかんで机に叩きつける。夏香が僕を殴る。和久井が教室の床に座りこんで静かに涙を流す。腹をおさえて激しく泣くいじめっこたち。

 

 夏香が震える声で言う。

 

 ──そういう人だったんだね、彰。

 

 その言葉が終わらないうちに目がさめた。真っ暗な自室の天井が目に入っても、まだ夏香の声の語尾が耳に届いていた。


 自分の心臓と目覚まし時計の秒針の音だけが鳴っていて、まるで時間が止まったようだった。キンという耳鳴りを感じる、海の底のような暗さと寂莫。

 意識がとろりと現実に密着してゆき、僕はそこでようやくスマホの時計を見た。

 午前三時半。

 

 僕は心臓が早いリズムを刻むのを数秒間、目を閉じてじっくりと感じていた。

 そして落ちつくのを待ち、ふたたび布団を深くかぶる。淡いブルーのカーテンの向こうで、新聞配達の原付の音が聴こえた。

 

 夏香に殴られた左頬が、火傷をしたように熱い。その熱を忘れるわけがない。

 だけど、できれば忘れたかった。箱に入れて鍵をかけ、その鍵を海に投げ捨ててしまいたかった。

 

 だけど、できなかった。できない理由に、僕は唐突に気づく。

 

 その熱がまだ、僕と夏香を繋ぎとめている気がするからだ。

 

 布団の中で左頬に手を当て、そのままその箇所を隠すように布団を目元まで引きあげた。頭をかかえたかった。

 

 ここ最近、二年前の事件を夢に見ることがなかった。

 それは多分、夏香とのしあわせな日々を再放送したような日常に、すっかり慣れてしまっていたからかも知れない。

 

 都合のいい記憶喪失。

 

 思い出せ、思い出せ、ゆめゆめ忘れるなと、頬の熱が無言で叱咤している気がした。

 

 和久井が泣いている顔が瞼の裏に焼きついて離れない。

 

 一度僕の手で傷つけた夏香を、二度目も守れなかった。

 

 どうして僕らはしあわせな夢を見つづけるのだろう。やがて激しい警告のベルの音や誰かの声で目を覚まし、現実のあまりの空虚っぷりに立ち尽くすのだろう。

 誰もいない、僕らのよく知った街で。

 

 からっぽの道路を走ってゆけば、嫌でも気づく。

 それは確かに真実なのだと。そして真実はいつだって直球なのだと。

 

 気づきたくなかったのに。

 

 僕はその晩、ほとんど寝つけずにいた。



   ・ ・ ・



 決心がつくには週末まで時間を要した。夏香の両親に会った瞬間、手ひどく罵られることを深夜に想像してしまうくらいには、僕は腰抜けだ。

 

 日曜日、片岡家の前に立ちつくす。そこからインターフォンを鳴らすまでに二分かかってしまった。

 玄関の奥から夏香の母親が見えとき、僕は反射的に頭をさげた。

 

「すみません、俺、あんなえらそうなこと言っておきながら」

「いいのよ」予想に反して、彼女は優しく笑ってくれた。「私たちも夏香を止めようとしたくらいだし。それに夏香が自分で決めたことなら、後悔するような子じゃない。間違ったことはしていなかったって自分で言ってたわ。だとしたら、彰くんが謝ることはない」

 

 僕はここまで来るのに数日かかったことを恥じる。寂しそうに笑って「頭をあげて」と言う彼女の言葉に、さらに頭があがらなくなった。

 僕は再度「すみません」と言った。

 

 お茶を断って会釈し、夏香の部屋へあがった。

 部屋の中央のローテーブル前に座り、いつものように液晶で配信の映画を見ているピンクのニット姿の夏香が、僕を笑顔でむかえた。

 

「来てくれたんだ、彰。ありがとう」

 

 彼女は笑っていたが、心底疲れているように見えた。へら、と笑ってはいたがどこか薄ぼんやりしていて、輪郭がおぼつかない。

 おそらく何日も外出していないのだろう。髪は痛み、肌にひとつだけニキビが浮いている。

 

 僕はここ数日の学校の様子を伝えた。女子トイレ事件から派生した、さまざまな問題や誤解や噂や動画のことを。

 話を聞いている夏香は怒っているようにも、落ち込んでいるようにも見えた。あの事件について、彼女の性格ならきっと、数日かけてひとしきり怒って、数日経ってから落ち込みはじめたのだろう。そして、自分の怒りを悔やんでいるに違いない。

 そう思った僕は、静かに、ゆっくりと言葉を探しながら話した。

 

 夏香は自分の手のひらを見て「殴ったのは駄目だったな、痛いに決まってるのに」とつぶやいた。目元を寂しげにひそめている。

 その言葉を聞いて、僕はまた軽く唇を噛んだ。

 

「そういうことじゃないよね、間違いとか正しさとかって。誰かが基準を決めたり、それを元にして他の人をどうこう言うためのものじゃない。私が勝手に事故って勝手に記憶喪失になったって、そりゃそう。そうだよ。別にあの子たちは何も悪くない。だからって私が悪いんだとも思ってないけど、つまりさ、なんかいろいろ、悔しすぎたんだよね」

 

「悔しすぎた?」

「私が勉強頑張ってたこととか、彰の立場とか、村山くんの優しさとか、そういうの全部馬鹿にしてたでしょ。そうした方が自分の苦しさがマシになるってのはわかるんだけどさあ。無理やり敵を作って溜飲下げるのって、気持ち的には楽になるけど、瞬間的な爽快感じゃん? そこまでしないとだめなくらい、あの子たちが追い詰められすぎて苦しかったってのもあるだろうけどさ。そんな一時の逃避のために私があんなこと言われたのかと思うと、悔しいいい」

 

 彼女は泣きそうな声で、だけど泣かなかった。

 それを堪えるように語尾を伸ばして、鼻から強く息を吐きながら天井を見上げた。

 

 時々、夏香の中学生らしくない言動に驚くことがある。昔からそうだったとは思うが、数年話していないぶん、その言葉の選び方に驚いてしまう。

 やはり、ひとしきり一人で怒っていたのだ。だから今は落ち着き、客観的になり、彼女たちの立場から判断できるようになっている。

 

「失敗だったかも知れない。だから、やっぱりしばらく学校はお休みするよ。みんなに迷惑かけられない」

 

 彼女は僕が来るまで「キャリー」のリメイク版を見ていたらしい液晶を消した。

 確か、学校でいじめられている女の子が超能力で復讐を始める、という映画だったはずだ。血まみれで泣き叫んでいる主人公の顔のアップで一時停止されていた。

 

「ごめんな、夏香」僕はつぶやくように言った。「あの場にいながら、何もしてあげられなくて」

「いいよ、そんなの。お姫様みたいに守られっぱなしなんて嫌だし、むこうの言い分だって間違ってない。何言ってもどう動いても、悪いようにしかならなかったよ」

 

 夏香は悲しそうに笑ってベッドに座り、パンダの大きなぬいぐるみを抱きしめた。

 

「駄目だったんだね、学校に復帰するなんてさ。記憶喪失ってだけで問題がたくさん出てくること、最初から予測できてたのに、いろいろ急ぎすぎたのかな」

 

 素直に「そんなことはない」と言えないだけにはがゆい。僕は夏香の隣に座って、彼女の抱いているパンダの頬をこづいた。

 

 うぬぼれていたのは僕のほうだ。きっとうまくやっていけるんじゃないかと思った。

 初日はヒヤリとしたが、翌日からみんなの名前も覚えて、授業にもついていけるように勉強をはじめて、友達と弁当を食べて、放課後にみんなと遊びに行って。

 

 僕はパンダの頭をぽんと叩いて、「夏香」と呼びかけた。

 

「なんとかして、記憶、戻そう」

 

 夏香が僕をじっと見つめる。僕も彼女を見つめる。

 彼女の胸に抱かれているパンダだけがそっぽを向いている。

 

 僕はすうっと息を吸って、もう一度「記憶をとり戻そう」と言った。

 ブロックを積み上げたような言葉だった。

 

「何もいいことはないって、よくわかった。確かに、逆行性健忘って一生治らないケースもあるっていうし、難しいかも知れない。だけど、病院には定期的に行ってるんだろう?」

 

 夏香はこくんと小さくうなずいた。

 

「たまにだけど」つづいて、弱々しくつぶやく。「思い出しかけているときがあるの。彰には言ってないけど、クラスのみんなと一緒にいるとき、たまにね、なんかその話聞いたことあるなって思うときがあった。なんとなく聞いたことあるような感覚ってだけで、はっきりと思いだしたわけじゃないんだけどね。だから、それは記憶というより、身体が覚えてるんじゃないかと思うの。まあ、これは記憶が戻ったって言わないか」

 

 夏香は自分の手を電灯に透かした。

 血潮が見えて、赤い線が皮膚の下に走っているのがわかる。

 

「私はまだ十四歳。だけど世界は、私が十七歳だと断言してやまない。この身体が本当に私のものなのかって、私の知っている私としてこの世界に今いるのかって、今でもたまに不思議な気持ちになる。他人になったような気分。心だけ他の人の身体に移植したような気分。気分だけね。だけど、学校に通ってあらためてわかった。私は確かに片岡夏香で、あのクラスで過ごしてて、新しい友達がたくさんいたっていうこと」

 

 僕は夏香の腕からパンダのぬいぐるみをそっとどけて、身体を寄せた。彼女の右手を左手でとり、強くにぎる。

 驚いたようすで僕を見やる夏香の目は、少しだけうるんでいた。

 

 僕はまばたきすらもためらわれるほど、彼女の瞳を真剣に見つめた。

 

「大丈夫、俺がいるから」

 

 確証のない言葉。あきるほど使われた言葉。

 

「もう、俺の勝手で誰かが傷つくのを見ているのは嫌なんだ」

 

 夏香が「どういう意味」と首をかしげたが、僕はかまわず彼女の手を強くにぎった。

 

「たぶん、うまくできないんだ。俺はこのままだと、夏香をしあわせにしてやれない。だから、記憶を戻そう。君がなくしてしまった日々をとり戻そう。そうしたら、きっと」

 

 きっと、僕も、潰れてしまわずに済む。

 

 賢一も、瞳も、村山も、夏香の両親も、クラスのみんなも。

 

 夏香が忘れても、思い出しても、どちらにしろ、僕は悪夢をくりかえすだろう。

 凍った記憶を抱きしめて、土の中でじっとしているほうが賢明だ。土の下なら、踏まれても潰れないから。

 

 彼女を本当に心から愛しているなら、このままでいたいなんて、一瞬でも思ってはいけないことだったのだ。

 あんなに優しい村山が、夏香を泣かせることなんて絶対にないってわかってる。村山のところにいる時の夏香がしあわせなら、それが最良の結果なんだ。

 

 そう思っていたのに。そのはずだったのに。

 

 僕はまだ、自分の声が震えるのを止められない。

 

 夏香が悲しそうな顔をしたから、僕はあいている右手の指の背で夏香の頬をそっと撫でた。化粧をしていない素肌はなめらかで、陶器のように白い。

 手の甲をそっと当てると、夏香の体温がじかに伝わってくる。

 あまりにも、あまりにも美しい、あまりにも純粋で、あまりにも無垢で。

 

 この頬が二度と涙で濡れてしまわないように、と願っただけだったのに。

 

 夏香が蚊の鳴くような声でつぶやいた。

 

「でも、怖いの」

 

 この世界で僕だけに聞こえる、ちいさな声。「もし記憶が戻ったら、私は彰のことを」

 

 目尻がうっすらと赤くなっている。彼女の身体をひきよせて、壊れものを扱うように優しく抱きしめた。

 ふわり、とシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。夏香はぴくりとも動かず、僕の胸に額をあずけていた。

 

 彼女ひとりを苦しませているのかも知れない。

 悔しくて、情けなくて、こんなときにかぎって何もできない自分に憤って、僕は夏香を抱く手が震えはしないかと、怖かった。

 

 どうすればいいのか分からない。

 

 断言して、伝えて、それでもなお、そんなのでよかったのかと誰かが僕の耳元で叫んでいる。

 

 そのとき、突然外からインターフォンの音が響いて、僕ら二人は反射的に離れた。

 顔を真っ赤にして両腕をかきだく夏香を見て我にかえり、「ごめん」と叫んだ。夏香は狂ったようにかぶりをふった。

 

 窓の下から聴こえる声で、僕は来訪者が瞳だと分かった。慌ててベッドから立ちあがると、それとほぼ同時にノックの音が部屋全体に響く。

 ドアをあけると、案の定、瞳がお菓子か何かが入ったビニール袋をかかえて入ってきた。

 

「やっぱり」

 

 瞳は僕を見て、開口一番に言った。「もう一人友達が来てるっておばさんが言ってたから、賢一かあんただろうと思ってた」

「なんでそんな残念そうなんだよ」

 

 肩を落とした。最近ほとんど言葉を交わしていないから、随分久しぶりに話をした気がする。寒いのにショートパンツをはいている瞳は、むしろ沸騰せんばかりの目線を僕にむける。

 僕は空気を読んで夏香の部屋を出た。

 

 一旦トイレを借り、ふたたび夏香のドアの前に立った。入ろうかと思ったが、数秒逡巡してやめる。

 ノブにかかりかけた手をおろすと、ドアの向こうから声が聞こえてきた。

 

「彰のこと、今でも彼氏だと思ってるの?」

 

 防音設備がととのっていない家だから、瞳の声がつつぬけだった。

 

「私さ、正直、夏香と彰が中学のときに付き合ってたっていうのが全然信じられない。月とナメクジじゃん。あいつ、友達としてはいい奴だけど、顔はそんなにかっこよくないし、なんか頼りなくて陰キャみたいで、こっちが何かしてあげないとって感じ」

「付き合いはじめのころは友達にもさんざん言われたよ。もっといい男子選べよって。でもね、まあ、自分でもよく分からないんだけど、それでも彰が一番いいって思ったんだよね。頼りなくても、勉強できなくてもさ」

 

「夏香との付き合いも一年半だけどさ、そのへんがよく分かんないなあ。どう考えたってユキくんがすべてにおいて完璧じゃん。超イケメンで頭いいし、みんなに優しいし。女子トイレでの事件で日名子たちが言ってたように、王子様じゃん」

「うん、村山くんはいい人だよ。三年後の私が好きになるのも分かる。でも、十四歳の私にとってはやっぱり彰が王子様だなあ。ごめんね、わがままで」

「ううん、そんなことない。ただ、意外すぎるんだよ。だって今の彰さ、いかにも夏香に未練あるっぽくて鬱陶しいのなんの。だいぶキショいから、好きの形がおかしいって思ってね」

 

 どこまでぶっちゃけてるんだあの子は。

 僕は中に入ることができず、こっぱずかしい思いに駆られながらドアの前に座りこんだ。尻から冷気がじっくりと身体の芯まで冷やそうと襲いかかってきていたが、気にならなかった。

 

「どうかな、中学生の恋愛なんて、高校生の瞳ちゃんにしたらくだらなくてつまんないのかも知れないけど」

「くだらなくはないよ。私も中学のときに彼氏いたことあるもん。ただねえ、私じゃどうころんでも彰を彼氏にしようとは思わない。ユキくんのが百億倍いい」

 

 悪かったな。僕はがっくりとうなだれて体育座りをし、膝のあいだに顔をうずめた。

 どうせ僕はナメクジですよ。夏香以外の女子に男として見られたことがない陰キャだし。

 

 でも、僕は夏香とつきあっていた。長い夢を見ているのではないとしたら。

 瞳がそれを信じてくれないとしても。

 

 数秒の空白のあと、夏香が扉の向こうで小さく「それでも」と言った。

 

「それでも彰が一番なんだよ。私にとって、彰は誰にもかえられない。あとにも先にも同じ人はいない、たった一人の、立浪彰を私は好きになったんだよ。三年後になれば私は村山くんを愛してるのかも知れない。だけど今このときは、間違いなく彰を愛してる」

 

 僕は瞳のあきれる声を聴きながら、ゆっくりと立ちあがった。

 ドアをノックし、「ご歓談中失礼」と中に入る。床に置いたままの自分の鞄とコートをとった。

 

「先に帰るわ。夏香が元気そうでよかった。また頃合い見て来るよ」

 

 夏香に余計なことを言わせないために早々に身支度をととのえ、部屋を出ていった。

 夏香が何かを言いたそうだったけど、僕は振り返らなかった。

 

 夏香の両親に挨拶をし、玄関から足早に出ていく。

 粉雪が降っていた。僕はマフラーを首に巻きながら、空をあおいだ。

 吸いがら色の空から無数に降ってくる小さな白い粒たち。はかなくて、一瞬で消えてしまうような存在。次から次へと降ってきては、地面にたどりついた瞬間にその白さを失ってしまう。

 

 僕はマフラーを口元までひきあげ、門の鍵をあけた。

 が、同時に背後から玄関のドアをあける音が響いたので反射的にふりかえる。

 そこにいたのは夏香ではなく、コートを羽織った瞳だった。不機嫌そうに眉をひそめている。

 

「どうしたんだ」僕はマフラーをひきさげて言った。「俺のことなんか気にしなくていいのに」

「誰があんたなんか気にするか、うぬぼれ屋」

 

 彼女は僕の近くまでゆっくりと歩みよる。僕は熊に睨まれたかのように固まってしまった。

 

 僕の身長は平均だけど、夏香は平均より少し低い。瞳とこうして並ぶと、彼女も夏香と同じぐらいの背だということが分かった。

 彼女は少し下から僕を睨み、そして言った。

 

「夏香、本当に彰のことが好きなんだね」

 

 粉雪が、彼女の鼻先にまいおりる。

 空がこなごなにくだけて、その破片がおっこちてきているような粒。

 風にゆれ、踊り、何も語らない。無音の夢。

 

 僕は何も言えず、瞳の目を見つめかえすしかできなかった。

 一瞬でも目を離したらきっと噛みつかれる。そんな気迫とオーラをただよわせていた瞳が先に視線をそらしたときは、心底ほっとした。

 

「私ね」普段の瞳らしからぬ、弱々しい声。「彰や賢一みたいに、中学のころの夏香を知らない。それが歯がゆい。でもね、これだけは絶対に言えるの。私はみんなが大事。みんな、大事な友達なんだよ。たとえ夏香が彰を嫌ってても、私はずっとみんなの味方だった」

 

 過去形。

 

 最近の瞳の態度を見ていて、ある程度覚悟はしていた。うっすらと膜で隔たれているような関係のまま、進級できるはずがないと思っていた。

 夏香のことに気をとられすぎて、厳しいが的確な話をくれた瞳に対して、僕は何かしてあげたことがあるだろうか。むしろ彼女の不安ばかり掻き立てるようなことを、何度も繰り返していなかっただろうか。

 

 何も言えずにいる僕の胸元に、瞳がため息を吐いた。

 白くなった息がコートにあたって、溶ける。

 

「女子トイレの話、聞いたよ」彼女は目を伏せながら言った。「全部信じてるわけじゃないけど、まわってきた噂、くだらなすぎて飽きてきた。だって、あんたたちふたりとも、そんなにうまく立ち回るほどずるくないでしょ。村山を捨てるために記憶喪失を利用するとか、なんかそういう」

「さすがに嘘だよ、あれは」僕は慌てて否定した。

「だからわかってるって。少なくとも夏香の記憶喪失がガチだってことはわかってるし、ユキくんのこと全然覚えてないって言っても、赤の他人の彼をそんなふうに扱うような性格じゃないのもわかってる。そんな中であんなこと言われたら、そりゃぶん殴りもするよね」

 

 ほっとして、少しだけ息をついた。呼気が白くなったことで、僕が露骨に安心したのが瞳にもばれたのか、逆ににらまれてしまった。

 話はそれだけじゃない、ということは、聞かずともわかっていた。

 

「ただの噂が九割ってわかってる。でも、逆にさ、夏香の記憶喪失を利用してるのは立浪のほうだっていう、変な話も流れてくるんだよ。ネットとかLINEとかで」

 

 僕は皮膚の細胞の一粒まで、動きを止めた。

 

 どこまで。

 

 噂はどこまで真実に触れるのだろう。

 

 下手に事実が混ざっているから、そばにいる人間でさえ迷わせてしまう。

 

「夏香があんたのことを好きっていうのを大前提にするけど」瞳の声が一段階低くなる。「だからこそ、疑問に思う。彰が、本当に、純粋な親切心だけで、下心なく、打算的じゃなく、過去のことを全部脇に置いて、ユキくんに配慮しながら、記憶が戻るまでの期限つきで、期限が過ぎたらすぐさま離れるつもりで、もう一度自分に懐いてくれた『ずっと忘れられない元カノ』のそばにいるのかっていうこと」

 

 瞳の吐く白い息が、彼女の顔を見えにくくする。

 

「ねえ」

 

 吐息が空気に溶けて、濁る。

 

「そんな美談、ある?」

 

 それでも、氷のような瞳の目だけは、透けて見えた。

 

 冷たさに、撃たれる。

 

 僕は何も言えず、まばたきもできず、指先が冬の空気に冷えていくのを黙って感じていた。

 人体を絶えず巡る血が、こんなにも冷えることがあるのかと思った。

 僕はひょっとしたら、はじめから、それらしい体温なんて持っていなかったのかもしれない、と思った。

 

 見抜かれた、気がした。賢一が先に気づいて諫めてくれたことを、瞳は違う意味で受け取ったのだと知った。

 それは僕よりも夏香の立場に共感しやすいだろう瞳なら、いつかはたどりつくと予測できたこたえだった。

 

 僕は、夏香の「元恋人」だ。

 少なくとも、瞳にはずっとそう見えていたはずだ。

 

 きっと、今も。

 

「彰は、本当は、今のままがいいと思ってる?」

 

 違う、とは、即答できなかった。それさえも見抜かれたのだろう。次の瞬間、瞳の拳が僕の腹にくいこんだ。

 

 当然、鍛えてなんかいるはずもない僕の貧弱な腹筋は一瞬で崩壊し、呼吸が止まる。

 よろめいて腹をおさえた。軽く咳をすると、胃のあたりに縄で締めつけられるような痛みが走った。ぎちぎちとひびいてくる鈍痛に歯をくいしばる。

 

 言葉ごと、湖に張った薄氷のように、割れていく。

 

 瞳が、その目に溜めた涙を震わせながら、僕を見ていた。

 

「夏香がどれだけつらいか、どれだけ頑張ってるか、あんたが一番わかってあげてると思ってた」

 

 心臓ごと、血が凍りついた。

 

 裏切ったのは、僕だった。

 

「せめて」彼女は子供に話しかけるような声でつぶやいた。「善意か悪意か、どっちかに振り切ってくれればよかったのに」

 

 最後はほとんど叫んでいるようだった。

 瞳は顔を伏せたまま踵を返し、夏香の自宅の中に入っていった。一度もふりかえらずに、黙って。

 

 ガラスがくだける音が、聴こえる。なつかしい痛み。逆回転をはじめる秒針。

 

 自分への憎悪が、果てしない泥のようになって、頭の中に溜まって腐りゆく。

 

 ふたたび夏香の家に入る勇気は僕にはなく、何度か腹をおさえて咳をしたあと、コートのポケットに両手を入れて歩きだした。

 雪は夜にかけて激しくなるらしい。僕はもう一度空を見あげた。紺の空と雲が絶妙なコントラストをもってまじりあっているその色は、僕の中で消化不良になっている感情を全部まぜてしまいそうな、そんな空気をまとっていた。

 瓦礫のような白い粒。壊れざるをえなかった空の、かけら。

 

 三年前から、僕はずっと誰かを踏みつけながら生きているんだ。

 

 泣きたかったけど、泣く資格なんてないと思った。

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