転校が決まり、担任に報告する

 その翌日、俺は編入試験の合格通知を受け取った。それを鮎沢家勢揃いの夕食の席で報告した。

「――良かったわ」叔母の玲子れいこが真っ先に祝福してくれた。

「何でも合格すれば良いのか、お前」叔父の歳也としやは素直に祝福できないようだ。そんなことを叔母さんに言っても仕方がないだろ。

「環境が変われば世界観も変わるわよ。決めるのは火花ほのかだわ」叔母はいつも前向きだった。さすがは元教師だ。

 一方、従妹の飛鳥あすかはどちらかといえば叔父寄りだった。「火花ホノカにいが行くって言うのならそれでも良いけど……」

 雷人らいとは黙って聞いている。

「あっちの家は学校法人の理事もしているから試験は形だけだぞ。零点でも通ったんじゃないか」祖父の晴明はるあきが身も蓋もない言い方をした。

「何だよ、それを先に言ってくれよ」俺は呆れた。あの苦労は何だったんだ?

「言ったじゃろ」祖父じじいは手酌で飲んでいた。「学校が始まるまでにやっておくべきことを全て片付けておくことだな」

 祖父じじいの言葉を俺は胸に刻んだ。


 そしてその翌日から忙しくなった。

 学校では周囲の者に知らせた。

 軽部かるべをはじめとする悪ダチどもは驚きはしたものの私立の高校に編入することを冷やかした。

「――お坊っちゃまになるのかよ」なれたらな。

「――高校再デビューだ」確かに。

 考えてみれば涙を流して別れを惜しむ奴らではなかった。

 ふだん絡まない生徒は全く無関心で、不良が一人減って平和になると考えた者もいただろう。

「静かになって良いわね」学級委員の佐内一葉さないかずはは言った。

 その言葉は表向き辛辣しんらつに聞こえた。しかし一葉かずはの憎まれ口が時としてその真逆であることを知る俺は複雑な心境になった。

「ここに残ったとして、二年でも同じクラスになったかわからないだろ?」

「学校全体が静かになるのよ」

「そこまで影響力ないぜ」

「あるある」言い捨てるようにして一葉は自分の席についた。


 昼休みに俺は職員室を訪れた。改めて担任の芦崎あしざきに報告するためだ。

「先生、編入が決まりました」

「それはおめでとう?」芦崎の語尾が上がった。

叔父貴おじきみたいな反応やめて下さい」

「住み慣れた家を出るというのは大変なことよ」

「先生、一人暮らししたことあるのですか?」

「ないわ。ずっと実家暮らし。でも想像しただけで大変だとわかる。日々の食事を用意するだけでも大変」

「先生、誰かに作ってもらってるのですね」

「ええ、母に」恥ずかしげもなくそういうことが言えるようだ。

「先生は料理とか何でもそつなくこなすイメージがありますけど」

「一応一通りできるわ。しかしする気がおきないの。自宅に帰ると疲れてしまって」

「大変ですね。何がそんなに先生を疲れさせるのでしょう? ひょっとして俺?」

「確かに鮎沢あゆさわ君の編入の件でイレギュラーな仕事が増えたのは事実よ。でもそれは些末さまつに過ぎません」

「すると他に先生の手をわずらわせることがあるのですね」

「それは……」と言いかけて芦崎は口をつぐんだ。

「もしやそれは生徒ではなく――」ここで俺は芦崎に近寄り囁くように言った。「――職員室にいる先生方では?」

「そんなことはないわ。断じて」はっきり否定すると肯定のように聞こえる。

蒔苗まかない先生とか西銘にしな先生なのではないですか?」

「何を言うのです?」俺を見る目が綺麗すぎる。

「俺、とっても心配です。このままでは転校どころではありません」

「せっかく決まった話を白紙に戻すのですか? それが今の君の本当の気持ちなら仕方がないけれど……」

「正直なところ、俺にもよくわからないっす。何をすべきか。ただひとつ言えることは、芦崎先生の曇った顔は見ていられない、ということです」

「……またひとつ悩みの種が増えました」

「は?」

「――本やドラマで見たり聞いたりしたセリフを使ってみたい年頃なのは理解しますが、乱用しないで下さい」

「ということは、そんな臭いセリフを言うおっさんが身近にいるのですね?」蒔苗まかないだろうと俺は思った。「そしてまた、そういう臭いセリフを聞くことのできるドラマを観たり、あるいはそういう本を芦崎先生は読んで

「君らしくない言葉遣いだわ」

「先生に合わせました」

「確かに自宅にいる時にリビングのテレビで映しているドラマを目にすることがあるわ」

「先生、自分でチャンネル合わせるんじゃないのですか?」

「母が観ているのよ」

「うちでも叔母が観ていますね」

「昔は男女の絡みがあるようなドラマだと母はすぐにチャンネルを変えたわ」

「それって子供の頃の話ですよね?」

「ええ、そうよ。でも今は違う。わざわざ私に見せつけるようにそういうドラマを選んで視聴しているわ。だから嫌でも目に入ったり耳に入ったりする」

「その言い方だと本当は観たくないのですか?」

「そんなことはないわ。私も向学のためドラマ鑑賞することがある」

「先生はドラマも勉強のために観るのですか?」

「そうよ、他にどのような理由があるというの?」

「単純に娯楽として」

「どうして娯楽になるのかしら?」芦崎が首を傾げた。「特にあのような男女の絡みが娯楽になるとは思えない」

「娯楽ではなく、勉強のためなら鑑賞できるというわけですね」

「そうです」

「そうまでして勉強する理由は何なのでしょう?」

「さすがにこの歳になると親から結婚しないのかというプレッシャーが強くなります。私がいるところで恋愛ドラマを観たりするのは私へのプレッシャーなのでしょうね」

「結婚したくないのなら無理にする必要はないのではありませんか?」

「そうですね。確かに、そうだわ」

「それに結婚よりもまずは恋愛ですよ」

「それこそ本やドラマの世界の話だわ」

「先生……」火花は職員室の耳年増たちに聴かれないようさらにいっそう声を潜めた。「もしや現実の恋愛経験がないのですか?」

「ないわ」

「失礼ですが――処女ってことですか?」そういうことを平気で訊けてしまうのが俺の性質しょうがいだった。

「――当然だわ。

「え、未婚だから、ですか?」そこからして実社会とずれている。

「――先生、そのプロフィールを誰かに話したことがありますか?」

「いいえ、訊かれたことがありませんから」訊かれたら答えるのかよ!

「――訊くはずもないでしょう。未婚ですから当たり前のことです」

「はあ……」話にならない。

「絶対に誰にも言ってはいけませんよ。特にこの学校の人間、蒔苗まかない先生とか西銘にしな先生にも」

「意味がよくわからないけれど、鮎沢君がそうまでして言うのだから大切なことなのでしょうね。わかりました」

 教室ではしっかりしているのにそこ以外では浮世離れしたところがある。

 まさか蒔苗にとりこまれることはないと思うが、この女性をこのままおいて去ることに俺は不安と心配を覚えた。

 その蒔苗と西銘は少し離れたところにいて、話は聞こえないようだがこちらの様子を窺っているのは明らかだった。

 いっそのこと蒔苗と西銘がくっついた方がだと俺は思った。

 しかし西銘が本気で蒔苗に近寄っているとも思えない。

 西銘はただ蒔苗が芦崎に求愛行動をしていることが気に入らないだけなのだ。それがなければ蒔苗には近寄りもしないだろう。

 全く面倒くさい連中だ。

 そしてまたこの三人の関係がこれからどうなっていくのか気になる自分も面倒くさい男だと思った。

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