第3話 Ocean Eyes

 翌日、学校帰りに病院を訪れた僕を見るやいなや、夏香なつかはベッドから落ちんばかりに跳ね起きた。毛布が空気を含んでふくらむ。

 

あきら! やっと来てくれた!」きらきらとした瞳が、まっすぐに僕を見ている。「どうしよう、私、記憶喪失だって。私が今高校生って本当? こないだ着てた制服、うちの中学のじゃないもんね。『ボーン・アイデンティティー』の世界みたい。しかも見て、私いつの間にか茶髪にしてる、髪がめっちゃかわいい」

 

 夏香は自分のさらさらの髪に指をとおしてひろげた。

 彼女から優しい匂いがして、肩が少しこわばった。プリントを拾う手伝いをしたときでさえ、髪の匂いが分かるほど近づくことはなかった。

 

 話せている。夏香と、会話をしている。僕に向かって、彼女が話してくれている。

 そんな些細なことでいちいち指先に力が入る。

 

 下駄箱で、教室で、廊下で、ずっと僕の存在を無視してきた夏香。村山と熱いキスを交わしていた夏香。僕を苗字で呼んだ夏香。僕に背中を向けた夏香。

 

 僕は生唾を飲み込んでためらい、しかしゆっくりと夏香に近づいた。

 掛け布団の上からベッドに座って、ひかえめに彼女の目をのぞきこむ。

 

「中二くらいまでのことしか覚えてないって聞いたけど」

「うん、本当にそう」夏香も僕をのぞきこみかえした。「高校生になってるなんて、なにかのドッキリかと思ったんだけど、そうじゃないんだよね」

「昨日の人も、知らない?」

「わかんない、思い出せないよ」夏香の声がわずかに震えていた。「あの人、高校の制服着てたよね。じゃあやっぱり、みんなが言うように……」

 

 うん、と僕はうなずいた。なかば答えを予想しているだろう夏香に、真実を伝えるハードルは低かったが、荷が重かった。

 だが、夏香ならすべてを知りたがるだろうと思った。

 

「あの人が、夏香の彼氏だよ」

 

 自分でさえ受け入れるのに時間がかかったのに、今度は当人に元彼氏の僕から説明するなんて。

 だけど、不安げに揺れていた夏香の瞳が、現実を知ってむしろかちりと焦点が合った。

 悲しむでも、驚くでもなく、わずかに顰めた眉。昨日の村山同様、理解できたが納得はできていない、というふうな表情をしていた。

 理解できるくらいには、そうだ、夏香は頭の回転が早い。もしくは記憶喪失ものの映画の見すぎか。

 

 目の前にいる夏香は、三年前までの記憶しか残っていない。ということは、彼女にとってはまだ──僕が彼氏のままなのだろうか?

 

 不穏な想像に脳が痺れそうになったとき、夏香はベッドについた僕の手の上に自分の手を重ねた。

 瞬間、意識が現実に引き戻される。彼女の手がちいさく震えていることに気づいて、息をのんだ。

 

「なんだか私、デロリアンで未来にタイムスリップしてきた気分。私は中学生だよ。確かにそうなんだよ。なのにみんな急に、私が高校生で、十七歳で、あのかっこいい人が私の彼氏だなんて言うから、わかんなすぎるよ」

 

 彼女の声がかすれて、今にも泣き出しそうに顔をゆがめている。震える手がとまらない。

 悲しい、つらい、というよりも、すぐにでもどうにか対処したいけどどうすればいいのかわからない、という表情だった。

 

 僕はかなり長い間、ためらっていた。夏香の髪に手を伸ばしかけたけど、村山の指の間にからまる彼女の髪を思い出して、やめた。

 おろした手を、夏香の手に重ねる。彼女のセミロングの髪は、染めたからか少し毛先がいたんでいて、だけど以前の艶を失っていなかった。

 

 同じ匂いがした。その香りで、中学のときの彼女の姿が脳裏をかすめた。セーラー服は白地で、襟だけが深いブルーで、学年指定の赤いリボンをつけていた。紺色の膝下スカートに、白いソックス。黒かった髪は今より少し短くて、右サイドの髪を編み込みにしていた。

 心臓のどこかに置き忘れてきた記憶が、大声をあげながら戻ってくるのを感じた。

 

 捨てられなかった。僕が愛した女の子との、大切な記憶を。

 不謹慎だけど、捨てなくてよかった、とも思った。

 

 夏香は僕が何も言わないことで不安になったのか、涙声で必死に訴える。

 

「何があったの。昨日まで彰と一緒にいたのに、目が覚めたら知らない人に抱きつかれてるなんて。お医者さんはきっと思い出せるって言ってたけど、何もわからないの。写真を見せてもらっても、何やってるの私としか思えないの。学校での自分の話を聞いても、そんなことした覚えが何ひとつないの。自分が自分じゃないみたい。怖いよ、彰。他の誰かの身体にのりうつったみたいで怖いよ。ねえ、彰、私はここにいる?」

 

 震える彼女を、まっすぐに正面から見つめた。

 今にも涙がこぼれそうな瞳は、最近の垢ぬけた夏香からは想像できないほど、幼く見えて、まっすぐだった。

 

 昨日まで彰と一緒にいた、という言葉に違和感を覚えた。

 だが、少したって理解した。それはきっと、事故の前に廊下で話していたことは含まれない。中学二年生の冬までの記憶しか残っていないなら、おそらく、十四歳だったあのころのいつか、どこかで一緒にいたときのことをさしているのだろう。

 

 その日から突然、三年後の今日までやってきた。

 

 僕はかるく唇を噛んだ。混乱していた。

 彼女は同一人物なのだろうか。いや、そうだけど、今ここにいる夏香は三年前の、十四歳の夏香なんだ。中学三年生のときに別れた、僕の元恋人の女の子なんだ。

 にわかには信じがたいけれど、記憶喪失になってしまった女の子なんだ。

 

 映画の話じゃない。目の前で起きている事実なんだ。

 

 僕はすうっと息を吸って、「大丈夫」と言った。ただ話しているだけなのに、べらぼうに緊張していた。

 

「ちゃんとここにいる。大丈夫だから」

 

 声が震えないようにと思ったが、震えてしまった。夏香は僕の言葉を聞き逃すまいと、身を乗りだして僕を見つめている。

 

「時間がたって、いろんなものが変わったけど、夏香は夏香だし、世界は今も夏香の知っている世界のままだ。俺だってここにいるし、俺は立浪たつなみ彰のままだ。いきなり記憶が戻って、明日の朝起きたら全部思い出すかも知れないからさ。だから、だいたいは大丈夫だよ」

 

 全部大丈夫、と言えない自分に腹が立った。だけど、そのほうが聡明な夏香に伝わるだろうと思った。

 

 彼女のちいさな震えが少しずつ落ちついてくる。まともに話し合うのは、事故の前をのぞいたら約二年ぶりだ。ふつふつと湧きあがってくる古くて愛おしい気持ちが、僕の表情を自然とゆるませる。

 僕が笑うと、夏香も安心したように少しだけ笑った。ひきだしの中にしまって、ときどき取りだしてはなつかしさに浸っていた、この空気。この甘さ。

 

 記憶喪失。言葉が現実味をおびないのは、映画の世界でしか知らないからだ。

 

 愛する男女のどちらかが記憶を失い、自分のことをまったく覚えていない、それでもめげずに愛し続ける、そんなありきたりな恋愛映画は何作も見た。

 けれど、夏香はそうじゃない。別れた恋人が記憶を失い、僕とつきあっていたときの日々が最も新しい記憶になっている。

 

 あまりにリアリティのない脚本の数々。

 

 やがて夏香の両親が入ってきて、笑いあっている僕らを見て安心したように肩を落としていた。

 立ちあがろうとすると夏香が「待って」と叫んで僕の服の端をつかむ。親においていかれそうになっている幼い子供のような無垢な瞳を見て、彼女の片手をとった。

 

「いったん帰るよ。おばさんたちとちゃんと話をした方がいいし。今は何も思い出せなくてもいいよ。マーティ・マクフライのままで大丈夫。少しずつ治していこう」

 

 笑顔がひきつっていないか不安だったが、僕が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のDVDをあげたことは記憶にあるらしく、彼女は驚いたように目を見ひらいた。そして、おかしそうに笑ってうなずいた。

 覚えていてくれたことがうれしくて、僕は笑顔をかえした。

 

 後ろ髪をめいっぱいひかれる思いで、病室のドアをあけたとき。

 

「彰……」

 

 夏香の呼びとめる声は、刺繍糸のように細かった。

 そっとふりかえり、「何?」とたずねる。自分でも信じられないほど優しい声が、自然と出た。

 

「こないだの人が私の彼氏なんだよね。でも、私は彰とつきあってたよね? 私たちは、どうなっちゃったの?」

 

 強い意志をこめた、けれど当惑している彼女の声にどう返事をすればいいのか分からず、僕はその場に立ち尽くした。

 夏香の声はしっかりしていたけれど、瞳は怯える少女のように揺れていた。鬱陶しいほどたくさんの野暮ったい言葉が喉元をかけあがり、僕はそのたびえづきながら飲みこむ。

 

 二年前、彼女に殴られた頬が急に痛んだ。気がした。

 僕を殴ったとき、夏香も手が痛かったはずだけど、その痛みを今の夏香はまだ、知らない。

 

 話したいことはいくつもある。だけど、今話すのは難しい、と思った。何も覚えていない彼女にとっても、僕にとっても。

 

 彼女が何か言いだす前に「また来るよ」と言って、病室の外へ出てドアをしめた。泣いてしまいそうだった。



   ・ ・ ・ 



 それから夏香の退院まで、二回お見舞いに行った。

 同じ学校で面会を許可された生徒は、僕と村山だけだ。記憶喪失が発覚して以来、無用な刺激を避けるために、事情を知っている僕たち以外の面会は両親の意向で断っているらしい。

 夏香と仲のいいクラスの女子たちが何人も来たらしいが、彼女たちのことをまったく覚えていない、中学二年生の夏香に会えないまま帰されてしまった。

 村山は、夏香や彼女の両親から聞く限り、最初のお見舞い以来一度も来ていないらしい。

 

 外傷による健忘で記憶が戻らない場合、外部から記憶想起をうながすのだとネットの記事で見た。好きな音楽を聴かせたり、よく行く場所へ連れて行ったりといったことだ。患者の多くはこの方法をとっているらしい。

 だが必ず結果が出るかといえば、そう容易ではないそうだ。数時間後、数日後にふと記憶が戻ることもあるらしく、今の幼い夏香にとって最良なのはそういった自然な回復だ。

 無理はせず、彼女のプレッシャーになるようなことは避ける、という結論が出たようだ。

 

 僕は、もし夏香の両親から「夏香の記憶が戻った」という連絡が来たら、お見舞いをやめようと思っていた。病室のドアを開けた瞬間に顔を歪める夏香なんて、二年ぶりに手を触れ合った後に見たくない。

 だが、結局そんな連絡はこなかった。

 

 病院のドアをノックしてあけると、彼女が笑って出迎えてくれる。ちぎれんばかりにふっている尻尾が見えそうだ。

 二年前は当たり前のようにあった、笑顔で僕を受けいれてくれる夏香の姿。

 唐突な、夢の光景の再現。僕の理想を覗き見た現実のほうが、先をゆくように変形していた。

 

 一度僕が拒否したからか、夏香からの「どうして別れたの」という質問は、二度目はなかった。

 中学生の彼女に気をつかわせてしまったことが悔しくて、僕は唇を噛むしかない。だけど、少し、ありがたかった。

 

「ちょうど三年分の記憶がなくなるなんて、まるで『ペイチェック』みたいだね。ああ、でもあっちのほうが面白かったかな。記憶がなくなる代わりにめっちゃお金がもらえるから」

 

 一億ドルぐらいだっけ? 今のレートでいくらだろ、と笑う夏香。

 無理に楽しそうにしているようには見えないが、楽しい空気を作ろうとしているのがわかって、僕は真似して笑うことしかできなかった。

 

「すごく不思議な気分なの」夏香はベッドに半身をおこし、僕が持ってきたゼリーを紙スプーンで食べながら言った。「私の中では、私は中学二年生なの。ちょうど今くらいの、寒くなりはじめの季節。でもね、いちばん新しい記憶がさ、確かに一番新しいはずなのに、感覚としてはずいぶん前のことのような気がする。だから記憶喪失って聞いても、頭のどっかで納得してたの」

 

 夏香の声は、大まかな状況を理解して落としこんだ人間のそれだった。目覚めた直後の、村山を見て混乱していたときと比べると、意志も目の力もはっきりして落ち着いている。紡ぐ言葉も筋道が立っていて明確だ。

 

 怯えて、僕のことだけをまっすぐ見て震えていた瞳は今、しっかりとひらかれ、甘いゼリーや窓の外の光景、カレンダーの日付、ニュースアプリの最新記事などに冷静に向けられている。

 彼女がスマホを見ながら、急に「大谷翔平がエンゼルスじゃなくなってる! 青っ!」と叫んだときは、面白くて笑ってしまった。彼女は空白の三年間の情報を、楽しみながら検索しては吸収していた。

 

 夏香の最大の関心事は、自分のインスタだった。日常のポストはもちろん、ストーリーのアーカイブを延々と横にスライドさせて眺めていた。

 彼女のストーリーはほぼ、その時見た映画のスクショや映画館の自撮りと感想で埋め尽くされていて、十七歳の自分がどんな映画を見ているのか、分かりやすく確認できる。

 彼女が過去のアーカイブを延々と遡っているのを、僕は隣で見ていた。

 

 地頭がいいのか、映画仕込みの空想力なのか。きっと彼女は今、ジェイソン・ボーンになった気分で状況を整理しているのだろう。

 

「その、いちばん新しい記憶って」

「たぶん、十二月の真ん中ぐらいかな。ほら、こないだ、彰と一緒にスタバのクリスマスデザインのタンブラーを見に行ったじゃない?」

「こないだって」思わず笑ってしまう。「俺にとっては三年前のことなんだけど」

 

 夏香が驚くのを見て、しまったと息をのむ。

 が、彼女は肩をすくめて「気にしないで」と言って笑った。

 

「私も、ついこないだだったはずのクリスマスが、なんだか何年も前のことだったような気がするの。クリスマスが終わって、それからずっと三年間眠りつづけて、やっと目が覚めたような気分。記憶喪失というより、SF映画のコールドスリープをやってた感じかな。だから、頭の中は中学生なんだけど、体感ではちゃんと三年の歳月が経過している。時間がたっている感覚はあるんだけど、何かをした覚えがないの。変な気分」

 

 自嘲気味に笑う夏香を美しいとすら思ってしまった。

 たった数日で自分の立場を飲み込んでしまったのは、やはりいくつものSF映画の設定が彼女の記憶に溜まっているからだろう。

 フィクションよりも現実的で、生々しくて、だけどまるで精巧に作られたセットの中で演技をしているような。

 

 こんなふうに何度も会って長話をすること自体が二年ぶりで、かつてひきだしの奥にしまったはずの、彼女との淡い初恋の感触がじんわりと熱をおびてくる。

 

 夏香は村山の持ってきた花がいけられている花瓶を見て、「でも大切な人ができたんだよね、その期間に」と言った。

 

「実感が湧かないな。もちろん謝らなきゃとは思うけど、それ以上の感情が全然出てこない。それもなんだか申し訳ないな……」

 

 複雑そうな表情で自分の膝の上に頬杖をつき、白いリネンを見つめる夏香。

 僕は何も言えなかった。村山のことを思い出してほしいとも、無理して思い出さなくていいとも言えてしまうし、僕の立場だとどっちを口にしてもなんだか嘘くさいなと思ったからだ。

 

 神妙な顔つきから、彼女はふと、僕のほうをくるりとふりかえった。

 髪がふわりと舞い、光を透かす。

 

「彰、あんまり変わってないよね。髪型も、顔立ちも。身長は伸びてるけど」

 

 夏香はベッドに座ったまま、僕の頭の上に手を伸ばした。

 確かに、高校一年生の夏休みで急に背が伸びた。逆に夏香はいつまでも小さく、かわいらしいままだ。

 

「だから彰と一緒にいるときって、三年の空白をあまり感じさせないな。変わらなくてよかった」

 

 屈託なく笑う彼女の笑顔は、肉体年齢よりももっと幼く見えた。

 化粧をしていないせいもあるけれど、一瞬、僕のほうが過去にタイムスリップしたんじゃないかと思ってしまうくらい。

 

 僕は自分の口の端が上がるのがわかった。

 変わらなきゃ、前を向かなきゃ、と焦っていた過去の僕を、今の夏香は否定している気がした。そしてそれは、ずるい空想なのだと、本当はわかっていた。

 

 でも、今までつらかったんだから、少しはずるくてもいいじゃないか。

 

 僕はそう思ってしまった。自分に言い聞かせるように。

 

 ここにいない村山がいつもいる場所に僕がいて、そして夏香が村山のことを見ずに、僕のことを見てくれているんだから。

 

 こんな神の采配を、僕じゃなくても、誰が見過ごすというのか?

 

「彰、相変わらず、映画は見てるの?」

「誰かさんの影響でね。学割使えるのもあと少しだし」

「そっかあ、私もいろいろ新作を調べてみたいな」

「夏香の好きなところだと『トップガン』の続編が出たよ。脚本家も監督も変わったけど、マーヴェリックは教官になって、グースの息子が大人になって……」

「待って待って待って、急にそんな爆弾落とさないで! どういうストーリーなのかもっとちゃんと説明して!」

 

 慌てて僕の服にしがみつく夏香を見て、僕はとうとう声をあげて笑ってしまった。

 彼女の前でそんなふうに笑うのは、二年ぶりだった。

 必死の形相で詳細を聞こうとする夏香の頭を、ぽんぽんと軽く叩いた。さらさらした髪の懐かしいやわらかさが、僕の手のひらを誘惑する。

 口の端が上がるのを止められなかった。

 

 ああ、本当に、何もかもがなつかしくて、優しい。

 

 ずっと、二年間、話すことさえできなかった。

 そんな彼女が、手を伸ばせばすぐに触れられる距離に座って、僕に嬉しそうに話しかけてくれている。

 

 今日まで考えるまい、考えたくない、こっち来んな、と何度も足蹴にして遠ざけてきた言葉が、下卑た笑みを浮かべながら鼻先まで顔を近づけてきた。

 禁断の願い。神の采配。都合のいい状況。

 

 ──戻ってきた。

 

 彼女の隣にいられる時間が、戻ってきたんだ。



   ・ ・ ・

 


 夏香の退院の日、学校帰りに花束をかかえて病院へ行くと、入り口で医者に見送られる彼女と、彼女の父親を見た。

 駐車場にとめられてある黒い車の後部座席に乗りこむ夏香を呼び止める。

 

「退院おめでとう」僕はドアに手をかけて花束を彼女に手渡した。

「わざわざありがとう、彰」

「あっさり治るもんなんだな。結構な血、出てたけど」

「怪我自体は二針だよ。打撲だって、打撲って言うほどでもなかった。これからは、私がなくした記憶を取り戻すことに専念しなきゃね」

 

 運転席にいる夏香の父親に「乗らないか」と言われたので、彼女とならんで後部座席に座った。

 この家の車に乗るのは初めてだった。家族団欒の時間を邪魔するのではないかとちぢこまったが、夏香がとなりで「いい匂い」と花束に鼻先をつっこんで笑っていたのですっかり気が抜けてしまった。

 

 するするとうしろへ流れてゆく窓の外の景色に、夏香はさほど驚いていないようすだった。

 三年ごときで街の風景が変わったりはしない。が、ときどき、あんな店あったっけ、とばかりに一箇所を目で追う。

 僕はそんな彼女の姿を見ないように、前をまっすぐむいて、両腕を組む。何かを言わんと口を半分ひらいては閉じ、ひらいては閉じ、を三回ほどくりかえした。

 

 最初に静謐をやぶったのは夏香だった。

 

「彰、なんか、難しい顔してる」

「そんなこと」慌てて訂正したが、夏香が頬をぷうっと膨らませた。怒ったときの彼女の仕草だ。忘れるわけがない。

「なんていうか、話すのもためらわれてる感じ。私、彰の彼女のつもりなんだけど?」

 

 そりゃあ君の記憶ではそうだろうけどさ。僕は言いたいことを全部嚥下して「まあそうだな」とため息まじりに言った。

 彼女のふくらんだ頬を指で押してぷしゅうと息を吐きださせる。これも、以前よくやっていた流れだ。

 

「でも、前に言っただろ、夏香には新しい彼氏がいるって」

「うん、分かってる。村山さんでしょ。三年の時間、大きすぎるよ」

「記憶喪失なんて一時的なものだろ。いつかはまた高校生の自分を思い出すだろうし、そのときにちゃんと村山に謝りさえすれば、大丈夫だろ」

「私が話してるのはそんなことじゃない」

 

 夏香は僕の鼻先に指をつきつけた。指先が鼻の頭を押す。

 夏香は身をのりだして、きつく眉をひそめていた。また頬の風船がふくらんでいる。子供か、この子は。

 

 怒られているのに、また彼女とこんなふうに接することができて、その嬉しさも半分混じっていた。

 いつまでも矛盾する、僕の本音。

 

「ごめんね、私はいまだに中二の感覚なの。高校生なこと前提で話されても、全然実感がついてこない」

「悪い、野暮なこと言った」僕は彼女の手にそっと手をおいて言う。「今は一緒にいるよ。今の夏香が安心していられるのは、家族と友達と、俺の近くだろ」

 

 我ながら自分を過大評価しすぎだと思う。だけど、本当にそうだと思った。

 

 何がやりたいのかも分からないまま、僕はこのとき、自分でも間違っているんじゃないかとつねづね思っていたベクトルへ方向転換をしてしまっていたのかも知れない。

 夏香の幻影をうつしては割れてしまう鏡の破片を拾いあつめていた。別れてからの二年間、同じ思い出に何度も、僕だけが、山積みになるほど献花をくりかえしていた。

 

 それを神様に憐れまれていたがゆえの現在なのだろうか。

 

 笑って夏香の頭をそっと撫でた。やわらかい、高校デビューと同時に染めた髪。

 夏香は一瞬きょとんとしていたが、やがてその真っ白な肌をめいっぱいピンク色に染めて、「そうだね」と笑った。

 

「一緒にいたいよ、彰と」

 

 純粋で、純朴で、何ものにも染められていない笑顔だった。僕の記憶の甘い部分だけを、都合よく切りとってきたようだった。 



   ・ ・ ・



 夏香の家の前に立つことすら数年ぶりだった。

 

 別れてすぐのころは、この家の前を通るたびに夏香の部屋の窓を見あげたりして苦い未練を噛みしめていたのだけれど、避けられるようになってからは逆に迂回するようになった。

 僕と彼女の両親はすっかり顔なじみで、中学時代、何度も何度も遊びにきては食事をごちそうになったりした。

 

 今、あらためてこの家の前に立ち、ざあっと一気に心の中へなだれこんでくる、古い日記帳の乾燥した紙のような思い出に、車から降りるのをとまどってしまう。

 

「さあさあ、あがってちょうだい。退院祝いに、ケーキを買ってきてあるの。彰くんも食べていって」

 

 夏香の母親に連れられて、別れて以来二年ぶりに居間へ入り、二年ぶりに僕は夏香と並んでケーキと紅茶をいただいた。

 数年で変わらないのは家の内装も同じで、夏香は全く動揺せずに食器を出したり紅茶をいれたりした。

 

 四人であれこれと話し、医者のアドバイスをまじえて、経過観察と療養のためにしばらく学校を休ませることと、僕が週に何度か夏香のようすを見に来ることで今後の方針は決まった。病院には定期的に通うことになっている。

 

 おだやかで優しい両親の前で、夏香はよく笑い、よく食べた。なつかしい笑顔だった。

 流し台で夏香と並んで食器を洗っているとき、洗剤のグレープフルーツの香りに交じる夏香の匂いに、頭がぐらつきかけた。

 ケーキを食べながら夏香の病状と治療方針について話している間も、隣に座る彼女の横顔を何度も横目で見た。

 

 夏香と一緒に彼女の部屋へあがった。それも二年ぶりだ。こういう状況に接して別れた元彼は遠慮するのが常識なのだろうが、夏香が僕の拒否を聞かない。

 彼女は今までと変わらない調子でドアをあけ、しかし数歩進んだところで歩みを止めた。

 

 部屋の隅に置かれた二段ベッド、その一段目の勉強机。大きなクローゼットに、メイク道具やヘアアイロンがならぶ化粧台。

 二つの棚には本と、彼女の好きな映画のDVDやBlu-rayがたくさんつまっている。壁に貼られていた映画のポスターは、二年間のあいだに複数枚入れ替えてしまったらしい。

 大して変わらないはずなのに、僕が見ても分かるほど、二年前から変わっていた。

 

 夏香がひらいたクローゼットの中には、これまで彼女が好んでいた服よりも多く、少し大人びた服がならんでいた。バッグやアクセサリーもあちこちに飾られてある。

 

 素朴で、ある意味垢ぬけなかった夏香も、高校デビューと同時におしゃれな女子高生らしくなった。

 見知らぬものが増えた自室を見て、夏香はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと振りかえり、困ったように笑った。

 

「なんか、かなり物の場所とか変わってるね」

 

 肩をすくめる彼女の上半身を、僕は思わず抱きしめた。

 

 僕から彼女に触れるのも、二年ぶりだった。

 

 一瞬こわばった彼女の身体は、そっと背中を撫でると徐々に力が抜けてきた。

 立ったまま彼女を抱くと、本当に僕は背が伸びたんだなと思う。つきあっていたときは数センチしか変わらなかったのに、今は彼女の頭頂部に鼻を寄せて、シャンプーの香りを嗅ぐことができる。

 

 夏香は僕のシャツをつかみ、胸元に顔を伏せて黙っていた。泣いているのかも知れないが、なら泣き顔を見られたくないだろうと思い、彼女のブラウンの髪に頬を寄せた。

 中学時代、彼女の髪は今より少し短い、漆黒のミディアムボブだった。それをなつかしみながら、小さい子をあやすように頭を撫でてやる。

 

 いつか、彼女の記憶は戻ってしまうのだろうか。

 すべてを取り戻して、元いた場所に帰ってしまうのだろうか。

 そしてまた僕を嫌い、このあたたかさを分けてくれなくなるのだろうか。

 

 けれど、きっとそれが、彼女にとって──

 

 髪の匂いをかぎながら、僕はぎゅっと唇をひきむすぶ。

 

 いつか離れてしまうなら、この時間が一秒でも長く続いてほしい。

 

 そう思いながら、さらに強く彼女を抱きしめた。

 だが、やがて彼女は優しく僕の胸を押して離れた。

 

「何年経ったんだっけ」

 

 窓際に歩みよりながら夏香がつぶやく。僕はとっさに「三年だよ」と答えた。

 

 窓には霜がついていて、レースカーテンが少し濡れていた。

 これから冬がやってくる。僕らはこんな季節につきあいはじめた。

 

「不思議だね。私、まだ彰の彼女でいる感覚なんだけど」

 

 霜が雫になって、窓を伝う。

 

「今の彰にとって、私はもう、彼女でもなんでもないんだね」

 

 三年前。中学二年生。

 僕は放課後、彼女に告白した。

 

 ──君と一緒に映画が見たい。いや、そうじゃなくて、つまり、君と一緒にいたい。

 好きなんだ。片岡のことしか考えられない。

 

 最初の言葉は何なの、と吹きだした夏香はそのまま了承してくれた。

 そのときの、照れ混じりの夏香の笑顔を、僕は二度と忘れない。

 人生最高の瞬間だった。死んでもよかった。

 

 霜をなぞって何か絵を描こうとする夏香。その指はゆっくりと窓をすべり、重力にしたがって窓枠に落ちた。

 彼女は「『バニラ・スカイ』のラストシーンみたいだね」と言った。

 

「夢を見ているみたい。そして目覚めたら、私は何年も先を歩いているの」

 

 甘い夢から目覚めるため、高層ビルから飛び降り、地上へまっすぐ堕ちてゆく主人公を、僕は覚えている。

 それは、主人公自身が選んだ、残酷で幸福な結末だった。



   ・ ・ ・


 

 三年前、中二の秋前、彼女に告白した直後、僕は友達の男どもにもみくちゃにされからかわれた。

 それもそうだ。今も当時も変わらず、夏香は学年でも上位に入るほどの美人で、頭がよくて、明るくて人なつっこい。嘘のようにモテるが、嫌味がないから女友達も多い。

 男子にとってはお城のお姫様も同然だった。燕の子安貝を持ってこいと夏香が言えば、学校から大勢死者が出るだろう。そういう存在だった。

 

「君と一緒に映画が見たい。いや、そうじゃなくて、つまり、君と一緒にいたい。好きなんだ。片岡のことしか考えられないくらい」

 

 下手くそすぎる告白だった。事前に準備していた言葉よりも長く、余計なこともつけくわえて、震える声で。

 ひとえに緊張していたからで、これまで彼女がいたことのない僕が、トップクラスの美人で人気者で陽キャの女子に告白するなんて、地球が驚きのあまり逆回転をはじめかねない珍事態だった。

 

 夏香から笑ってオーケーをもらったとき、エンパイア・ステート・ビルの屋上でUFOに向かって「僕は幸せです」というプラカードをかかげているかのように高揚しきり、もはや返事で何を言っていたのか覚えていない。

 どう考えても平凡以下のルックスで、成績も大したことがない、地味な僕が夏香のような女子とつきあえるわけがない、とすべてをはなから諦めていた。玉砕前提の告白だった。

 だから、夏香の彼女になれたという事実だけで、自分は世界中の非モテの男たちの頂点に立てたのだと叫びそうになった。

 

 しかし、ただそれを報告しただけなのに賢一けんいちから、

 

「夏香が鯛だとしたら、お前は海老どころかアオミドロだ。しょせん水槽の壁にへばりついて気持ち悪い糸状の藻みたいになって、掃除する人間さまから嫌われる存在。心して不純異種交遊をおこなうように」

 

 とさんざんに笑われてしまった。誰がアオミドロだ。僕と夏香じゃもはや種族さえ違うのか。

 

 友人たちからは「俺狙ってたのに」「ヤリチン」「爆発しろ」「思春期の探究心だけで勃ってるくせに」「いつか奪う」「絶対ゴムつけろよ」とボコボコに殴られた。

 ふざけているとわかっていたから、楽しかった。彼らは最終的に、僕と夏香を見守ってくれる最高の友達でいてくれた。たまに殴られながらも、遠くから応援してもらっていた。

 

 ただの友達だったころから、夏香が重度の映画好きだと知っていた。彼女はいつもタブレットを持ち歩いていて、配信サービスからダウンロードした映画を手当たり次第に見ているらしい。

 いつだったか、僕は彼女に連れられて、放課後の空き教室をひとつ使って一緒に映画を見た。有線イヤホンをひとつずつシェアして、隣に並んで座って。

 その時一緒に見たのは「オデッセイ」だった。夕焼けに染まる教室で見る火星の映画は、没入感がすごかった。

 

 最後、主人公とヒロインが宇宙空間で手を繋いだ瞬間、僕は夏香のほうを見た。彼女がふりむいたのはほぼ同時だった。

 数秒見つめあい、先に目を閉じた夏香と唇を重ねた。ただ触れるだけの優しい口づけ。手元からぴちゃんと水がはねて、波紋が広がるような。ふわりと身体が浮いて無重力をたゆたうような。好きだという気持ちを交換するような。

 あたたかくて、しあわせで。

 

 それが僕と夏香のファーストキスだった。僕らは夢見心地のまま唇を離し、見つめあって、それから僕は彼女の頬に自分の頬をすりよせた。

 すべての国の言葉をもってしても形容しがたい、甘くて、やさしい時間だった。



 

 僕は今、不思議でしょうがない。なくなったものが今、すぐ近くにある事実。禁断の領域に踏みこんでいるような背徳感。

 夏香が目覚めてもなお、僕は未来で待っている真っ暗な何もかもに気づきたくなくて、目と耳と口をふさいで、窓のない真っ暗な部屋でうずくまっているだけな気がする。



    ・ ・ ・



 担任の先生は医者から夏香の記憶喪失のことをすでに知らされていて、しかしそれがクラスメイトたちに知られることはなかった。

 事情を知っている村山も、周囲には口をつぐんでいるらしい。外傷が頭なうえ、現状は学校へ復帰する予定もないので、今は余計な騒ぎは起こさないでおこうという算段だった。


 もし登校すれば、夏香と普段仲のいい女子たち、つまり赤の他人が「夏香、大丈夫?」「記憶喪失なんだってね」「私は夏香の友達だよ、覚えてる?」などと質問攻めにすることは想像にかたくなく、脳を損傷している当人を刺激しかねない。

 

 僕はその日のすべての授業が終わって帰る前、賢一とひとみを呼びだした。

 一号館と学校のフェンスの間にある鯉の池まで連れてゆき、手入れもされていない雑草と木々の間にぽつんと放置されているベンチにふたりを座らせる。僕は立って鯉の池を見つめた。赤白黒のぼんやりとした影が、にごった水の中でからまりあっている。

 

 僕はここ数日、何度もはぐらかしていたふたりの質問に答えた。

 

「夏香は、逆行性健忘症だ」

 

 賢一は目を見ひらいて「そんな」と絶句した。

「ぎゃっこうせい、何?」と瞳が首をかしげると、賢一が簡潔に「記憶喪失のことだよ」と、世間に膾炙している単語で捕捉してくれた。物騒な四字熟語に瞳が息をのむ。

 

「幸いにも全健忘じゃないから、自分が誰かとかはわかってる。直近三年分だけの損失で、彼女が覚えてるのは中学二年までだ」

「記憶喪失って、現実にあるんだ。私、ドラマでしか見たことない」

「俺が聞いたのは」賢一が腕を組みながら言う。「F1レースで事故って、一時的に記憶喪失になるって話だけど。十代までの記憶しか残らなかったレーサーがいた気がする。そういうのは実際に起こったらしいぞ。でもまさか、こんな身近でなんてな」

「怖すぎだって。嘘でしょ」

 

 瞳は自分の両腕をかかえて首を横にふる。

 事実、目の前で起きていることだ。僕でさえやっと飲みこんだところなのに、まだ今の夏香に会っていないふたりにとって、納得するまでまだ少し時間がかかることかもしれない。

 

 自宅で療養するという話をすると、案の定瞳が立ちあがった。

 

「あたし、お見舞いに行く」

「言うと思った」僕は肩を落とした。「よく考えろ。中二までの記憶しかないってことは、高校から夏香の友達になった瞳のことは覚えてないんだぞ」

「それでも、あたしが顔を見せたら思い出すかも知れないじゃん。記憶喪失って、なくした部分にかかわるものを見たり聞いたりしたら思い出すって」

「でも夏香は退院したばかりなんだ。昨日だって、自分の部屋のレイアウトとか服装の好みの変化で動揺してたし。そんな中、慌ててあれこれと失った記憶の断片をかきあつめようとしたら、一番苦しむのは本人だろ」

 

「彰の言うとおりだな」考えこむように黙っていた賢一が瞳を止める。「今はゆっくり休ませておこうぜ。受験もからんでくる今の時期に、彼女に負担をかけたら余計ダメージになるだろ。少なくとも、三人以上でぞろぞろ見舞いなんていうのはやめておこう。俺と彰はともかく」

 

 賢一は中学から夏香と顔見知りだ。僕たちが別れたと聞いたあとは、彼も僕同様、立ち回りかたが分からず彼女と言葉を交わしていないらしいが、今の夏香ならそういったこともすべて忘れて、中学の友達として賢一と話せるかも知れない。

 しかし瞳は高校一年の時に夏香と初めて会った関係で、今の夏香にとって瞳は他人同然だ。

 

 瞳はしばらく傷ついたような目をしていたが、やがて「分かった」と肩を落とした。

 無理を通さないあたり、夏香を思う瞳の優しさが痛みに置き換わって伝わる。友人に自分のことを覚えていてもらえないというのは、どんな気持ちなのだろう。

 

 僕はほっとしてベンチに座った。賢一が「どうするんだよ」と訊いた。

 

「両親との話し合いに同席したけど、学校への復帰はまだ先になりそう」僕はこちらを気にせず泳いでいる鯉を眺めながら言った。「とりあえず、時間があれば彼女の家に行く。長い治療になりそうだから、今の彼女に必要なのは記憶を取り戻すきっかけを無理に見せることじゃなくて、一旦落ちつかせていくことだろうと思う。だから同中だった賢一は、あとで一緒に来てほしい」

「分かった」

「あ、賢一だけずるい」

 

 瞳が何かと文句をならべたが、僕は夏香と彼女の両親の意向を貫いた。「じゃあせめてこれだけでも」と言って瞳は女の子らしいかわいいメモ帳を取りだし、ピンクのペンで何事かをさらさらと書きつづった。

 それを複雑にたたむと、表に「夏香へ」とハートマークつきで書く。

 それを手渡された僕は、意図を理解して「りょーかい」と言った。

 

「何してんだ、そんな微妙なとこで」

 

 瞳の手紙を鞄に入れているとき、背後から話しかけられた。池を囲む木々の向こうがわで、村山が眉をひそめてこちらを見ていた。

 あー、と僕が返事に困っていると、隣の瞳が口元をおさえて小さく叫んだ。

 

「ユキくんだ」

「え、なんで知ってんの、しかもそのあだ名で」

 

 村山は大きなストライドで池まわりの石をまたいで歩き、僕たちの前に立った。

 

「よう、立浪」

「よっす。お前はもうちょい、自分の知名度を自覚したほうがいいぞ」

「いやどういう関係だよ」賢一は僕と村山を見比べて言った。「いつの間にそことそこが知り合いになってんだ」

「病院でたまたま夏香の面会時間がかぶったんだよ」

「ああ、やっぱ夏香絡みなんだ」

 

 村山は目を地面に落とし、薄く笑った。

 首にぶ厚く巻かれたマフラーで口元を隠し、その隙間から白い息を吐いた。わたあめのように固まった吐息が、ひび割れたガラスに似せて複雑に細い枝を伸ばす木の間に溶けてゆく。

 

「同じクラスの賢一と、瞳」僕はかるく友人たちを紹介した。「夏香絡みというか、俺絡みかも」

「どうも。村山とでも、ユキくんとでも」

 

 彼のはにかむような笑顔に、うわ、と瞳が艶っぽい声をあげる。

 夏香の彼氏だから、という不文律が成り立っている学年だが、村山が女子の目線を無意識に集めるのはあらがいようがないのだろう。

 

 僕は彼が違和感なく笑っているのを確認して、ゆっくりとたずねた。

 

「同中だった俺と賢一で、今から夏香の家に行くけど」

 慎重に、丁寧に言葉を選ぼうとする。「お前も来る?」

 

 だが、失敗したらしい。コップの底で角砂糖が溶けるように、村山は笑顔を消した。

 マフラーに顔半分をうずめたまま、僕から目をそらして「んー」と間延びした声で言った。

 

「やめとく。このあと部活だし。病院だって、結局あれから一回も行ってないし」

「夏香が」僕はもう一度、彼が悲しまないようにと願いながら言葉をつづった。「村山に謝りたいって言ってた。申し訳ないって」

「真面目だなあ、俺と会う前から」

 

 村山は目尻に皺を寄せて苦笑した。

 俺と会う前、という言葉をおそれずに使っている。彼の中でも、ここ数日でようやく飲みこめた話だったのだろう。

 自分と会う前の夏香。自分じゃない人とつきあっていた時の夏香。

 

「でも、それでも遠慮しとくわ。謝られるなら学校のほうがいい」

「お前も大概真面目だな」

「違う違う。家ってのがだめなんだ。病院とか学校だったら人の目があるから安心するだろうけど、夏香のプライベート空間に今の俺が行くのは、さすがにまた怖がらせる気がする。一応、知らない男だし。でも、気づかってくれてありがとうな。あそこの両親同席でいけそうなら、その時会いに行くよ」

 

 寂しそうに微笑みながら話す村山。

 怖がらせる、知らない男、という言葉を使うあたり、突き飛ばされたことがよほど堪えたらしい。

 

 下世話な妄想が頭をかすめた。村山は夏香の体に、どこまで触れているのだろうか。僕は結局、夏香を抱いたことが一度もなかったから、どうせやることやってんだろうな、と思うと嫉妬心にちいさな火がともる。

 だが、もしそうであるなら、体ごと突き飛ばされた村山の心境を考えて、火種が呆気なく消えた。ひとりで勝手に落ち込んだ。逆の立場なら絶対に立ち直れない。

 

 僕は薄々感じていた。贅沢な立場にいるのは僕のほうで、実はこの状況でいちばん苦しんでいるのは、夏香の次に村山なんじゃないか、と。

 それでも彼は夏香を第一におき、彼女のためにと考え、行動し、また行動せずにいる。

 

 彼のようになれず、僕はただ幸福にとまどって、笑顔になりながらもおろおろしているだけなのかもしれない。

 

 僕は首を横にふり、過去が戻ってきたわけじゃない、夏香が事故で記憶を一時的に失っているだけなんだ、と何度も自分に言い聞かせた。夏香は今、村山の彼女なんだから、と。

 しかし、村山が自主的に夏香から遠ざかろうとしている事実にほっとした、という僕の一瞬の気づきがわき腹をしつこくつついている。それも、痒くて仕方ないところをピンポイントで。

 

 自分がどうしたいのか、ぜんぜんわからない。

 

 僕の不安をよそに、村山は賢一と瞳を相手に談笑していて、いつのまにかLINEも交換していた。

 こういうコミュニケーション力の高さも、僕にない部分だ。

 

「じゃ、夏香によろしく」

 

 マフラーを口元まであげた村山は、僕たちに手をふりながら背をむけた。その後ろ姿からは、彼の感情はわからない。

 ただ、僕は自分を殴りたくなる衝動をこらえながら、体育館のほうへむかうその背中を見送った。



   ・ ・ ・

 


 いつまでも名残り惜しそうに「高校の友達が心配してるって言っといてね」とくりかえし、自転車に乗って走り去る瞳。

 笑って彼女に手をふり、僕と賢一は夏香の家にむかった。同じ中学校だったから歩いて行ける距離だ。

 

 賢一は夏香の家の前で「久しぶりだな」とつぶやく。中学の時は、僕と夏香と、もうひとり──その四人でよく遊んだものだ。休み時間も、放課後も、休日も、呆れるほど一緒だったのに。

 高校に上がった今、変わらずつるんでいるのは僕と賢一だけだなんて。

 

 インターフォンを押すと、夏香の母親に招きいれられた。あがらせてもらい、夏香の部屋のドアをノックしてあける。

 

「夏香、具合はどう?」

 

 夏香は白いカーペットの上にぺそっと座り、タブレットで「トップガン マーヴェリック」を再生していた。見てるんだ、と気づいて嬉しくなった。

 ふんわりしたピンクのルームウェアに包まれた細い身体がぴょこんと跳ね、彼女は満面の笑みを浮かべて「彰!」と叫んだ。

 

「来てくれたんだ」

「そりゃ、来るって言ったし」

「よう、元気そうだな」賢一が僕の横から出てきて手をあげる。

 

 夏香は一瞬息をのんだ。だがすぐに彼の全身を下から上まで目で追い、あ、と声をあげる。

 

「賢一だ!」

「忘れたなんて言わせねえぞ。偉大なる古田賢一様だ」

「やば、ちょっと髪切った? 背も伸びたよね。一瞬わかんなかった。そりゃそうか、みんな今は高校生だもんね」

 

 やはり、中学時代の友人のことは覚えているようだった。ハイタッチをする二人を見て、屈託なく話す夏香の笑顔がまぶしくて、僕は少し複雑な気分だった。

 夏香が記憶喪失の現状を受けいれはじめていることは喜ばしいのかも知れないが、自分の周りの人間がみんなすこし大人になっているという現実をここであらためて知り、どんな気分でいるのだろうか。

 

 夏香の母親が持ってきたミルクティーとクッキーを肴に、雑談に華を咲かせる。

 賢一は夏香の記憶喪失の経緯を聞きながら、興味を示すように何度も頷いた。最初に聞いた時に動揺し尽くした僕と違い、賢一は理屈に基づいて事実を受け入れているように見えた。

 

「それじゃあ、高校生になった覚えはないんだな。ガチで映画みたいじゃん」

「中三に進級した記憶もないよ。私の中では、私はまだ中二。私が知ってる賢一も中学生のはずなんだけど」

「むしろ永遠に中学生のままでいたかったよ」何言ってるんだこいつは。

「てか、夏香だって身体年齢は高二のはずだぞ。胸でかくなってるし」

「どこ見てんの、馬鹿」

 

 僕をどつく夏香を見て、賢一がゲラゲラと笑う。

 だが、ミルクティーをひとくち飲んで落ちついた賢一は、珍しく困惑したような表情で「あのさ」と言った。

 

「俺はこうして遊びに来てもいいのか? 彰は分かるけど。俺、夏香の彼氏でもなんでもないのに」

 

 それは先刻の村山の選択を気にしての疑問だろうか。

 僕はなかば夏香の答えを予想しながら、彼女の顔をのぞきこんだ。

 

 その言葉に、夏香は一瞬たりとも迷わずに答えた。

 花のような笑顔をふりまき、自信満々に。

 

「そりゃもちろん、友達だもん。家族以外に知ってる人、今のところ彰しか来てないから、寂しかったんだ。もっと遊びに来てよ」

 

 変わらず笑う夏香。僕と賢一も、つい笑ってしまう。

 中学時代、仲間たちで遊んでいたときの記憶が鮮明に回顧される。僕たちまで記憶を失ってしまったようだった。

 三人分の笑い声が響く部屋に満たされる、あたたかな空気。

 

 ああ、でも、昔はもうひとりいたのに──。

 

 記憶の奥底でわずかに煌めいた、しっぽのようなポニーテール。

 表情筋の力が抜け、その柔らかい痛みを伴う記憶に、視界が霧で一瞬覆われるような錯覚がした。

 

 ……村山と同じように、俺もまだ、あの子に謝れてない。

 

 ふと、下の階でインターホンが鳴るのが聞こえた。その音にはたと顔をあげ、笑顔で語り合う賢一と夏香を見た。ふたりは来客を気にしていないようだった。

 

「なんにせよ、元気そうで安心した」

 

 そう言う賢一に、夏香は極上の笑みで答えた。


「今はね。これからどうなるか分からないけれど。寝て起きたら記憶が戻ってるかなって思ってて、あ、今朝もダメだった、の繰り返し」

「なんとかなるだろ。彰もいるし、俺もいる」

「うん、ありがとう。なんか申しわけないね、私がドジったばっかりに」

 

 ドジったって? と僕がたずねると、夏香は「階段から落ちるなんて、ドシすぎるじゃん」と答えた。

 

 僕は走馬灯のように、夏香が僕を見ていた目を思いだし、あのとき届かなかった自分の右手をじっと見つめた。

 ありきたりな悩みだと分かっているが、僕がもっとしっかり手をのばしていれば、彼女は階段から落下して、記憶をなくしたりすることもなかったんじゃないか、と思う。それが免罪符なんだとしても、止められない。

 

 そして、同時に、粘ついた感情が一瞬、僕の頭をかすめた。

 きっと助けたとて、彼女は面倒そうにおざなりなお礼を言うだけで、すぐにその場を去って、そのままいつもどおりの、彼女に避けられる日々が──

 

 それなら、と思ってしまった自分を嫌った。痙攣しそうになる指をぐっと握りこむ。

 

 ここにいる夏香は確かに夏香だった。中学生の、僕が愛した夏香だった。そのことを喜ぶべきなのか嘆くべきなのか、いまだによく分かっていない。

 しかし、三人で話しながら思ったことは、闘病中の彼女が気負わず会話できる相手の僕がいて、それ自体は悲観すべきことじゃない、ということだ。

 

 村山との会話を思い出した。

 この状況に接して、もっとも近くにいたはずの人間がもっとも遠ざけられてしまった現実と、それを受け入れた本人。

 対して、もっとも遠ざけられてきた人間が近くにいて欲しいと求められ、周囲からもそれを認められている──できすぎた話だ。

 

 僕は夏香と賢一と一緒に、楽しく話をして、笑った。

 愛おしい感覚で全身のむず痒さを隠そうとした。

 

 そのとき、ノックののち夏香の母親が入ってきた。そして「賢一くん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」と言って賢一を部屋の外へ連れだした。

 何の用事なのかまったく予想もできない僕らは首をかしげ、顔を見あわせて「なんだろう」と言った。

 

 夏香はタブレットを立ち上げ、途中で止めていた「トップガン マーヴェリック」の画面を消した。そしてそのまま「トップガン」のサントラを流す。

 あまりにも有名すぎるテーマ曲が、映画好きの女の子の部屋いっぱいに広がる。戦闘機が吐き出す煙のように。

 

 夏香は鼻歌でその歌に寄り添いながら、僕を見上げた。

 

「一回見た素晴らしい映画を、記憶をなくしてもう一回見たい! ってよく言うけど」

 

 夏香はいたずらを思いついた子供のように、歯を見せて笑った。「本当にできちゃったね。高校生の私、羨ましがるだろうなあ。こんな最高の映画を、今の私は新しい気持ちで見てるんだもん。二人が帰ったら、すぐ続き見るからね」

 

 無邪気な声。一週間前、村山とこの映画の感想を語り合っていた夏香と同一人物のはずなのに。

 記憶をなくして最初から見たい、という映画ファン共通の願いを叶えた事実が、今、苦境に立たされた夏香の背中を軽く押している。

 

 励ましの言葉なんて、僕が言うべきことじゃない。

 

 彼女の肩を抱こうとすると、部屋のドアが少しだけひらいた。

 慌てて反発する磁石のように夏香から離れてドアを見ると、賢一が大きな花束と、小さめの紙袋をかかえて肘でドアノブを押していた。

 

「夏香が入院してるあいだ、これが届けられてたらしい。夏香の友達からの手紙とか、寄せ書きとか、なんか色々。どうしよう、微妙に見せづらい」

 

 僕は嫌な予感がして立ち上がった。賢一が差しだした紙袋の中には、手紙がたくさん入っていた。ざっと四十通近くある。

 ほとんどが女の子らしい柄で、表に「夏香へ」と書いてある。

 内容が簡単に予想できるそれらに、僕は顔を歪ませた。

 善意だろうが、この手紙の送り主は全員、夏香が記憶喪失だということを知らない。

 

 夏香のことを知っている、知らない人からの、知ったような事ばかり書かれてある手紙。

 今の夏香にとって、それがどれほど暴力的なものなのか。

 

 一番上に入れられた封筒の表裏を見て、歯の隙間から細くため息をついた僕を、夏香が呼んだ。

 ふりかえると、いつの間にか真後ろに立っていた彼女が、迷いと恐れを目に浮かべながら、それでも僕に手を伸ばしていた。黙って、何も語らず、弱音も吐かず。

 決心したようなその表情に、 僕は数秒、気圧された。

 

 一瞬、紙袋の持ち手を強く握った。これを知ることで夏香がどう感じるのか、分からなかったからだ。

 そう思っても、彼女の目からは逃げられなかった。そっと紙袋を渡すと、きゅっとむすばれていた彼女の口がゆるみ、やわらかな弱さを見せた。

 

 夏香は紙袋の口を広げ、中身を見つめた。

 しばらくとまどっているように黙っていたが、やがて紙袋の中身をカーペットの上にひろげ、その前にぺたりと座ってひとつひとつを見ていった。

 

 差出人のほとんどが同じ学年の仲良しの女子たちだ。男子からの手紙も混ざっているように見える。

 彼女は手紙を開封せず、差出人の名前だけを見て右と左にわけてゆく。

 右側には、僕も知っている中学時代からの友人たち。左側には、高校に入ってから仲良くなった新しい友人たち。

 

 夏香はカーペットに手をついて呆然とその山を見つめた。

 やがてデスクからカッターナイフを持ってきた夏香は、左側に寄せた知らない差出人の手紙を一通開封し、便箋を取りだす。

 

 となりで見ていた僕たちの目に入ったのは、あまりにも明るい口調で、かわいらしいイラストの便せんに、くすみカラーのペンで「早く元気になってまた学校で遊ぼう」などと書かれたありきたりな励ましの言葉だった。

 

 最初の数行に目をとおしていた夏香の黒くて大きな目から、涙がひと粒、ぽろりとこぼれた。

 それに続いて、ぼたぼたっ、とあふれる雫。

 彼女は手紙を床に落として、顔を手のひらで覆った。

 

「夏香」

 

 僕と賢一はあわてて彼女の目の前から手紙をよけ、肩を抱いた。

 子供のようにしゃくりあげる夏香の涙をぬぐい、僕は「無理すんな、大丈夫、俺がいるから」とささやいた。

 賢一は夏香の背中を撫で、「ごめん、悪かった、夏香」と何度も謝った。

 

 僕は瞳の手紙を渡せなかった。

 

 窓の外では、今年初めての粉雪が降っていた。

 冷たい冬が、いつまでも僕たちを脅迫している。

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