第2話


「どうして私はまだ生きているのかしら」

「死んでいないから、かなぁ」


 部屋の中に漂う華やかしい香りは目の前に置かれた紅茶から発せられていた。その香りを一呼吸、息を正してリュカは独り言のようにつぶやいた。

 この家はサイに連れてこられた家で、リュカの家ではない。

 本当はサイと別れてから別の場所に移動し、自死を図ろうと思っていたのだが、リュカが名乗ったあとサイが急にぽろぽろと大粒の涙を流して泣き出してしまったのだ。

 しかもサイはリュカの泥だらけになった服にしがみついて離れようとしなかった。そのためリュカはサイを家まで送り届けることにしたのだ。

 そうして家にあがるように促されて、リュカはこうして用意された紅茶を前に木製の丸椅子に腰掛けていた。


「リュカ! このお菓子美味しいよ。スニーおばさんの手作りなんだ!」


 大きな声とともにキッチンから顔を覗かせたサイの手に握られた皿には、黄金色こがねいろのクッキーが積まれていた。

 それをサイは紅茶の注がれたティーカップの隣に置き、リュカの隣の席に腰掛けた。


「スニーおばさん?」

「僕の隣の家に住んでいるおばさんだよ! たまにこうしてお菓子をお裾分けしてくれるんだ」

「そうなの。ありがとう」


 リュカが尋ねると笑顔で答えるサイに礼を述べ、クッキーを手に取ると一口頬張った。

 硬すぎず、しっとりし過ぎていないクッキーの食感はなかなかに良かった。しかし一言素直な感想を述べるのであれば、甘い。このクッキーはリュカが今まで食べてきたクッキーの中でも一番と言っていいほど甘かった。


「紅茶も飲んでみて?」

「え、ええ」


 サイに促され、リュカは紅茶を口にする。すると先程まで口内を占めていた甘さが緩和され、程良い甘さに変わる。

 どうやらこのクッキーは単品で楽しむものというよりは、紅茶とセットで頂くもののようだ。


「……美味しい」


 久しぶりに口にした糖分にリュカが思わず頬を緩ませると、サイは嬉しそうに目を細めてリュカを見つめていた。


「ふふ、スニーさんの作るお菓子は結構甘いものが多いから、もし甘いのが苦手なら気をつけてね」

「食べたあとに言われても」


 リュカとサイの座る席の向こう側、先程からちょくちょく話に入ってくる男性はノルと名乗り、リュカがサイを家まで送った時たまたまこの家に遊びにきていたらしい。

 サイを家まで届け、その場を離れようとしたリュカを家にあげたのも彼だ。

 サイの話によるとノルはサイのおじいさんの友人らしいが、少し信じがたい。

 ノルの見た目は二十代程度、サイの祖父とはかなり歳が離れているように思う。もし本当に友人なのだとしたら随分と年の離れた交友関係なのだろう。


「ほら、甘いものを食べると気分が落ち着かない?」

「……たしかに。ほっとするわ」

「そっかそっか。ならよかった」

「おかわりはまだまだあるからね!」

「ああ、いや、これ以上は……ちょっと」


 サイたちの好意はありがたいが、あいにくとリュカの体はこれ以上の食べ物を受け付けようとしなかった。

 なんせまともな食事をとることすら久しぶりなのだ。食べないうちに小さくなった胃は食べ物を受け入れる許容範囲をかなり狭めていた。


「顔色も悪いし体も細い。このままでは倒れてしまうよ?」


 ノルは自身の紅茶を口にするとリュカの身を案じてそう言葉を放った。

 ノルの言う通りだ。今のリュカの体はお世辞にも健康的とは言えなかった。

 随分と長い間、まともな食事をとることもできずに日に日に細くなっていった体。過酷な環境にいたために薄汚れていったワンピース。手や足には多数の傷ができていて、目の下にできたくまの原因は寝不足か精神的なものか判断ができなくなっていた。


「いいわよ。私は元々死に場所を求めていたのだから」

「リュカ……」


 ノルの心配を他所に、リュカの冷然とした声を聞き、サイは悲しそうに眉を下げた。

 嬉しそうに笑ったり、悲しそうに泣き出したり、感情豊かな子だ。


「……ごめんなさい。なんでもないわ」


 サイの悲しそうな表情を見て、こんなこと子供に聞かせるものではないと、リュカははっとして謝罪の言葉を口にするとそのまま口をつぐんだ。

 今、口を開けばネガティブな言葉しか出ない気がして、口を開かないのが得策だと考えたからだ。


「ね、ねぇリュカ。僕、リュカのこともっともっと知りたいな」

「おや、サイがそんなことを言うなんて。リュカ、きみは相当サイに懐かれているようだね」

「そうなの、かしら」


 少し驚いた様子のノルの言葉に、リュカはたどたどしく口を開いた。

 わからない。サイが本当に自分に懐いてくれているのか。サイがなにを思ってリュカに優しさを分けてくれているのか。

 そもそも人と関わるのはどうすれば良いものだったか。なにを話して、なにをして、どう接するものだっただろう。

 もう、思い出すことができない。


「サイは結構人見知りなんだ。だからサイが誰かをこの家に連れてきた時点で驚いたし、初対面の人と難なく話をしていることにも驚いているよ」

「うっ、だって、初めましての人はちょっと……怖いんだもん」

「いや、べつに俺はサイを責めているわけではないんだよ」

「そっかぁ」


 人見知りのサイ。そんなサイが自らリュカとの関わりを持とうとし、人見知りながらも懸命にリュカに声をかけ続けてくれている。

 それが少し嬉しくて、リュカはその気持ちに応えたくなって、少しばかり自身の過去を思い出す。


『すまない、きみとの――』

『私がリュカの分まで愛されてあげる』

『――お前はもういらない』

『騙されたんだよ、アンタは』

『逃げようとすれば殺される』


「――っ!」


 少し振り返ろうとしただけでフラッシュバックする記憶。

 楽しいことなんて一つもなかった。ただただ無情で、残酷な記憶が、思い出したくない悲しい冷めた肉の感触が、現実だけがそこにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る