征野.下 十六夜ふ空や人の世の中

「斬れ」

「えっ……」


 父の光れり赤眼が、最勝を凝視する。

 本日の最勝は、みずからの腕前で標的を討つにあらず、ただ放火魔を演じただけにすぎない。すなわち、戦果を挙げているように見えて、じつのところ実績は積まれていないのである。

 毘沙門天は、それを看過せず、最勝に練習台を用意していたのだ。


 最勝は、戸惑った。

 この母子を殺せば、自分はなんらか越えてはならぬ一線を踏んでしまいそうで、恐怖に駆られる。だが、父はこれを強要しているのだ。

 かたわらでは、ひざまづきし女人が、ひとの哀憫をさそうような眼差しで、最勝を固唾かたずを呑んで見つめている。最勝が母子を斬るにためらうのも、無理はない。


 最勝は、自分の利己心と父の命令とのはざまで葛藤した。

 みずからの腰にげている直刀は、母子の命を奪うにか、はたまたその縄をほどくにか、どちらの正義のために存在するのであろう。


よう」


 毘沙門天が、最勝をせかした。いて切羽詰まらせ、ごたくさするあいだにまぎれて、女人の首を斬り落とさせようとしたのである。

 さすればついに、最勝は土壇場に立たされて抜刀した。だがそれは、母子を斬るがためではなかった。

 

「お逃げ——」


 最勝はやおらうずらみて、女人の耳元でそうささやき、直刀で母子の縄を断ち切ったのである。最勝が下した決断は後者、母子の救済であった。

 これで父に叱られようがかまわない、この判断に落ち度はないとつくづく思い、信念を徹したことにわれながらエゴイズムにひたる。最勝は、恩着せがましい捕虜の解放を、さほど深刻にはとらえていなかった。


 ゆえに、最勝のこの判断が、大きな罪禍をまねく。


「おのれぇ!」


 突然、母が赤子を放り捨てるや奇声を張り上げ、最勝に突進した。頭突きされた最勝が尻餅をついたところで、その右手に握られし直刀をただちに奪う。

 すぐさまには、自身を縛った仁賢に矛先を向けるなり突撃し、この心臓を貫いた。そして拍子に、放棄した泣ける我が子などにはかえりみず、自分の命ほしさに逃走をはかったのだ。母、いや鬼女が、蜘蛛のように地を這って、やぶの中へ逃げ込もうとする。


 しかし即座に、侍従の満賢が射撃し、かの鬼女を射殺いころした。さしたる大事にはいたらずに済んだものの、最悪の場合は毘沙門一軍が鬼一匹を取り逃したとの汚名がつく。

 あやうく、希臘ギリシア王ファッローの信頼を失うところであった。


 最勝は、地面に尻餅をついたまま茫然として、慈母に棄てられし赤子を眺める。理想と現実に確実な一糸が引かれるさまを、いま目の当たりにしてなにをかんぜようか。

 すっかり路頭に迷う最勝であった。


 やがて、この眼前に、父の両足が立つ。足元の赤子に蜈蚣柄の剣を突き刺すや、その胴体が裂けて死すに泣き声がやむ。

 もっぱら静寂と化した空間に、赤眼の一声が響く。



 かの、最勝率いた毘沙門軍は尊い一名の犠牲者を出した。たったのされど、その一名は毘沙門天が筆頭八大夜叉大将の一人であった。名は仁賢、鬼女の殺傷により還らぬヒトとなる。

 これにより、一席空いた八大夜叉大将には、新たに満賢が任命された。満賢は、こんにち現役で八大夜叉大将をつとめる一刀となるのだった。


 以上、最勝にとって初陣の思い出は、にがくして脳裏に深く刻まれている。

 それでいて、今の嗣子ししを最勝たらしめたもう、ひとつの裏話である。

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